まるい地球の写真を見ていると、この惑星がいかに小さいかが分かります。それに大気圏がほぼ透明に近い状態である事にも気がつくでしょう。過去には厚い大気に囲まれていた時代があったようです。今の金星のような厚い大気があり、厚い大気のおかげで太陽からの強い宇宙線は和らげられ、今よりもにんげんの寿命が格段に長かったそうです。聖書や古文書に残っているように、当時の人類の寿命は数百歳まであるのが自然であったようです。
そのような寿命の長い人生を想像することは、今の人類には出来そうもありません。なぜなら、現代の文明生活はあまりにも刹那的であり、あまりにも物質偏重であるからです。そのような今の時代に、もし仮に、あなたは数百年も生きるんだよと言われたときに、どう考えるでしょうか。とんでもない話であると思うかもしれません。今の時代に数百年を生きるには、この社会自体が、あまりに疲れ果てる要素に満ちていると思えるからです。いまは丁度良い寿命であるかもしれません。
自由自在に思うままに生きる事が、本来の人間のテーマであり役目でもあるのですが、毎日を幸福に生きていると実感している存在がどれほどいるでしょうか。例えば、家族や自分の憩いの場を提供するはずの、普通の「家」を建てるために、金を借り、金利を払い、必死になってローンを払い続ける人生を送らざるを得ない人々がどれほど多いのでしょうか。毎日を仕事に追われながらも、その中にでも有意義な経験をしてゆく事は可能ですが、生きる為に負債かかえる生活が本来のものとも思えません。その負債を返してゆく為に、生存競争という共通ルールの社会という競技場で悪戦苦闘を続ける日々が、どれほどの価値を生み続ける事が出来るでしょう。たしかに数十年もやれば、もう充分・・の社会であるかもしれません。
これほどまでに地球環境を壊して、生態系を歪ませ、毎年何千と言う種を絶滅に追いやる文明が、どうしていつまでも正当であるのでしょうか。
そう考えてみれば、昨年来からの金融危機の発端となったサブプライプローンの破綻は、非常に象徴的であるともいえます。金を返す事情や意志が劣っていると思われる人々にまでお金を貸し出し、案の定返すことが出来なくなったことで、金融市場にひびが入り、もうじきそれは最終的な破壊に至るでしょう。架空に作り上げた信用を元に膨らんだアブクの破裂の波及効果は、20世紀末の、あの日本の失われた10年の比ではないでしょう。
もうすぐ形を変えて地上に津波がやってくるようです。お金があらゆるところから引き上げる過程で、世界の市場を洗い流すことになるかも知れません。バブルがはじけても庶民には関係ないのであれば、何のことはありませんが、金銭に踊らされている多くの無意識の大衆には明らかに脅威となってくるでしょう。
日本で起きたことは、やはり世界で起きると言う雛形論も、あながち荒唐無稽ではありません。日本で起きたバブルの崩壊時にも、多くの人々は相当な痛みを体験したのですが、まだ日本という国を中心としたものであり、かつ国民性が比較的温厚であることや、平和憲法のおかげで武力による需要喚起等の、最悪の方式に訴えられないことが幸いしたのだと思います。ただし今度は世界規模の破裂となるようですのでそれはそれなりに意識していなければなりません。
世界規模でのバブルの破裂は、日本が忍んだような苦渋と忍従のように進むとは思えないところがあります。世界の株式の低落により失われた富が1000兆円規模であるとの情報もあります。日本の年間GDPの2倍程度、税収の20倍程度とも考えられますが、その他原油や食物等の相場の上昇・低落により更に、失われる規模が拡大してゆくと想定されています。
これは資本による自由競争の最終ステージを表しており、どうも勝ち負けはほぼ決まってきているようです。このような荒れた経済現象は、2局化によって動きのなくなってきた自由競争社会において、勝者側の獲得した富の世界的な猛威によると考えられます。獲得した富を更に増やすべく、世界のあちらこちらに流れては、金利や相場という変動を通して自己主張を続ける、「欲望」という怪物の咆哮にも見えます。特定の1小個人群に偏ったお金や権力を、更に蓄積する為に、いまだ踊らぬ多くの人類の生存を脅かして、その頑張りを引き出そうというのでしょうか。原油や食料が高騰しているのはその最後の猛威を現しているかのようです。
科学や技術が発展している?という事なのにも関わらず、数十年前と比べて、明らかに悪くなった生活環境に気がつく人がどれだけいるでしょうか。自然環境は汚染され、原発という間違えば核爆弾以上の脅威をもたらす施設を造りつづけ、また、人質になっているような感じの人々のこころは閉じこもりつつあるような状況であり、地球上でともに生存進化すべき多くの動植物の種はすでに去りつつあります。また、気がつけば、人類社会の万民共通の要素が、生活の為の貨幣と権力のみと言ってもおかしくない状況にある気がします。どうも自動車と携帯電話を持つために、とんでもない犠牲を払ってきたような気もします。
この世界の状況のなかで学びがあるとするならば、一体なんでしょうか。
世界は多くの存在達の舞台であり、例えそれが終幕になろうとも、その舞台にいる個人個人の成長にとってかけがえの無いものです。舞台自体を変えようとする必要はなく、また個人が変えることも出来ない仕組みです。変えるべきは自分自身であり、さらに加速度的に起きてくるであろう全地上への洗浄波や、その結果怒涛のごとく渦巻く濁流社会から、意図的に超脱することが必要ではないかと思われます。
悟りや覚醒という意識状態への移行努力は、地道な作業である己の心の観察、調律に基づく意識進化の方向を示したものでもあります。それは、無限なる自分自身を思い出すプロセスを示していると同時に、やがてやってくるであろう砂上の楼閣の崩壊と派生して起きるであろう怒涛の濁流からの超脱の為のものでもあります。濁流をしっかりと観察するためには、それに巻き込まれないことが必要でしょう。世界に在っても、世界の1部になってはいけない・・という言葉は意味があるのです。
古来からの多くの人達が辿った道、それは今こそ多くの人々が辿ることをを可能とする状況になって来たのだと思われます。
またどのような時代にあろうとも、生まれては死んでゆくという、相対的な人生という物語の中に、いかに無限性を見つけることが出来るのか?それは、我々自身が創り上げるものでしょう。やるべきことはただ、本来の自己の無限性を思い出すことに尽きるのです。我々は神なる存在であると知ることに、どんな戸惑いがあるのでしょうか。
心身脱落 (道元禅師:正法眼蔵)
(こころと体を覆っているものをそぎ落とそう)
(余談)
自分が2年前に京都、宇治に旅行したときに、たまたま霊視した道元禅師?はほぼこのような姿でしたが、もう少しだけ角ばった顔立ちで、やや赤ら顔であり、どこかの領主のような雰囲気もあり、生気に満ちた波動を感じました。あれは不思議な経験でした。