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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

悟りのプロセス(4) そのままなり

2008-12-13 12:41:08 | 偉大なる先達の言葉

●難しいから悟りなのか?

 「悟り」という言葉には、何か高尚で手の届かないイメージがあるようです。それは「悟り」という言葉と、歴史上の先達の神々しいといわれる程の伝説や、記憶を垣間見ることで得られる、おのれとの圧倒的な意識ギャップを感じるからでしょう。凡人には到底、あのようなありようは不可能であり、あのような艱難辛苦も解脱も出来るはずもない、それが出来るのは、彼らが特別な魂であるからこそである。・・と、思っているものです。

●苦難をすでに越えている我々

 しかし艱難辛苦は我々のほうが多いかもしれないと考えた事はあるでしょうか。いまのこの地上に生きていることが、あなたやわたしにとって、決して理想の状態であるとは思っていないはずです。物質が豊富か少ないかは別にして、幸せを請い求めている状態、すなわち多なり少なりの困難と不安を感じる世界に生きているのではないでしょうか。この世界にあるということは、多くの意識存在にとって、すでに試練の場にあるといっても間違いとは言えないでしょう。うかうか出来ない油断のならない世界、決して楽しい・嬉しいことばかりではない世界に生きていると、誰しも感じているのではないかと思います。我々皆、今ここにいると言うことは、経るべき苦楽をすでに経験した魂である証拠ではないかと思います。

●違わない本質

 悟りを開いたといわれる、覚醒したといわれる存在達の魂が、特別であり、我々とは違うのだというのは一体どうして解るのでしょうか。ブッダやキリスト、ムハンマド、荘子、日蓮、ヨハネ、マルクス・アウレリウス、道元、空也・・・歴史に残る数々の先達は、我々と違う存在なのでしょうか。実は、そんなことはないことは、潜在意識ではすでに皆知っているはずなのです。

 では彼らと我々の違いは何でしょうか。確かにここが問題でもあります。一体何が違うのでしょうか。確かに簡単な問題ではないのですが、実は、この難題の原因は、外の何者か、あるいは社会の制度、他人の有り様にあるわけは無く、まさに自分自身にある事も、すでに解っているはずなのです。違いを作り出しているのは、結局は自分自身の観念でしかないのです。

 「到底あり得ない」「とんでもないこと」と肩をすくめ、意識的にあるいは無意識的にその「違い」をわざわざ設けている自分達に気づけるでしょうか。民主的だという今の世の中にいる人々がよく言う、「人間、皆同じだよ」という言葉は、これには適用しないのでしょうか。人間に例外や区別があるものでしょうか。

 偉大と言われる魂達と、そうでないと思っている魂達との違いは、まさに、その違いを設けていないか、違いを設けているかの違いでしかないのではないでしょうか。ひょっとして、後世の難しそうな教義や体系は、その違いを、ことさらにうず高く積み上げたあげく、結局はその輝きを見えなくさせているような迷路になってしまったのかも知れません。元々そこにあるものが、単純な真理が、もっとも難しく、分けがわからないものとなっているのかも知れないと考えた事はあるでしょうか。確かに、末法の世とはそのようなものかも知れません。

●本質は、量で計るものではない

 価値あるものは、その分難しいものであるという・・思考がいつもそこにあるでしょう。気がつくかも知れないことですが、大きな物量はそれだけ重いものだという、物理世界の観念が、全てにおいて当たり前のことのように染み渡っているようでありす。我々は不完全であるがゆえに、完全を求めて流離い、獲得して行くことで充実していくものだという考え方でもあります。 不完全な人間であるからこそ、努力して完全になってゆかなければならないのだ、という常識的な見解は、どの様な人にとっても大きな違和感はないと思います。

●不完全という誤謬遊び

 不完全なものはないということを理解出来るでしょうか。あどけない子供達は不完全でしょうか、知識がないことが不完全で、未完成なのでしょうか。年寄り達は子供達より知識や経験がありますが、それは完全に近づいているという証拠なのでしょうか。身近にいる動物達は不完全なのでしょうか。人間になれない可愛そうな生命なのでしょうか。道端に咲いている黄色や赤の草花は、人間の家の庭に咲いていない哀れな自然種なのでしょうか。太陽は不完全に燃えているのでしょうか。大気は、不満だらけで雨を降らせているのでしょうか。

 我々の身の周りにあるもの、そこにあるものが、不完全で、未到達で、未完成であると一体誰がそう思うのでしょうか。世界が苦渋に満ちたもの、常に理想へと改善されるべき未完成のものであると思うのは一体どうしてでしょうか。

●観えるのは自分の投影画

 それは、我々自身が我々自身をそう観ているからに他なりません。常に改善されるべきなのは、外の世界ではなく自分自身なのであるということに気づくことが、そんなに大それた事ではないでしょう。我々の外と感じている感覚世界は、我々の鏡と考えて良いでしょう。我々の心持ち次第でどの様にも変る世界であることに気づくべきであると言うことこそ、偉大なる先輩達の繰り返し繰り返し言ってきたことだと思えないでしょうか。

 ただ、世界が自分の都合の良いように現象として変るのか?と考えるのは、これまたエゴイスティックなご都合主義でしょう。あなたやわたし達のいわゆるエゴ的な希望をホイホイ叶えてくれるような変わり方ではありません。今までとなんら変らない世界を見る、わたし達の目が変わる事であり、その結果、ビックリするほど様変わりする風景に接する事になるのです。

●世界はすでに理想として在るもの  

 世界が変ってくれて、そうして我々がそれを享受するのだ・・という他人任せの思考、自立していない依存思考は、それこそが克服すべき事でもあります。非常に微妙なところでありますが、自分が変らなければ決して自分のいる世界は変らないのが真実です。

 理想を求めるこころや行為は、それすなわち、理想がいつも求める先のその向こうに、あることを意味します。決して得られない先に・・・。理想は今ここにあるものです。ことさら悩んだり、空想したり、苦しんだりせずとも、今ここにあることが理解出来るでしょうか。我々の生きて在る世界は、そのまま「大いなる存在」の創り続ける世界であり、様々に変化しつづけるかつ完全な世界です。その一部である我々は大いなる存在自身でもあり、そうであればこそ、小我を静めて今在る世界を、そのままに、まともに見ることが出来て初めて、理想を発見することになるのです。

●内と外のパラドクス

 この大いなるパラドックスこそ、今の我々の試練とも言うべきものであり、尤もらしい苦労の為の苦労や栄耀栄華は、それ自身そのための試練ではないことを知らせるためのものであるわけです。

 今ある現実こそ、我々のもっとも相応しい鏡像であり、そこに悲しみや苦しみ、虚栄や逃避を見るのであれば、我々自身を振り返るべきであることにどうしても気づかざるを得ません。 どうしても最後に残る難題は、自分自身なのでしょう。自分の難題であれば、自分次第でこそ解す事のできる問題ということであり、そんなに難しいものではないのです。

 問題を創るのは自分であれば、問題を思い切って創らなくするのも自分であります。問題を創るのが楽しい場合は永遠といえる時間の間、それを作り続けることも出来るし、問題を創らないことも出来るわけです。我々がカルマや因縁などと言っている原因になりそうな、様々な問題・トラブルなどの経験は、大いなる生命の中でのほんの寡少な経験であることは知っておくべきでしょう。

 自分が変れば、まさにそれに丁度相応しく周りが変ることが、創造の基本パターンであり、その都度そのままその時の理想でもあると考えるのが、合理的と思えないでしょうか。

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今、不幸だと思っているのならば、今生きて在る、当たり前の幸せを感じましょうか?

   幸せは、ハッキリと心の状態以外のなにものでもありませんから。 

今、孤独と感じているならば、目の前の大勢の仲間や世界をよく見ましょうか?

   皆同じ仲間であり、無限の向こうにいるあなた自身でもありますから。

今、不本意だと感じているならば、目の前の越えるべき教訓を掴みましょうか?

   後で振り返ればいつも良かった・と思うのが教訓ですから。

今、不安だと感じているならば、世界が今日も明日もあることに安心しましょうか?

   あなたの不安は決して誰かが消し去ってくれることはありませんから。

今、地球が心配ならば、しっかり残されている美しい自然に心から感謝しましょうか?

   わたし達の「身体」は、美しい地球の「身体」からの一時期の借り物なのですから。

今、欠乏していると感じているならば、自然にある途方もない豊かさを見ましょうか?

   但し、ポケットには入らない多種多様・無限大の豊かさですが。

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「悟り」は今在ることをそのまま受け入れることであり、無軌道な思考や感情の創り出す心の状態でも、巨万の富で安心する状態でもありません。

「今在ること自体が悟り」の境地であることは、言葉では表し様がないかもかも知れません。そのままであり、どうもこうもない?当たり前の、「今」の「瞬間」ということです。無限に在ることができるのは「今」をおいて他に有るでしょうか? いえいえ、とうてい議論の余地などあり得ないでしょう。

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ソー・ビー・イット  (ラムサ)

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レット・イット・ビー  (ビートルズ)

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わたしを信じてほしい

あるがままのあなたとして在ること、それ以外何も必要ないのだ。

あなたが獲得することによって、あなたの価値が増加すると想像している。

それは金が銅を加えることで、それを改善するだろうと想像しているようなものだ。

あなたの本質にとって異質なものを除去し、浄化し、放棄することで十分だ。

それ以外の全ては無駄なのだ。   (マハラジ)

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それはまさに、それであり、今、全てが在る。

    

Nature1008

     

 いつもながら、拙い記事をご覧頂きまして、誠ににありがとうございました。


悟りのプロセス(3) 「今在る」真実

2008-12-07 09:06:59 | 偉大なる先達の言葉

●色即是空

 形ある物は空(くう)に消え、また空から様々な形が現われる。これは我々をとりまく現象世界の根本的な仕組みを言ったものです。諸行無常も同じです。全ては変化変遷(色)するものであり、そのためのあらゆる可能性を育むものが空(くう)である、ということでしょう。眼に見えないからこそ、眼に見えるものに転化顕現できるわけであり、可能性は無限であるからこそ、変化し続けるということです 。

●空の無限想起

 人々はいつも目先の現象にこだわり、肉体維持のため、いつも何かを確保し、溜め込んでいくようです。そのように、目先の基盤であるおのれの肉体を維持しようと悪戦苦闘ののち、真実を知った時には、せっかくの努力が結局、露と消えるものであったと落胆するような感覚も出てくるものです。諸行無常、全てははかないものだ・・・などと感じるものでしょう。

 しかしながら、消え去るものは、あくまでも形、物、風評等でしかないのです。意識作用自体、また意識的成長自体は決して消える事はなく、形を現すための空(くう)に記憶されます。記憶と言っても量的追加ではなく、無限にあるものの中の「想起」ともいえるものです。空(くう)は常に全ての可能性を含んでいるからです。結果は無常であり変化し続けるが、原因自体は不変ということに気づけるかもしれません。

●函数と変数、不変と変化の諸相

数学的なアナロジーでこじ付け風に言えば、「変数」は変り続けるが、「函数」自体は変らないようなものです。例えば極めて簡単な例ですが、y=f(x)という函数を眺めれば、 

f(x)の、変数 x は様々に変るのに、函数自体 f( )は常に変らざるものです。

f( )の( )は空(くう)である必要があるでしょう。

f は法則、 x は変化する意識、 f(x)は、その時々に生起する意識作用を現し、y=f(x) は、生成変化する様々な諸現象をあらわします。

●諸行無常

 たとえば、あの西行法師の、ぼろぼろの法衣と、諸国行脚の姿絵を見たことがあるかもしれません。詠み残された歌をとおして、世界はなんてはかなく無常なものであると、思ったこともあるかもしれません。それからは、確かに昔も今もある、変らぬ現実の、一見確たる世界や生活が、実ははかなく消え行くものだという「無常観」を感じさせ、その時そのことが理解できる者にとっては、どうしようもない逃げられない真実として受け止められるようです。

 1つの悟りに接すると同時に、せつなさと哀れみをも感じさせるかもしれません。胸の辺りにかすかなうずきを感じながら、「悲しいけれど、これが真実であろう・・・」という感覚を持つかもしれません。

●無常観は本質の自己の目覚め

 無常観というのは、現実の世界に浸り、様々な経験と思いの変遷を繰り返した挙句、なるほどそうなのかという、ある種の「悟り」に至った人の意識状態を現しています。生まれてから、外界に精一杯伸ばし続けた意識、何かを求め続ける切なる五感感覚の先には、実のところ、決して希望や理想や幸せは見い出せないのだ・ということに、否応なく気づく瞬間が誰にも訪れるものです。その時感じるのが「無常観」だと思われます。

 そのときには、あたかもすべてが崩壊するような感慨に襲われるかもしれません。まさに砂上の楼閣が壊れるような、そんな切なさを感じるものでしょう。それは、無意識に張り巡らせ、求めに求めた、意識の放射が、外から内に回帰する、そんな質的転換をも示しています。その瞬間は、走馬灯のように一瞬で回顧するような、瞬間的な「悟り」となって立ち現れます。追い求めていた物や形や名誉、権威等ではなく、実は我々の生きることで得られる体験自体が、最も大切な財産であったのだと、真に理解出来る瞬間でもあるのでしょう。

●「いま」内なる真実を観る時

 外から内への劇的な変換の瞬間であり、内なる魂への帰還と言ってもいいかもしれません。吐く息から、吸う息に戻るような、そのような瞬間でもあるのです。 自己をとり巻く世界は、自己の鏡であるということに気づく瞬間でもあります。まさに鏡が鏡であると気付く瞬間です。見るべきは鏡ですが、本質は鏡の中にはないことは明白です。外の世界はホログラムであるということと同じ意味をもっています。

●生と死は、単に表と裏

 我々はとりあえず生きながらえる為に、出来る範囲であらゆる努力をしています。お金も株も地位も、権力も、能力も知識も、生きる為の「ツール」と認識しており、その獲得の為のあらゆる努力を惜しまぬ姿勢は、あなたもわたしも同じなのではないでしょうか。人々にとってもっとも忌み嫌うもの、それは、「死」というものでしょう。これを回避すべく努力することで、科学や技術、医療、そして政治や陰謀などが起きていると言ったとしても、あながち見当違いとは言えないのではないでしょうか。

 しかしながら、それら形あるものを、否応なく、全て手放すことになるのが、死というプロセスなのです。

 悟りの瞬間は、まさに人間の死と同じようであり、1つのハードルを乗り越える瞬間に他なりません。世間でいう死、それは顕在意識によるものではなく、潜在意識及び肉体の要求にもとづく、肉体の自己消滅を現し、まさに「色」から「空」への変化です。しかしながら、近視眼的な捉え方は本質を見逃してしまうかも知れません。死は、世間で言うような怖くていやな現象、すぐに忘れてしまいたいものではなく、無限に大きな生命システムに基づいた壮大な仕組みでもあり、たとえ無意識であったとしても、本来の自分に戻るための、いわば自動仕掛けの恩寵の仕組みでもあるのです。

●生と死の「観念」を捨てる

 本来悟りは、生きてありながら生と死のハードルを乗り越えることであり、「生と死の観念」の衣を脱ぎ捨てることと言えるでしょう。全ての執着を捨て去り身軽になったことで、結果、自然にハードルを越えることでもあり、その飛び越える自分自身を発見して驚くことであるかも知れません。肉体に有る楽しみ、苦しみ、また絶頂と地獄の感情起伏、絢爛豪華な、はたまた苦渋と忍耐の体験の数々、集団無意識という厚いベールの下で生きる重い経験、そのような波乱万丈の生体験の繰り返しの中にありながらも、その度にいつもいつも自分自身に戻ることができるのは、まさに死というプロセスのおかげです。あたかも、お役を演じていた様々な芝居の舞台から、本来の役者である自分に戻ることが出来る瞬間です。本来の記憶を取り戻す瞬間ともいえるでしょうか。

●捨てて得られる「永遠の今」 

 本来我々の持てるものは何も無いということは、すなわち全てをもっているということでもあるということに気付けるでしょうか? 我々が全ての可能性を含む「空」であればこそ、千変万化する世界で遊べるのかもしれません。捨ててしまえば何も無くなる!という恐れは全く意味がないでしょう。なぜなら、執着を捨て去るということは、恐怖をも捨て去るということなのです。「恐怖」が捨て去られたあとに、一体全体、果たして「恐怖」する事があり得るでしょうか

●今わたしは在る

 自分にあるものはまさに「今」の自分だけという、あたりまえの原則に戻るときには、過去という記憶の中にある様々な思いが立ち現れ、全てが懐かしさ、ありがたさとなってしっかりと魂に記録されるものです。全てが「わたし」のためにある、これ以上の愛を思いつくことが出来ません。

「今」しかないという事実に気づけば、過去の生誕も、未来の死も、本質ではないことがわかるかもしれません。

「今・わ・た・し・は・在・る」 ことは、・・即ち、変化しながらも、永遠に「今わたしは在り続ける」 ことを明確に示しています。これが本質であり、また「あなた」が今、存在していなければ、世界も存在などしていないのだ、ということを示しています。

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エックハルト・トール著「Power of NOW A guide to Sporitsual Enlightment」

日本語タイトル「悟りをひらくと人生はシンプルで楽になる」 飯田史彦 監修

問い そんなこと言ったって、時間の概念なしに、どうやってこの世界に生活していけるんですか?未来がなければ、目標に向かって努力することがなくなります。過去がなければ、自分が誰かもわからないじゃないですか。 過去があるからこそ、今の私があるんです。人間にとって「時間」はすごく貴重なものですよ!

答え  時間は、ちっとも貴重ではありません。時間は幻だからです。あなたが貴重だと感じているものは、実は時間ではなく、時間を越えた「ある一点」、すなわち、「あるひとつの時」ですそれは、「いま」です。「いま」こそが、ほんとうにかけがえのないものです。時間に、つまり「過去と未来に」焦点を当てるほど、もっとも貴い「いま」を見失ってしまいます。なぜ?、「いま」が一番貴いのでしょう?答えは至極簡単。それが「唯一のもの」だからです。存在するのは、それだけです。永遠の「いま」こそが、わたしたちの人生の全てがくり広げられ、内包された空間であり、唯一の現実です。「いま、この瞬間」が人生なのです。人生は「いま」です。わたしたちの人生が、「いま」でなかった時など、これまでもありませんでしたし、未来永劫ありません。わたしたちを、思考の世界から超えさせてくれるのは、「いま」というときだけです。「いま」だけが、時間とかたちのない「大いなる存在」につながれる唯一の時です。

-------------抜粋終了

大いなる存在というのは、あなた自身でもあり、またさらに大きな存在です。あなたも他の人も、石も、水も、山も、風も・・あらゆるものは、大いなる存在の無限の在り方を現しています。

Saigyou12  

本日も拙い記事をご覧頂きましてまことにありがとうございました。 

  

 


悟りのプロセス(2)自分の思考を観るべし

2008-11-30 10:38:47 | 偉大なる先達の言葉

 何事にも原因があるということは、因果論者も科学の徒も理解できるはずです。この世界は我々の五感で見たり聞いたりできますが、その限られた意識の窓から見えるもの感じるものは、山であり空であり雲であり、ビルであり電信柱であり、道を急ぐ人々であり、ランドセルを背負った子供達です。

 そのような身近な世界の中にあって、人間は特別な1つの「無限・点」を現していると言えるかもしれません。・・道行く人々、知り合いの人とのたわいない会話、こちらを見つめる目、その中には自分と同じ「意識」の発露が感じられないでしょうか。どうと言うことも無い挨拶だけの会話や素振りのなかに聞こえる声、こちらを見る目は、「空」から全てが出来ているこの世界にあって、なんとも言えない親しみと仲間意識、同じようにあまねく広がる理解と愛を感じられるでしょうか。

 その全ての在りようの根本原因が「大いなる存在」というものでしょう。そのあまねく全てであるところの存在は、あなたやわたし達であるというのも、全く当たり前のこととして感じられることが、さとりのフィールドと言えるでしょう。あまねくあるもの・・それが大いなる存在という言葉で表すしかできない全ての「因」ということです。

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エックハルト・トール著「Power of NOW A guide to Sporitsual Enlightment」

日本語タイトル「悟りをひらくと人生はシンプルで楽になる」 飯田史彦 監修

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p26-34 抜粋

問い 「大いなる存在」 を経験するのを、難しくしている原因は、なんでしょう?

答え 自分の思考(色々な思い)を、「ほんとうの自分」だと思いこむことです。すると、思考はコントロールが効かなくなり、勝手気ままに活動してしまいます。自分の思考活動を、自分の意思でストップできないのは、大変な苦痛です。しかし、ほとんどの人が、この習性をもっているために、わたしたちの感覚はすっかり麻痺してしまい、これが、ごくあたりまえのことだと思いこんでしまっているのです。ひっきりなしの思考(思い)の騒音が、「大いなる存在」とひとつとなって、「心の平安」の境地に到達するのを、妨げているのです。

哲学者デカルトの名文句「われ思う、ゆえに我あり」は、みなさんもおなじみでしょう。彼はこの文句で、究極の真実を表現したと、確信していたに違いありません。しかし、「わたしは在る」ということを、「わたしは考える」ということと等しくする、言いかえるなら、思考活動によって、自分のアイデンティティを確立する、という初歩的な誤りをおかしているのです。

 自分の思考をコントロールできない人は、(ほとんどの人がそうでしょう)、「人間はみんな、はなればばれなのだ」 と信じて、人生を歩いています。これを信じている人の人生には、この深遠が反映されて、問題と摩擦が、次から次へとやってくるのです。

 「さとり」とは「すべてはひとつであり、完全である」という境地にいることです。それゆえに、「すべてとつながっていること」なのです。さらに、平和につつまれています。眼に見える、「かたちある世界」はもちろん、自分の内奥にある、眼では見えない「大いなる存在」と、ひとつになっていることです。

 「さとり」 は、心の葛藤や、人との摩擦がなくなることだけを意味するのではありません。さとりをひらくと、もう自分の思考に、ふりまわされなくなるのです。

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問い 「思考を客観的にながめる」、というのはどういうことなのか、具体的に説明してくれませんか?

答え -----   できる限り、、思考の「声」に耳を傾けることです。何度も繰り返されるセリフには、特に注意を払いましょう。数年間にわたり、かけられ続けてきた「古いレコード」がないか、よく耳を澄ませてください。これが「思考を客観的にながめる」ことです。「頭の中の声に耳を傾ける」、「思考を見張る」と、言いかえることもできます。

この声を聞くときには、あれこれ批判せず、偏りの無いこころで行ないましょう。批判するという行為そのものも、応戦というかたちの、「思考の声」にかわりないからです。これをしていると、「ひとり言をする『声』があって、さらに、それを聞き、観察している「ほんとうの自分」がいる」、と、だんだんわかるようになってきます。この「 『ほんとうの自分』がいる」という感覚は、思考とは別のものです。この感覚は、思考を超えた源泉から発せられているのです。

思考を客観的に眺めていると、その行為をしている、「ほんとうの自分」の存在に気づきます。「ほんとうの自分」に気づくと、意識は新たなレベルに到達します。勝手気ままに活動していた思考(思い)はパワーを失い、「ほんとうの自分」のしもべになります。

これが、無意識的な思考活動を終らせる、第一歩です。思考がおしゃべりをやめると、「無心状態」が生まれます。最初のうちは、無心状態は、ほんの数秒間しか続かないかもしれませんが、心がけ(意識的に気づくこと)次第で、だんだん、長く続くようになります。無心状態の時には「心の平安」を感じるはずです。

これが、普段は思考の雑音によってかき消されている、「大いなる存在」との一体感なのです。この状態は、本来人間にとって、ごく自然な状態であるはずなのです。

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この状態に到達すると、それまでの「自分」の認識を超え、より壮大な「自分」の認識を持つようになります。より壮大な「自分」である、「大いなる存在」も、本質的には、わたしたちであることに変らないのですが、それは同時に、途方もないほどわたしたちようり偉大なのです。わたしがみなさんに言っていることは、矛盾、もしくは荒唐無稽と受けとられかねませんが、これ以外には、表現のしようがないのです。

-------------抜粋、引用終わり

 百歩譲った表現をさせてもらえれば、スカイダイビングもバンジージャンプも、車の運転も全て体験として楽しいものでしょう。それらは身体を使って経験をするものですが、体験出来れば、もう楽しくなり、怖くもないし、その経験自体が自分の1部になります。人間としての意識進化の重要な一歩は、自分の心を見ることで、それをまさに見ている本来の自分に気づくことでもあります。これは思考や思いを楽に扱えるようになることでもあり、自分自身を「マスター」してゆくことでもあるでしょう。これらは、知識の為の知識ではなく、実践で少しづつ「体得」してゆくものです。なるほど、常にあるハードルは、世間や外界にはなく、自分にあるという事実に、しっかりとうなずくことができます。

 「さとり」というものも、人間の意識レベルでの経験の1つと考えるのが正当でしょうが、これは意識進化を促す、1つの大いなる「体験」とも言えるかも知れません。あらゆる不安や心配の原因は、いまだ来ぬ「未来」を不安視したり、記憶としか存在しない「過去」を悔やんだりすること(思考・思い)によって出てくる「誤謬」であることにだけは、気づく必要があるのです。

 そのためには自分の中にある目まぐるしい「思考」を見る必要があるのです。思考は森羅万象の全てのなかから、今の自分の「意識レベル」で「同調」する「波動」であれば、その自分自身の「同調」キーがいい加減では、不安やら心配やら恐怖やらが、勝手に出てきてしまいますね。まさにパンドラの箱となり、怖くてしょうがないものになっているのでしょう。自分が造っているのにもかかわらず・・・にです。ひょっとしたら、ちょっと笑えることかもしれません。

Flower1003

この地上にある草花も、何も、べつだん難しくなく、自然に花開いていますが、人間も、人間らしいレベルで、いわゆる、さとりをひらくことが、本来、あたりまえのプロセスのような気もします。

本日も稚拙な記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。

  


悟りのプロセス(1)大いなる存在に気づく

2008-11-24 12:03:32 | 偉大なる先達の言葉

皆我々と同じ偉大なる魂たちは今の世にも大勢います。昔にあり今に無いと言うことはありません。書物や情報等も素晴らしい「手」、差し伸べられた「愛」という表現をしても良いかもしれません。すでにご存知の方も居られるかもしれませんが、エックハルト・トールさんの著から(勝手ながら) 引用させていただきたいと思います。

エックハルト・トール著「Power of NOW A guide to Sporitsual Enlightment」

日本語タイトル「悟りをひらくと人生はシンプルで楽になる」 飯田史彦 監修

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p24-26 抜粋

 「さとり」という言葉を聞くと、わたしたちは、「聖人君子のみが達する事の出来る超人的な心境」だとか、「自分のような凡人には縁のないものだ」といった先入観を抱いてしまいがちです。しかも、あなたのエゴ(自我)も、あなたがそう解釈することを望んでいるのです。

 しかし、真実は違います。「大いなる存在とひとつであること」そして「この状態を保つこと」こそが、「さとり」なのです。一見すると矛盾しているようですが、「大いなる存在」は、本質的に「あなた自身」であると同時に、「あなたよりもはるかに偉大な存在」なのです。それはあなたという人間の名前や外見を超えた、「ほんとうの自分」を見つけ出すことである、とも言えるでしょうか。この一体感を感じることが出来ないと、「自分をとりまく世界から、自分は切り離されている」という、幻想がはじまります。そして、自分が、ぽつんと孤立した、ちっぽけなかけらのような存在にすぎないかのような、錯覚におちいります。すると不安が頭をもたげるようになり、周囲との不和やこころの悩みが日常茶飯事になってしまうのです。

 わたしは、ブッダによる、たいへん簡潔な「さとり」の定義が気に入っています。それは、「さとりとは、苦しみの終わりである」というものです。この定義ならば、超人的な感じがしないと思いませんか?

 ただし、これは定義としては不完全です。なぜなら、「さとりでないもの」について語っているにすぎないからです。それでは、「苦しみ」がとりのぞかれたあとに、なにが残るのでしょうか?

 ブッダはこれについて、沈黙しています。ブッダの沈黙は、「さとりの正体は、自分で見つけ出すべきですよ!」というメッセージを、含んでいるのでしょう。わたしたちが「さとり」のことを「凡人では到達できないゴールなのだ」と思い込んでしまわないように、わざと、定義を未完成なままにしておいたのです。しかしブッダのこうした配慮もむなしく、多くの仏教徒は「さとり」とはブッダのためのものであり、「自分たちには畏れおおいものだ」と感じています。少なくとも「あの世」にいくまでは、「さとる」ことなど無理だと考えてしまっているものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p26-27抜粋

問い  「大いなる存在」という言葉を使われましたが、どういう意味なのか、くわしく説明してくれませんか?

答え 「大いなる存在」とは、死を運命づけられた無数の生命形態を超える、唯一の「不滅の命(いのち)」です。しかも、「大いなる存在」はあらゆる生命の奥深くに、目には見えず、絶対に滅びることのない本質として、宿っているのです。つまり「大いなる存在」は、人間のもっとも深いところに「ほんとうの自分」として存在しており、わたしたちはそれに(意識的に)「つながる」ことができるのです。

 ただし、このことについて「頭」(脳)を使って考えよう、とはしないでください。「頭」で理解できることには、限界があります。あなたの「思考」がぴたりと止まっている時にこそ、わたしの言葉の意味がわかるはずです。

 あなたが「いまに在る」時、言いかえれば、あなたが完全に、強烈に「いま」という時に集中していれば、「大いなる存在」を感じることができるでしょう。それは、人間の頭では、理解することができません。「大いなる存在が、自分とともにある」という感覚を保ちつづけることが「さとり」なのです。

・・・・・・中略・・・・・・

「大いいなる存在」こそが、「人間の本質」です。わたしたちは、それをじかに感じられるのです。「わたしは、いま、ここに存在する!」という感覚がそれです。「わたしは○○○(名前・職業など) です」という呼び名を超えた、「ほんとうの自分」に気づくことなのです。「大いなる存在」という言葉のほんとうの意味を理解すれば、「大いなる存在」を経験するの日は、もう目の前です。

・・・・・・・・・・・

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  本日もご覧頂きましてありがとうございました。


悟り(あるがままであること)

2008-08-27 11:18:11 | 偉大なる先達の言葉

 「悟り」という言葉は、現代社会では少し異質で取っ付きにくい、言いにくい言葉に追いやられているような感じもします。自分達にとっては今は遥かに無縁な言葉、言うにも口はばったい言葉になっているかも知れません。そのあえて口はばったい「悟り」を言葉にあらわすとしたらこのようになるでしょうか。

●悟りはいつでもどこでもすぐそばにあるもの

 悟りという言葉は何か高尚で、難しく、諸人の手の届くものではないと思いがちです。人類の歴史のなかで、実は相当多くの存在が、その悟りといわれる境涯に踏み込んでいるのは、紛れも無い事実なのです。  ブッダ、キリスト、クリシュナ、マハラジ、良寛、道元、栄西、親鸞、空也、その他古(いにしえ)からの文書を通じて、宗教、科学などのカテゴリーを越えて、今も尚その存在感を伝えてくる方々は当然のことながら、我々の今の共時世界にその存在意志を共有している名もなき多くの人々も、多かれ少なかれ悟りという境涯に至ってるのは間違いありません。

 悟りが妙に簡単・明瞭なものかも知れないという感触は、禅問答でも伺うことが出来そうです。わかったようでわからない・・・ここに、すぐそばにある問題と答えがあることが察せられます。何も銀河の向こうに飛んでいかなければわからないことではありません。間違いなく、今ここにあるのが悟りなのです。それだけは絶対に理解できます。

●悟りは本来すでに知っていることをしっかり思い出すこと

 悟りというのがいつの間にか、高度な、つかみどころの無い、一般庶民に手が届くものではないという無意識レベルの刷り込みがあることに気がつきます。悟りが特別なものという感覚そのものが、その「虚妄」を表しています。ここにも無知を既知にしようとしない、権威主義的なヒエラルキーの壁が出来ています。いつも大切なものが「遠く」にあるという感覚。悟りなど普通できるもんじゃない・という感覚の壁、はたしてこれは真実でしょうか。

 悟りとはなんでしょうか。それは別に肉体が光りだすことでも、心の隅から華々しく現れる天使のファンファーレでもありません。自分は悟りなどとは全く無縁であると感じるならば、あなたやわたしは本来の意識ではないということを知っていることを・・・現しているのでしょう。逆に実は悟りというものを体現しているのが事実のようです。それを意識的に知っているかどうかは別としてですが。

●悟りは自由自在の心境をいう

 悟り、それは「今本来在るべき当たり前の意識状態」を言うのだと、本来のあるがままのことを言うの事だと思います。まちがいなく自由自在の意識状態であることを言うのです。 至極簡単な悟りという状態を果たして理解出来るでしょうか。難しそうな理論も、意味深そうな謎かけも、まったく無いのだという思いがけない答えにこそ、なかなか気付かない理由があるようです。ありがたいものは、難しいものだという、無意識の信念に捕らわれている自分達に気がつくでしょうか。

●悟りは力づくの努力を無くした時に現れるもの

 あるがままとは、普通のこと・・でもありません。世間一般の通念に縛られていることは、当然のことながら、悟りではありません。あなたやわたしの前を通過する多くの普通の人々が、どうも悟ってはいないだろうと思われるのは、現状での妥当な観察です。多くの人々がいつも疲れているかのごとく肩を下げ、何事にも無関心で無感動であり、自分に不利になることからはいかに逃げおおせるか、いかに少しでも安楽・快楽を得ることが出来るのかに関心があるようです。

●悟りは物や欲などの執着を外した意識

 また、幸運にも?悟りなどすれば、何か今の大切な物が失われるようで、怖いと思う意識状態であるかもしれません。とにかく多くの仮想の集団の中で身動き取れないながらも、おのれの足場だけを何とか確保していく為にとりあえず生きているという人々が多いのではないでしょうか。  悟りや、あるがままという存在状態が、自分にとって不利益になるかもしれないという心の現われを感じないでしょうか。本来のあるがままになったら、今ある所有物、地位や財産などが、ひょっとして失われるかもしれないという恐怖以外の何物でもないわけです。要は自分にとって更に素晴らしい方向に行けば、大切な物が失われるかもしれない・・というかなりな矛盾を感じているわけです。

●悟りは生と死が単に相対的な現象であると理解していること

 実は、潜在意識の中では、自分達がすでに悟っている存在であることを知っており、本来当然そうあるべきことを、うすうす気付いているのです。ただその本来あるべき状態に移行したとたんに、何もなくなってしまい、または何かが失われるという「怖さ」があるのです。考えても不思議なことです。いつも何かを恐れていること自体が、取り払われるべき、身に着けた「刷り込み」なのです。無意識に作り上げた社会通念という安全装置が、多くの存在達の意識波動を低いレベルで固定しているようです。何も個人が真剣に人生を知る努力をせずとも、大勢の人々の動きの中でひょっとして安穏が保たれると言う期待、これは他者への期待、依存を示すものであり、全体という架空の集合のへの隷属を意味します。  これらを無条件に半強制的に悟らせるのが、いわゆる死といわれる現象です。現世で獲得し身に着けた全てを、無条件に奪ってしまう、一見容赦ない現象なのです。ひるがえって考えると、泣いても笑っても誰にもおとづれる死は、余計なものをきれいに洗い流してくれる「恩寵」と考えることが出来ます。相対的な価値感や信念をきれいにしてくれるありがたいシステムとも考える事ができます。子供達から大切なオモチャを取り上げてしまえば、大騒ぎになり泣叫ぶことになりますが、明日も遊べると考える分別のある子供達は、それを理解する段階になっていることを示しています。

●悟りは、おのれがおのれに意識的である、自立したこころの状態をいう

 我々は生と死というそれぞれの瞬間の一定の猶予期間をわざわざ設けており、その有限の舞台の中に自分を投入します。あわせて自分を投影させた瞬間に全てを顕在意識から消してしまいます。なぜならば、全ての始まりはおのれから発したのであることを再現する為なのです。人生の意味は誰の顔を見てもわからないわけです。誰に聞いてもわからないわけです。物など集めて身の周りに自己保存の要塞を築いても、決してわからないわけです。  わたしが生まれてきたと言うことはわたしの意志であり、他の誰の意志でもないのです。

●悟りは、社会の中に居てもその通念に捕らわれていないこと

 古来からある出家という行動様式は、なにも社会的なものを全て捨てるという事を意味しません。単に悟りを得た者がそのような風な目で見られることを意味しています。富や権力、あらゆる執着を手放した存在達、自己修養努力や偶然に思える強烈な出来事などをきっかけに心の変容を起こした存在達、彼ら集団の信念体系から抜けた意識をもった存在達は、多くの人々のような執着心が無いように感ぜられるためにそういう風に見られるのでしょう。

●悟りは、子供のような純真な在り方

 実は我々は悟りの状態をすでに経験しているのです。皆が皆経験しています。 我々の子供時代を思い出せるでしょうか。どこか遠くの記憶の断片の2つや3つは思い出せると思います。子供時代は、いまだ社会通念という、何か下駄箱のような小さな割り当て意識のようなものに詰め込まれていない状態です。思考や感情がまだはっきりとしていない状態にしても、本来のあるがままで生きていたのです。 無垢のまま、あるがままであることの奇跡的ありかたは、例えば子の親になればそれを観察できるでしょう。無力な赤子と言われる彼らは、無力、無垢のまま、あるがままのいわば「悟り」の意識状態にあったのです。単に彼らが言葉に表さない、思いを流暢に論理的に表現しないだけであり、その代わりに、彼らはしっかり知覚しているものです。それは生命の素の贈り物でもあります。

●悟りは、本来あるがままの無限であるわたしに気付くこと

 歴史の中で巻き起こっては消えて行く人類・民族・地域の平均的な信念体系、その中には、恐れ、疑い、不安、逃避、強欲なども多く混在しています。今のあなたの心のトーン・胸や胃の辺りのなにかのホンのチョッとしたもたれ感に、気がつくでしょうか。身体は非常に高度な表現体ですが、その現われがコンピュータのような単純な論理・ロジックで表現しているものでないために、気付きにくいものです。  地球生命学園での学びは、驚くような混乱と絢爛たる幻想を味わった後、それまでに否応となく身に着けた虚妄の信念を潔く、勇気をもって、意識的に外してゆくことではないかと思います。その過程で本来の無限なる存在である自己に気づいていくことになります。次元上昇、アセンション等の流布している概念は、自分自身の表現形態を自在に変えてゆくことを示しており、自己に相応しい表現環境が相応に現れることを示しているのです。周囲が変るから、そのおかげで自分が変ると考えるのとは違うのです。

●悟りは見切りでもある

 宇宙・森羅万象の元の元である、わたしは在る、という純粋な気付きが、世界を現し、そしてその世界を無限の視点から眺めるための最高の視座、人間を顕現しています。今多くの人々が体験している生と死、輪廻、カルマなども、もうそれを見切ってしまう勇気も必要でしょうか。

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悟り自体に執着することも、また悟りにならないことです。なにか当たり前の自分や他の人達、世界のありのままがそのまま「悟り」であると思えます。ただ感謝せずにはおれない感覚は「それ」です。

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天真に任す  (てんしんにまかす) 良寛

  本当のあるがまま、自然のまま、あたりまえのことだ。

一切有為法 如夢幻泡影 

(いっさいのういのほう むげんほうようのごとし)  「金剛般若経」

 この世のことは全て実体なく「空」である。その「空」を知るものはだれか。