気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

世界はすべて、それぞれの中にあり

2014-10-15 07:34:07 | 意識の拡大
我々のいる世界は、そのまま客観的に<自己>の外側にあるわけではないというのが本当のところである。
・・・・と言えば、そんなことはない、バカなことを言うなとなること請け合いだが、
本当は・・・・<自己>の外も内もないのである。

言うなれば、肉体の外と内とに、「存在原因の違いを想像し、それらを勝手に区切る」からこそ、
<自分>と<それ以外>という認識になるのだ。

それを分離とか言っている。

人々は、その<分離>同士のことであり、押し合いへし合いしていたわけである。
当然ながら、摩擦、苦痛や苦悩がそこらじゅうに出てくるわけだ。
その為に法律やら決め事やら、人生訓やらが必要とされ、なんとか曲がりなりにも社会が続いてきた。
この世界の人々は今までそういうことをしていて、それがしかたのない人間関係だと思っていた。

大体、人間関係には苦悩がつきもので、無条件にバラ色の関係など、ほとんど無かったはずである。
身近な者たち、親子、親類と言えども、尚更そうである。

そうだろう。

それは自己のことを「肉体」単体であると想いこみ、
その「肉体自我」を維持するために、必死になっていたという笑えない歴史と言って良いかもしれない。

そうやって単体自我で生まれ、そしていつの間にか死んでゆく、・・・
そんな人生を何百、何千億という魂が経験してきたわけである。

真実の<自己>、それを真我というならば、
真我とは全てを含んでいる<われ・わたし>のことであると言えようか。
あるいは「すべてはひとつ」という象徴的な表現のほうがピンとくるかもしれない。

ひとつ・・というのは、1個・2個でなく、「ひとつ」、つまりオール イン ワンである。

例えば、あなたが下ばかり見ていないで、その目を上げて、
更に夜空のさらに向うの、見えない無限の方向を見たとしたら、それは、

すべてがひとつ・・という驚愕の事実を見ている・・・ということだ。

こういう観方を、どこか「詩的」な捉え方だという場合もあるが、
世界のあらゆるものを、個別別箇の分離した物質の集まりとみなし、
1個2個3個と数えるような、分離した世界認識を・・・越えた「観点」を示している。

 
私がそこに見ている物も・・・、聞いている音も・・・、見上げる空の雲も、
<わたし>の意識する世界の・・・中に・・在るのであって、
どこか違うところにありはしないだろう?
 
わたしの知覚する世界の、あらゆる事物、事象は・・・要は、わたしの意識の中にあるわけだ。
 

自己の知覚する、感じる世界は、自己とは関係のない「別物」と捉え、
あまつさえ、それを自己の生存にどこか抵触するものであるとしていたのだ。

<わたし>が単に「肉体でしかない」・・と言うならば、
<わたし>の知覚する世界のあらゆる事物、事象は・・・要は、<わたし>の外にあるわけだ。
それを根底から覆す事象が、1つ臨死体験や体脱体験というものである。

実際に<わたし>意識が、肉体の外にもある・・そういう経験だ。
それは意識体験というべきものであり、現状で可能な物的実証の範疇外にある。
言わば次元が違うのである。

それが事実ならば、肉体そのものが<わたし>という、漠然とした信念は崩れ去ることになる。
古い固定観念に、がんじがらめになって身をすくませている人には、ちと困難かもしれないが、
これが事実認識されるならば、古い観念、信念体系はあっという間に崩れ去るのだ。

「おーい・おい、わたしは一体全体、身体以外の何者なのか?」それが自然な問いかけとなる。
人類に今起きているのはそういうことである。

「えー?、そんな馬鹿な?、そんなの頭脳の妄想に過ぎない」という反応は、
実際には、古い分離観念の滲みついた者たちの意見に過ぎず、
現象そのものを探究し、あるいは経験していくような、
<本来の科学的姿勢ではない>ということを知らねばならない。


空(くう)の中に・・・全てを含んでいるのが<わたし>・・・・
従って、身体の中に安住するわたしの意識としても、
あるいはそれから自由なわたし・意識としても存在することが出来るわけだ。

なぜなら、個別と見える人間の<意識>も、全包容的な<全体意識>の個別表出に過ぎないからである。

全包容的意識・・それを言うなら、いわゆるそれは<神>じゃないか・・という風にとらえられるかも知れない。
確かに神には外も内もない・・・つまり<全て>だということが理解できるだろう。

そう、全包容的意識がすなわち真我と言えるだろうし、また真我とは、
自己の世界の中心原因、根源とも言うべきものであり、
なるほど、そもそも根源には、内も外もあるわけはない。

例えば<あなた>も、<あなた>の世界の根源であるならば、実際のところ、
あなたは・・・・あなたの世界の全てであることが直覚でわかるかもしれない。

あなたの世界において、あなたはひとりであり、全てであり、
決して時空の1片としての塊、あるいはローカルな「肉体自我」のことではないことが解るはずだ。
・・・・
 
あなたの知覚する世界には、意識主体としてのあなたは、たったひとりしかいないとも言えようか。
それはそうだろう。
多くの人が、この共通世界にひしめき合っていたとしても、
それを<自己から観ている者>は、それぞれの、<わたし>だけなのである。
 
あまり良い比喩でもないのだが、それを言うならば、あなたの世界において、
泣いても笑っても、あなたが王国の「王」だということである。

だから、他人がどうしたとか、悪漢がどうしたとか、外の支配者がなんだとか、
そんなの全く関係ないのである。

乞食が実は自己を忘れた王様であったという、物語は本当のことなのだ。
それぞれのわたしの世界、無限にも拡大している世界とは、

わたしの手足でこね回して造っているわけではなく、
物質的革命や改革で作っているわけではなく、

主体たる意識、我ありという意識の光によって、投影されているものである。

こころが曇れば、日が差さずに、何が何だかよく解らず、
こころが晴れれば、世界は明るくなって、遠く深く見通すことが出来るだろう。

そしてこの世界、今までの世界がどこか見通し良くなれば、
さらに拡大された世界が観えてくることになっている。
 
ところで、それでいったい何が問題なのだろうか。
大笑いに笑える話ではないか。

どこか残された、それぞれの<わたし>の古い世界の残照を見ながら、
普通に生きつつ、そして朗らかに笑っていることだ。

わたしの映し出す立体映像を観ながら、自分で苦しむのは、それこそ相当に可笑しいだろう。






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