気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

喫茶「禅」での問答 2章

2008-02-05 08:15:20 | 色々な気付き

●まともな唯物論者のつぶやき

お客: マスター、私もねまあ人生長く生きてきて、身近な人間が何人か既に逝ってしまったのを見てきてね。なんというか、不思議なんですよ、どうして消えてなくなるのか・・とね。

マスター: そりゃまーそのうちあんたや私もそうなのは、間違いないさ。

お客: 生きてきて色々なことを経験していって、結局どうなってしまうんだろう。何の意味があるのかなんてね。せっかく積み木を組み上げて、最後はパーなんて、どういう意味があるのかなーと思うんですよ。

マスター: なるほど積み木ねー。でも積み木はいつか壊れるから別の積み木で遊べるんじゃないかい。積み木の作り方がわかれば、どこでも出来るしね。それの方が大切だよ。

お客: しかし死んでしまったら、何もなくなるじゃないですか。

マスター: 人間の肉体は物質で高度に作られているものだけど、いわば、高度な積み木のようなもんだね。小さい頃を思い出せば、積み木で色々作ったんじゃないの?お城や、家、キリンさんやガンダムなんかさー。あれこれ作ったんじゃないかと思うよ。

お客: まーそうでしたかね。1つ作ったら別のもの、友達とくらべっこなんかしていたかなー。いや、そういう話でなくてね。生と死の意味を聞いているんですよ。今は。

マスター: 積み木は自分じゃないんだよ。自分だと思っているのかい。つまり肉体も自分じゃないんだよ。自分だと思っているのかい。

お客: 肉体のこの身体感覚で生まれてから、ずーっとやってきましたからね。それ以外に自分がどこにあるといいうんですか。見えない霊魂があって身体に宿っているとも言われますが、どこにあるんでしょうかね。

マスター: 例えて言えば、コンピュータ、パソコンでもいいが、本体だけでは電源入れても動かないよね。ソフトウエアがないと、画面も出なければ、WEBにもつながらない。ソフトをインストールしなければならないわけ。そのソフトは、まー色々あるけれど、1枚のディスクに書き込まれているプログラムなんだ。1種の文章であり、考え方、動かし方、記憶の仕方を書いているとも言える。それらは眼に見えるかい?

お客: 普段はそんなの意識なんかしませんよ。プログラムなんて見ても分からないし、我々が扱えるもんじゃないしね。パソコンはデスクの上でしょっちゅう皆使っているけれどね。文章は書かれたものは見えるけれど、確かに考え方を書いたものとも言えるかもしれませんね。でそれが生と死とどう関係あるの。

マスター: パソコンでも、画面やキーボードばかりをいじっているわけなら、中身の見えないプログラムなんか気がつかないよね。でもプログラムどおりに動いているのは分かるんじゃないかい。絶対にそれから外れる動作はしないわけだ。パソコン本体のハードウエアはいわば肉体、ソフトウエアは魂・意識と言ってもいいんじゃないかな。自分のパソコンが壊れたら、プログラムやデータのバックアップがあれば、別のを買って来て、それをインストールすれば、また同じパソコン機能が再現されるだろ。

お客: なるほどね、言いたいことはわかりますよ。パソコン本体よりも重要なものは、それを動かすプログラムであって、目にも見えないしね。それじゃ、生まれるのは新たにパソコンにインストールして動き始めることで、死ぬということは、パソコンでの経験やらデータのバックアップが、別のパソコンにインストールされる、と言う様な仕組みのことなんでしょうか?

マスター: あなたが最初に言った言葉、全て消えたら意味がないんじゃないの、と思うのは連続した大きな仕組みを想定していないからなんじゃない。過去の多くの先達たちは、大なり小なり口をそろえてこの命の連続性のことを言っているのだけれど、現代人は何か勘違いしているんじゃないかな。古いものは古臭くて意味がない・・なんてわけの分からない信念に捕らわれているような。私は誰を信じるかといえば、まわりの一般人や社会のお偉いさんの言葉よりも、歴史の中で真剣に生き抜いた先達の言葉を選ぶね。絶対に。

お客: まーそうですかね。でも、何を信じるかの、いわば宗教的なもんなんでしょうかね。

マスター: そうね。信じるごとくに汝になる、といえばそうなんだけれど。でもそれだけじゃなくて、ちゃんとした法則があって、生まれたら死んで、死んだらまた生まれるのは当たり前なんだけどね。生きている時の生活を元にした意識の進展に基づいて、次にどうするか決めることになっている。借り物の物質レベルの肉体は地球が創ってくれたもの、十二単衣(ひとえ)の一番外側の衣のようなものさ。ここにいる時はその衣が好都合なんだ、まー当然だけど。

お客: へーそーなんかな。それでマスター、証拠はあるんでしょうかね。ただ言うだけではね。生命が連続するなんて結構なことなんですが、それが真実だとしたら、世界は変わるはずですよ。でも、ブッダもキリストも一遍上人も・・今はいないし、確認しようがない。

マスター: 物的証拠はないよ。今ここにいるあなた自身以外はね。そこが大切なハードルなんだ。あんたそれを自分で探せば見つかるよ。それに、数多くの生前を記憶する人たちの証言やその発言の裏づけも取っている学者もたくさん出てきている。調べてみればいい。学者のいうことなら信じれるんではないの。実は今の時代は、その気になれば色々な気付きや成長が出来る時代なんだよ。スピリチュアル系では、銀河中心からの精妙な光が届いている・等とも言われているが、現象側面の観察では、確かにそのような有益な情報や意識進化に気付いている人間達も増えているともいえるんだ。

マスター: 道元禅師が残している言葉の1部だけどね。言葉にも意味と、それを感じることで出てくる波動が生まれるんだ。

お客: へーそうなんですか。

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「・・生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきありのちあり、かるがゆへに佛法のなかには、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、またさきありのちあり、これによりて滅すなはち不滅といふ。・・」


喫茶「禅」での問答 1章

2008-02-03 12:04:17 | 色々な気付き

喫茶「禅」での問答・登場人物の紹介

  マスター:喫茶店の主人 (現象の背後の因に気付いている人)

  お客: 喫茶店の客 (現象の背後にある因に気付いていない人)

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●観の転換

お客: マインドの制御とか心の調律というのは、一体なんなの?

マスター: 自分の心の動きを「意識」するということだよ。おっと、俺は何を考えていたのか!

     今怒っているな・・。今は気分がいいと感じている・・なんてね。

お客:自分で自分を観ているという不思議な作業ですか?

マスター: そう、「他人」を見るのでなく自分の「心」の動きを見る作業なんだ。

お客: それが何の役に立つんですか?そんなこと誰も分かってくれないし、一体どんな利益があるんですか。

マスター: 自分のことを理解出来るでしょ。人間の思いや感情を扱えるようになるんじゃない。みかん1山の中に埋もれている立場から、みかん1山を扱える立場になれる。

お客: みかん1山?意味が分かりません。

マスター: みかん1山からの離脱は、いつもの色々な考えや感情そのものになって、我を忘れる状態から、色々な考えや感情をうまく扱えるようになるということだ。みかん自体から、それを扱う八百屋になるみたいなもんかね。

お客: それがどんな役にたつんですか?それを聞きたいんですが。

マスター: 君はみかんでいたいのかい?それとも、みかんを味わう人間でいたいのかい?

お客: それはみかんを食べるほうがいいですよ。おいしいし。

マスター: 「みかん」は「自分の作り出す思い」と考えればいい、自分の思いや感情に振り回されていたくなければ、自分の思いや感情を扱えるようになればいいだけのことなんだ。扱えるためにはその対象(思い)を、ちゃんと見る必要があるんじゃないか?

お客: まーそうですかね。分かる気がしますが。それで、それが何の役にたつんでしょうか?

マスター: 自分の「思い」が自分の体験の原因だと理解すれば、その体験の質を決める自分の「思い」を扱えれば、あなたの人生ももっと自分の望む展開に出来るんじゃないか?

お客: なるほど、原因と結果は不可分なことぐらい分かっていますよ。原因をコントロールすると結果も相応に変わるということですか。それはわかりますよ。

マスター: そうそう、気付けば単純なんだよね。

お客: 理屈は分かる気がしますが、自分の思いや感情が我々の人生を決めているのですか?

マスター: 今日はカレーにしようとか、やっぱりうどんにしようとか、決めているんではないの。それと同じように「ブルーな感情」状態もそのままにしていることを許しているのはその 自分なんだけどね。人生もその小さい思いや感情の集まったものだと思わないかね。何も決めないことも、決めることも、何かをする事も、結局自分の思いや感情で決めているんじゃないかな。

お客: おっと、そうですか。確かに、普段は現実ばかり必死で見ているので、わけが分からない状態になる時もありますね。人生の体験を選択できるようになるんであれば、役に立ちますね。でもそれが出来たら、何が楽しんでしょうか?

マスター: あなた、楽器を演奏するのに、何時までも下手でいたいのかい?思いや感情を込めて、自由に演奏することは楽しいことではないの?

お客: そりゃー、バイオリンやらトランペットなどを自由に扱えれば、楽しいに決まっています。自由自在の演奏はホントたのしいと思います。

マスター: 自分を扱うことが出来るのも、楽しいことだと思うんだがね。人生も十分味わえることになると思う。

なにか堅物の客観的な味気ない精神になる・・なんて勘違いもあるんではないかな。自分という現象の背後の「因」を多少とも知ることは、物理や化学の法則を知るということと変わりないことであって、知っておいたほうが楽しいし、余裕ができるんじゃないかな。

お客: それで、そんなことが自分にも出来るんでしょうか。自分を観るなんていうのは、なにか難しいことのようにも思えるんですが。

マスター: もう既に、見る作業をしているんじゃないかなー。見る・意識するその行為の対象が、まわりの現象世界ということであって、その意識する対象を、自分の心に向けるだけなんだ。今やっていることの「観点」を変えるだけなんだよ。難しく言えば「観の転換」などとも言えるが、要は自分自身の「因」に意識を向けることなんだ。

慣れるまで、ついつい忘れてまた思い出すという作業が必要なだけだよ。

お客: なんとなく理詰めで来られると、分かる気がします。それでそういう自分の思いや感情を観ることに習熟してきたら、どんな良い事があるんでしょうか。

マスター: 自分のこころの働きを見る行為を通じて、自分の「因」を理解して行くということは、実は森羅万象の因・いわば宇宙意識ともつながってゆくことになるんだ。原因と結果の法則を通して、宇宙全体で因:意識作用が宇宙を現じているのは、我々の意識作用と質的には同じなんだよね。

お客: へー宇宙意識とつながるんですか。でもそんなに大きな意識なるものとつながるのは、怖くないですか?

マスター: 大きいも大きくないも、怖いも怖くないも、実はつながっているからこそ、あなたやわたしはは生きているんだよね。それに気がつくのが怖いと思うのは、自分が電車に乗っていて、急に怖くなるようなものだね。意味がないね。

それに、あなたは神なんだよ・・等と古くから言われているのは、実は本当なんだ。でも証明してゆくのは他人じゃない、自分自身であることも本当なんだ。

お客: へー、そうなんですか。


みそぎ

2007-12-31 08:50:28 | 色々な気付き

●今年最後の記事です

1年間の最後に大切な教訓を得たように思います。

結構な衝撃として自分の心に響いてきた出来事が昨日ありました。

自分にとっては神の厳しい目を覗かせてもらったような感じがあります。

言葉主体の世の中でこそ、伝えることの責任ということをガーンいう音響とともに頂きました。

創造主はお見通しそのものであるのを忘れることはないです。

誰が言うのというのでなく、現実世界の中で起きてくることは、自分の中にあるからこそ

という事でありますね。

自分としては、ちょうど心の垢を落されるような強烈な禊のような経験でありました。

これで今年はお仕舞いです。ありがとうございます。

(閉めたはずの茶屋の後片付けをせねばならないことを思い出して、作業中にまた気付いたことを書いてしまいました。)


恐怖から目覚める時

2007-12-16 14:13:06 | 色々な気付き

●目覚めるということ

 目覚めた存在、という表現があります。どういう意味でしょうか。辞書を引かないで自分なりに理解出来るでしょうか。覚醒した意識状態という表現もあります。目覚めと同じ意味でしょうが、どういう意味でしょうか。 悟った精神という表現があります。これはどういう意味でしょうか。悟りを開いた人の精神状態なのでしょうか。

 難しいことだろうと思うのですが、あえて難しくしない方がより理解が進むかもしれません、膨大な知識による見識である・・という風に理解すれば、相当な知識の集積が必要ですし、簡単なものではありません。人間として最高の意識レベルである・・という理解であれば、その高みに上る必要があり、遥かな山を目指すことになり、ちょっとやそっとで到達できるものではないでしょう。永遠の課題を眺めて何もしないより、身近な課題からちょっとづつ近づく方がいいかもしれません。

 目覚めや悟りが遥かに難しいことであるという、自他の刷り込みがあるようです。目覚めや悟りは、釈迦やキリストその他聖賢達の、想像を絶する生涯を再現することではないはずです。実は、彼らが苦労をしたのは、目覚めが身近なものであるということを、いかに理解してもらうかという事に尽きるのだろうとも考えられます。

●恐怖のおもちゃ遊び

 何処か自分の外に支配者たる神がいて、間違いを犯せば罰を与えたり、死んだあとに責め苦があったり、閻魔帳を片手に断罪される、等というイメージが集合無意識に記憶されてレコード針によって常に再生されているようなものです。「罪と罰」はそれを回避するためのものであり、やってはいけないことをさせないための方便としての理解もあるわけですが、なぜやってはいけないのかという理論的な理解が欠けているのが判ります。ダメはダメ・・というわけです。理解出来ない者になにを言ってもダメなので、脅して強制するしかない、従って恐怖が役割としてあちらこちらに登場します。そうして恐怖は我が物顔で人々を支配してゆくようなシステムになっているのでしょう。・・これが今までの我々の歴史の底流に、大きく網を張ってきたものといえます。負ける恐怖、死ぬ恐怖、失敗する恐怖、生活苦の恐怖、孤独の恐怖・・・数え上げたらきりがありません。誰しもすべてを既に経験しているので良くわかります。

はっきり言えばこれらの恐怖は、結構なおもちゃのようなものでしょう。それらを後生大事に生死を繰り返しながら持ってきました。そんなもの持っていたくないのにも関わらずに。そんなもの要らないと言いながら、いつも持っているのです。これも良く考えれば不思議なことです。それとも何者かに無理やり持たされているのでしょうか。

●腹をくくって捨て去る

 腹を決めてしまえばいいのではないかと思われます。心配しても恐れても、何も得られないどころか、がんじがらめになるのが判ったわけですから、少なくともそんなものを手放せばいいんだと思います。・・そんなこといっても、それが出来れば苦労はない・という自分の中から声が聞こえてきそうです。その声でまた繰りかえし再生モードになるのでしょうか。誰かのせいにして。

 腹を決めるというのはさっぱりとあっさりと捨て切ることかも知れません。1つにはすべてを肩から下ろしてしまうこと。1つには、今生きている事実、このシンプルな事実に感謝することに集中することだろうと思います。1つには生死を含む宇宙の仕組みの知識を得ることでしょう。1つにはすべてが根本では愛に基づいたものあるからこそ、こうやって我々は常に生きているのであると感じてみることでしょうか。確かそうだったと実感できれば、ひょっとしてそれが目覚めたことになるのだろうとも思います。

 目覚めや悟りはゴールなんかではなく、新たなスタートラインであり、新たなる歩みの合図でしかないわけです。終わりなき生命を喜んで体験している者にとっては、少なくとも、もう「怖い怖い」死の恐怖というおもちゃ遊びには、飽がきてもいい時期なのでしょう。

私には私自身があることを、いつも忘れて、そして気が付くようです。所詮自分しかいないのだ・・等と、ひねた言葉を吐けるのは、いつもいつも自分がここに在るからなのですよね。


ぬいぐるみという肉体の暖かさ

2007-11-25 18:59:35 | 色々な気付き

遊園地やデパート、ショッピングセンターなどで、時たまお目にかかるのは、縫いぐるみを被ったおどけたキャラクターです。子供達にはいつも人気があります。子供達は真面目にそこに動物さんたちがいるように反応し、嬉しがったり、怖がったりします。真剣にその縫いぐるみの動物さんたちと接触しているようです。我々大人はそれを眺めがら、そうではないよ・・と言わずに仮想動物さんたちや子供達に微笑んでいます。

我々人間が、ひょっとして皆縫いぐるみを被っていたとしたらどうでしょうか。小さい頃から慣れ親しんでいる、この肉体・身体は、ひょっとして縫いぐるみのようなものと考えられないこともありません。肉体という至れりつくせりの機能をもった縫いぐるみを、いつの頃か被って、その蒸し苦しさや、その目の穴を通して周辺の出来事や他人との面白いやり取りを経験しているということも有るかもしれません。地球という数億年という年月に培われた結晶、あるいは色々な意識存在の改良を経て用意され、進化をした有機組織から生成されたスエットスーツのような肉体を、すなわち高度な機能を持ったかわいい縫いぐるみを我々は被っているかもかもしれません。

被るということは、すなわち地球上に「産まれる」ということであり、縫いぐるみを真に演じるために、入った瞬間に忘れる・・というルールが備わっているかも知れません。その時という舞台経験を真剣に演ずるために、一時全てを忘れてスタートするようなルールです。

「実は1日9000円になるのでさー、アルバイトで縫いぐるみに入っているんだよーー!」などと子供達に言えるわけはありませんよね。それでは自分も子供達も興ざめです。

本来の自分自身を忘れて、縫いぐるみの人生を演じることで真剣さを伴った経験が生まれるということでしょう。全てを忘れて没頭し、誠意を尽くして演じることで、かけがえの無い経験が出来る訳なのでしょうか。実はこういう仕組みであるかもしれません。いや実はそうではありませんか。我々は新しい人生を味わうために、一旦全てを忘れて来ているのかもしれません。

我々が自分を再び思い出すきっかけは、おのれが縫いぐるみに徹し切って、一生懸命なりきったあとで、身体に吹き出すどうしようもない汗によってかもしれません。重たくても、不自由でも、みっともなくても、真剣に演じることで、ふっと自分の本当の中身の身体に吹き出る汗に気付いた時かもしれません。それはなんともいえない達成感のようなものでしょうか。よくやったね!・・すごい汗だ!ちょっと疲れるんだけれど楽しい感じ。外に出れば吹き出る汗がさわやかに感じます。気持ちよく本来の自分に戻ることができます。

色々な経験ができるのが「地球という楽しいドリームランド」です。皆々本来は自由自在にもかかわらず、時には忘れるというスリルのある経験を出来るところです。