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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

人は「鏡」

2009-09-13 16:38:25 | 心の科学分野

我々のいるこの世界には、肉親、兄弟、周囲の身近な人から、その他全く知らないあかの他人まで、それこそ多くの「自分以外の人々」がひしめいている。 誰しも生まれてから、各人各人、夫々の時代を通して、様々な人々と様々な関わり合いを経験しながら「今」ここにいる。

好きな人、嫌いな人、二度と会いたくないような人、お世話になったと感じる人、馬鹿としか思えないような人、こころの傷になったと感じる人、暴力的な人、お金や地位にしがみついていると感じる人、狡猾でずるいと思う人、信じられないほど純粋な人、かわいそうと感じる人・・

気づけば多分、そのような様々な人との邂逅を多かれ少なかれ体験しているはずだ。あなたや私達が、若年であっても、また年配者であっても、その時間量によらずそうであるに違いない。まさに、今ここにこうして様々な人々の中に生きているのだ。

人と人との関わり合いの1つが「家族」であり、更に大きな「社会」であり、「国家」であり、「人類」なのだ。そういう意味では、我々は人類という共同体を構成してるという言い方は誰しも否定しないことだろう。しかしそうは言っても、地球の人類全てと直接関わりをもっているわけではない・・と思いがちだが、実はそうではないのかも知れない。 我々の視覚によって、地球の裏側の何処かの不特定の誰かを見ることは出来ないとしても、身近にその声に接することは無いとしても、我々は、創造宇宙のなかの、小さな地球の中の数多ある命として、意識ある存在として、ここに今こうして皆々共に生きているのが事実なのだ。

遠い・近い、多い、少ないという物量的な観念を外してこの事実を観る必要があるだろう。 地球の裏側の何処かの赤の他人は、赤の他人ではなく、我々のこの地上の「命」の仲間であるという事実に気づけるだろうか。我々に身近な縁者も、すれ違う他人も、それこそ知らない遠い地にいる人達も、まさに同じ「今」を生きている「兄弟・姉妹」なのだ。

無限の中にある、特異な創造点とも言える、無数のわたし達の「今」には、同じく無数の特異な創造点とも言える大勢の人々の「今」が有る。「今生きて在る」という共通の有り方から言えば、無限に展開される命の舞台のなかの、今この瞬間を共有している兄弟・姉妹とも言えよう。

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以前にこのブログにコメントして頂いた方から「ホ・オポノポノ」を教えて頂いた。これは400年前からハワイの人たちに伝わる問題解決の方法と言われている。400年だろうが1万年だろうが、時の量に関係なく、このホ・オポノポノにも、古代から綿々と伝わる人類の真の叡智が燦然と輝いている。自分が感じるに、これはいわば最もわかりやすい究極の救いともいえるだろう。救いといえば念仏のような連想もあり、誤解もあるかもしれないが、誰にも今すぐ出来るこころの浄化法と考えても良いと思われる。

ホ・オポノポノの真髄は、「他者は全き自分の鏡」とする捉え方だろう。そこでは、他者は赤の他人・別個の存在ではなく、自分の内面の投影であるとする。自己の内面を癒すことで否応無く、鏡たる他者が変化してゆくさまは奇跡と捉えられているが、これはある意味で、理路整然とした意識レベルでの確実な法則なのだ。あなたやわたし達の認識する「他者」は、あなたや私達の反映であるということだ。他者から見れば我々は反映であるが、それは、それぞれが皆根源たる一なるものの多面性を現しているからだ。それはまさに、一は即ち多である所以なのだ。

物量・分裂・測量的な考え方に染まっている我々にとって、他人は他人、自分は自分であり、他人がどうだろうと自分には関係が無い。極端に言えば、他者の存在意味としては、自己存続に利用できるか出来ないかの違いと考えてしまいがちだろうか。

ホ・オポノポノの真髄は、以下の4つの言葉に全て表れている。

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「みんなが幸せになる ホ・オポノポノ」 イハレアカラ・ヒューレン (徳間書店)より抜粋

 

 ごめんなさい。(I’m sorry.)

 許してください。(Please forgive me.)

 愛しています。(I love you.)

 ありがとう。(Thank you.)

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あなたは、この言葉を周りの人達に自然に言えるだろうか。

「どうして人に謝るのか?どうして感謝しなければならないのか?どうして愛しています・・などという小恥ずかしいことを言う必要があるのか・・?」 多分そのように感じるかもしれない。こんな言葉のどこに、一体何の効果があるというのか・・理知的で論理的な考え方からすればそのような感じもあるだろう。実際に言葉に出してみれば、様々な思いがこれらの言葉の周辺に表れてくるのがわかるかもしれない。極めてシンプルな、それでいてあらゆる次元を通じたような言葉には、確実なパワーがあるのだとも感じる。

ホ・オポノポノに関しても奇跡的な出来事が沢山あるようだ。まさに奇跡は法則であるという証でもある。

4つと言わず1つでも2つでも良いかもしれない。どのような人に対しても、これらの言葉をこころのなかで言えるようであれば、次第にこころが清水のように透き通ってくるはずだ。

その前に、こころの底に沈殿していた有象無象の濁りが感情となって現れてくるかもしれない。その貴重な経験達に、それに執着せず、屁理屈つけず、勝手なイメージで遊ばず、黙ってやり過ごしてあげることが出来るだろうか。それを、あなたや私達のこころの暗い底から、光あふれる大きな世界へ開放してあげることが出来るだろうか。あなたを一生懸命育ててきた「経験」や「記憶」達に、「ありがとう」と言ってあげられるだろうか。

 

自己の多生に渡る様々な体験は、自己の成長の為のものであり、それを考えてみれば大勢の他者のお陰であろう。それが様々な経験や気づきという宝を得るためのものであったと知るならば、他者や自己の幼さゆえに味わったかもしれない、疲れきった記憶や、怖い怖い思い出や、執着の悔恨は、黙って浮かび上がらせてあげて、昇華してあげたいと思わないだろうか。

我々と同時に生きている多くの人々に対して、またその都度自分の世界に現れる人々に対して、我々が持つべき1つの最高水準の「思い」がホ・オポノポノの言葉に凝縮されている。

この言葉は、相手に対して投げかける言葉ではなく、自分の内面で宣言する言葉であることに注意しなければならない。相手にそうなって欲しいとか、変わって欲しいとか、よくなって欲しいということではなく、すでにそこにある「わたし」の鏡像としての「他人」に対して、自分の中に在る観念を癒すということだ。 他人を癒すのではなく、他人を見ているところの自分の観念を、勇気をもって癒すのだ。癒すべきは、親でも、子でもなく、ましてや世界でも、どこかの国でも、愚かなピエロ的指導者でも、自分に対峙する敵でもなく、自分のこころ、観念なのだ。

我々にとって、他人とは、天地万物の創り、今という世界の有り様の中の、無限の各所に在るそれぞれの「わたし」の無数の鏡像ともいえる。 自己という鏡を通して現れる他人との関わり、人間関係は、その様々な体験を通して創造される「感動」を育む為のものだ。大勢の他者とは、より深く広い慈しみというさらなる感動を、あちらこちらで花咲かせようとしている、この悠久無限世界を現し続けるところの根源意識から遣わされた者達である・・ということに気づけるだろうか。

我々のそれぞれの周り、近い遠いに関わらず、この地で「今」を共有している無数の他人とは、例えて言えば「天使」とも言えよう。他人とは、知らない振りして実に厳しく優しく、確実に全ての存在の魂の輝きに磨きを掛けてくれる天使なのだ。気付きや救いや愛は、何処かの誰かがもたらすものではなく、今のわたしやあなたたちの中から湧き出すものだろう。

我々が今なすべきことは、今まで様々な体験を通して培った記憶・イメージを、自ら拠り分け整理することだろう。あなたも私たちも、歩くのはいつもそれぞれの「わたし」であるが、その周りに万華鏡のごとく、あなたやわたし達の鏡である、大勢の愛ある他人が見守っているのだ。

我々の生きている命題・課題・テーマが有るとするならば、それはいつもすぐ目の前にあると考えられないだろうか。鏡に映るのはいつも自分であることに深い意味があるのかも知れない。

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 ごめんなさい。 (I’m sorry.)

 許してください。 (Please forgive me.)

 愛しています。 (I love you.)

 ありがとう。 (Thank you.)

・・・・・・・・・

あなたは、はたしてこの簡単な言葉を、あなたの鏡像である、親や子供や周囲の人を含むさらに大勢の他人達に対して、心の底で言える勇気をもてるだろうか。

いいや、間違いなく言えるだろう。

  

 

ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場 ルノワール 1894

Moulin1

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


探求者ロバート・モンロー(3)

2009-09-06 14:06:14 | 心の科学分野

●意識のシフトは誰でも可能な時代

ロバート・モンローの業績は、我々のいるこの地球という生命圏の多次元構造を、現代人にもわかりやすく、かつ誰にも再生可能な方法で説明したことだろう。へミシンクと呼ばれる方法、左脳と右脳の音響に基づく共鳴作用によって、様々なレベルの「意識」状態を体現できるような再現可能な方法を開発したともいえる。

過去のスエーデンボルグその他の探検者の、霊界などに関する報告や著作も多くあるが、ただ、それがどこか時代がかって、あるいは宗教がかって聞こえる為に、多くの現代人にとってはピンと来ないものだったかもしれない。また特異な能力者だけの体験談であれば、一般人にとっても適応されるものかどうかという疑念もあっただろうか。

●進化の扉は我々の内にある

よく言われる「意識」、その意識自体の多次元性の解明が為されつつあり、今まで通り一遍で扱われていた「こころ、意識」というものが、とんでもない可能性として認知されようとしているのだ。

物質世界の果てに行こうと、何をしようと、現在の自分の意識のあり方以上のものは現れないだろう。まさに孫悟空が、どこまで言ってもお釈迦様の手の内に在る・・という比喩が相応しい。開拓すべきは、何処かの土地でも金鉱でもなく、我々のこころ、意識作用である所以だ。

 

●死を怖れる必要はない

我々の「生」というものが、物質肉体の生存だけの、たった数十年の一過性のものであるという考えかたが今の時代の主流だろうか。 あからさまに断言はしないものの、多くの人が肉体が朽ちればそれで終わりと考えているようだ。そのために、人生において出来るだけ死を回避すべき生存競争と捉え、出来得る範囲でおのれの生を維持するための肉体を守ろうとする。

生誕は歓迎され、死は忌み嫌われるのは、更に大きな生命観というものに未だ気づいていない証拠ではないだろうか。考えてみれば、あらゆる恐怖は、この「生」に対する「死」をどう扱ってよいかわからない人類の意識段階を示しているのかもしれない。 死という否応無く体験すべきプロセスを、怖いがゆえに「そのうち考える」というような、考慮の外に押しやっている偏狭な観念体系にはまっているといえるだろう。その偏狭な刹那的、スポット的な固定観念のお陰で、時代が進もうと変わろうと、科学が進展しようと、真に幸せそうな笑顔が人々の顔に溢れてこないのだと思う。

そのような人々の意識の根底には、肉体生命の死への恐怖があると言って相違ない。

●生と死は相互補完

生が無ければ死はない、また死が無ければ生もない。当たり前ことではあるが、死を敬遠する観念自体が、「生を全うできない原因」とも言えるのだ。そのような片手落ちの文明が今の我々の文明とも言えようか。またそれは、数千年来それほど変わってもいないのかも知れない。生と死もやはり相対的な現象にしかすぎないのだ。

確かに、肉体が全てであれば、何をおいてもそれを死守すべく、他者をも利用または排除する極端な行為も、どこかやむを得ないものとして正当化される傾向にあるだろう。戦争はその最たるものだ。悪いことだと知りつつ繰り返す行為の背後には、自分の肉体維持・強化のために、さらに安楽な環境を作り上げようとする衝動がある。肉体が無くなっては元も子も無いという「恐怖」がその根底にあるといえるだろう。

ある意味で西洋物質文明は、生のための戦いと契約に象徴される文明と言えるかもしれない。

●今、最大の二元性、生と死を超えるべし

実のところ生命の生存形態が肉体のみに依存しているという観念に、閉じ込められているだけのことではないか。、、今、その固まった意識の焦点を、自ら柔軟にして、様々な可能性を受け入れ、生と死という、根本的な命題とも思える現象に、多方面から光を当てる行為が必要なのだ。まさにそれこそが今必要な「意識の一段の進化」といわれるものではないか。

各自が自分の肉体の周りだけに意識のスポットライトを当てているだけでは、自分がどこから来てどこに行くのか、どんな道に乗っているのか等わかろうはずも無い。どこかを歩いているようだが、見えるのが肉体だけであれば、それこそ自分の周りは真っ暗だろう。 またそのようなある意味で自己周囲のことしか見えない人々が、互いに不安と恐怖をもとに集合し、お互いぶつかり合いながら、また喧嘩したりしながら歩いているようなものだろう。

●我々の五感は極めて狭い窓のようなもの

生命の存在形態が、いわゆる物質的なもののみであるという信念に固まっていれば、決してその観点から出ることが出来ないだろう。存在の有り様が、物質的なものだけであるという観念は、多分それも一種の思い込みと考えられる。数式で表現できない、未だ観測機にかからないということだけで、物質形態以外の存在形態があり得ないということにはならないのは、まともに考えればわかるかもしれない。 例えば、我々の五感情報の多くを占める視覚情報は、電磁波のスペクトルのうちで360nm~780nm(ナノメートル)程度の範囲でしかない。

いずれにしても、我々に間違いなく有るこころを、目に見えないものとしておざなりにしてきたのは間違いのないところであり、実はその、こころ、意識作用の中にこそ、無限の可能性があることに、今はもう気づかなくてはならないだろう。

●人間は間違いなく、肉体を超えた存在である

体脱というのは、肉体を超えた高次の自己にとっては当たり前のパフォーマンスと考えられる。肉体五感では感じ得ないものを感じたり、遠距離を超えて情報を収集したり、また過去の記憶を再体験したりできるのは、隠された肉体の機能・・というよりは、肉体を超えた存在形態としての己の機能と考えるほうが自然なのだ。

人間の意識が「体脱」や「離脱」したと思しき状態では、距離やそして時間も越えることが出来るということが、我々自身が実のところ、我々の捉える常識的な物質的世界を超えた存在であることを示している。このような自己のあり方に対して、誰しも当初は違和感を持ち疑念を感じるものだが、いろいろと意識的に探求自助努力すれば理解が出来るようになる。

生と死を含む我々の生命のあり方に関する「未知」が、少しづつ「既知」になってゆくにつれて、我々が肉体そのものでなく、それを含むところの、より大きな生命体であるということに自然に気づくことになるのだ。

 

●地球は多層・多次元構造

モンローの表現によれば、地球の周りには不可視の意識フィールドがあり、それをフォーカスレベルと呼んでいる。フォーカスレベルを、ここで取りあえず「世界」というならば、我々の生きている物理的世界の他に、人が死んだ後に通過する世界(死後世界)、さらにその上には、信念体系という世界(霊界?)があるといわれている。その上には、地球生命圏への出入り口であるフォーカスレベル(天界?)がある。この意識レベルでようやく、ある意味で地球の「すり鉢」の淵に到達するようだ。意識生命体が地球に参入することが出来るポジションだ。

あなたや私たちが、ダーウイン的な観点で、このバーチャルな地球体験フィールドから生じた生命と考えているかもしれないが、それは肉体進化を語るものであり、誰にもある高次の自己・魂は、多分、皆皆ここから降下して地球での生体験を開始しているのかもしれない。

余談だが、昔の洋画で、広大な荒野の中に、ある一定の地域が深く陥没した不思議な土地があり、探検隊がそこへ降りていくアドベンチャー映画があった。その遥か底にある場所では原始とも思えるような植物が繁茂し、恐竜などを含む様々な危険と遭遇しながら、やっとのことで、その陥没したすり鉢世界を抜け出すストーリーだった。1度入るとなかなか抜けられないような波乱万丈なストーリーは、この地球の多層世界のルールを彷彿とする。

Chikyu009

●物理的世界は地球の多層構造の底の世界?

宇宙から撮られた地球の写真等を見たときには、その物理的球体だけが目に入るのだが、それが全てとは言えないのではないか。 なぜなら、その映像はあくまでも物理的周波数帯での撮影であり、多重になった地球の生命圏の、その他の層の有様は当然ながら映し出されないと考えられるからだ。例えば、CAD、CAMのような図面作成でのレイヤ(層)構造を連想すれば良い。1つのレイヤの平面上(次元上)にいる限りでは、他のレイヤが映し出されないようなものなのだ。CADという単なるコンピュータソフトを知らないように、我々の存在しているこの世界の本当の有様もまた、真剣に探求しなければわからないのかもしれない。

自分という無限を理解するには、今あるところの理性と感性、その両方が必要なのだ。それまでは、まどろみを楽しむことになるだろうが、今はもうそのその時ではないかもしれない。

モンローやその他の多くの体脱体験では、意識体という多層に渡る高次の身体が、1つの層である物理的肉体というフェーズを離れることにより、肉眼では到底見えない他の層・世界を見ることができるのだと思われる。比喩的に言えば、単にラジオTVの周波数帯を自分でシフトすることで他チャンネルを受信できるようなものだ。世界の底にある最もわかりやすく御膳立てされた世界が、今の我々のいる物理的世界という事が出来るかもしれない。

我々は皆々、当面の自己を忘れてこの世界に降り来たり、多生に渡る体験・冒険を経て、再び元の次元に戻る真剣な遊びを選択した、アドベンチャーファミリーなのではないだろうか。それを思い出すことが、地球生命圏での様々な体験群のテーマでもあるだろう。

「忘れて思い出すという演劇」 の主人公を演じるには、相当の試練がいるのはもうお分かりかもしれない。

 

●多層世界の理論的側面

この多層構造を直感的に理解するには、その多層の世界の基本となる波動フィールド、昔から指摘されている物理学系で言う「エーテル」や、禅等で言う「空」、または最近ではアービン・ラズロの提唱するAフィールド、あるいはアカシックフィールド、またはモンローの指摘する「M」フィールドを想定せざるを得ないだろう。

その波動フィールドは、多層の周波数帯域を構成できるより微細な?波動で出来ており、それが変調されることで、多次元世界を表わすことが出来る言わば基本の「搬送波」とも言えるだろう。我々の視界を表わす光・電磁波はその1つのフェーズに過ぎないような、更に基本的な波動と考えられる。

肉眼では何も無いように見える空間が、単に物理次元において変調されていないだけのことであり、同じ時空周辺にありながら、異なる周波数帯においてはその周波数帯域での世界が、そこここに同時に存在しているというものだ。

その多層になった地球時空生命圏の周波数帯域が、今の時期、より高い周波数帯に急速に移行しているいう情報もあり、いわゆるそれがアセンションや次元上昇という、言わば周波数ホッピングだと考えられる。例えれば、4チャンネルは5チャンネルに移行する時期だろう。

ある条件で、原子核にエネルギーを照射すれば、その受けたエネルギーによって電子はその軌道をジャンプする。これは似て非なる例かもしれないが、今この地球生命圏にも、何か巨大な目に見えないエネルギーが照射されていると思われる。その影響は生態系、環境、気候、それから人類の意識にも作用しているだろう。物理次元にもその観測データが遅れて現れてくるはずだ。いや、今がまさにそうかもしれない。

 

●同調・共鳴・共感で現れる新しい世界

さらに広範囲の存在形態を表わすであろう上位の多層世界への同調は、我々の意識によって行なわれることになる。我々は常に我々の意識に相応しい世界にいるということだ。今こうして、「ここ」にいることがその証拠だろう。

要は自分のこころ、意識作用の全般を注意深く観ればそれがわかるものだ。今何をおいても重要なのは、大勢の他者の顔色を伺うことでもなく、自己自身である内面意識の適宜なチューニングではないだろうか。気づく気づかないに関わらず、上昇も下降も自由自在、こころのチューニング次第なのだ。

意識的存在である人間にとっては、どこまで行こうと、外はあくまでも内の反映なのだ。内面の光が増せば、それにあわせて次第に外にも明かりが増すような仕組みに、今、気づけるかもしれない。外の世界を無理して切った張ったする前に、その時々で、出来うるだけの「理解」と「愛」を、こころの中に創り上げることこそが、今の時期においてまず第一義的なことではないだろうか。

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北斎 1823~1829 作

Hoku01

本日も拙い記事をご覧頂きまして、まことにありがとうございました。

 


探求者ロバート・モンロー(2)

2009-09-01 07:38:29 | 心の科学分野

体脱だなどと言えば、それは普通にはあり得ないことだと思われるかもしれないが、体脱を自分の肉体感覚以外の存在の有りかたであると捉えれば、例えば夢での体験も体脱のフェーズにあると考えられている。

ある意味では、まさに毎日のように、また無意識のうちに、いわゆる体脱を行なっているとも言えるかもしれない。 我々は目の前にある当たり前の物事に対して、実のところほとんど気付いていないということは大いに有りうることだ。なるほど我々は全てを知っているなどと、未だそれほど威張れる存在ではない。

多く人々の意識状態は、世間一般常識という集団的観念の中の、その時々の画一的なものに集中しているだけのことであり、意識そのものを「意識していない」状態であると言えるかも知れない。モンローはそのような集団の価値感や、嗜好を含む観念のフィールドを 「信念体系」といっており、生命の体験プロセスにおいて、物理的身体があろうとなかろうと、その主軸となる思い・感情という周波数帯域に、ある意味で束縛されているという。これはこころの法則とも捉えられている「類は友を呼ぶ」という共感・共鳴現象もそういう意味なのだろう。その束縛を自ら外して自由な本来のあり方に戻るのが、いわゆる解脱、悟り、次元上昇と言われるものだろう。

古来からある内観や内省は、自己の意識の無限性に気付くための作業であり、意識の科学、こころの科学とも言えるかも知れない。このような、未知の法則を探求する以前にある我々は、実はその方面での未開の民言っていいだろう。

しかしながら、物質面だけでは幸せや自己発見は難しいということが理解されつつあるかも知れないことは、我々の大きな成長であるといえるかも知れない。

気付かない人々も多いかもしれないが、人類は遅まきながら、潜在意識において今このような確証を得た段階に至っていると考えられる。自己の周りの世界を含め、存在の有り方の一大ターニングポイントにあるのだろう。それは経済社会の激変というだけにはとどまらない。集合意識の内面の膿だしとも思える社会の激変に呑み込まれずに、それを観察・認識し、本来の人類の行くべき輝かしい道に、しっかりと乗っていることが肝要だろう。

我々は肉体にあらず、それを超えた存在である」ということが、そのうち、当たり前の時代になりつつあるのだろう。  いずれにしても、誰しもこの世界を去るときがくる。 その時に「・・な、何も知らなかった・・」 という自分自身への口上は、今は、耳だこになっていても決しておかしくはないかもしれない。

体脱体験・・というのは、内面と外面のつながりの一端を示すものであり、内=外という哲学的命題や、単に抽象的な考えかたではすまない、ある意味で今の人類にとっては衝撃的ともいえる「事実」なのだと考えられるのだ。

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Flower1007

(「究極の旅」 ロバート・A・モンロー 日本教文社刊 より)

p5~10

これではまだ一件落着とはいかなかった。私はいろいろな疑問の答えを求めていたし、それがインドの修行場では見つからないことはわかっていた。良かれ悪しかれ、私の思考プロセスは西洋文明の産物だった。それで私は、組織的な援助を得るため、またこの不思議な「未知」に関する情報を集めるために、私とその家族の所有する会社に研究部門を創設した。この部門が後に独立し、現在のモンロー研究所の母体となったのだ。

・・・

現代的なものの見方でいえば、体脱体験とは 「自分自身を自己の肉体と区別し分離して知覚する意識の状態」 である。その分離は5センチだったり、5千キロだったり、あるいはもっと離れていたりする。そうした状態でも、肉体をともなっているときと同様に考えたり行動したり物事を知覚したりできる---ただし、いくつか重大な例外はあるが。

体脱活動の初期段階では、自分が物理的な肉体の形を保っているような感覚がある--頭、肩、両腕、両脚などがちゃんとあるような感じがするのだ。だが、このもうひとつの存在の仕方になじむにつれて、だんだん人間らしい形ではなくなってくるようだ。ちょうど型から取り出されたゼラチンのようなものだ。しばらくは型の形をとどめているが、やがて外側から溶けだして、しまいには液体かふにゃふにゃした塊になってしまう。

ただ、体脱の状態でこうなってしまっても、一瞬念じれば、再び完全な人間の姿かたちになることができる。

この説明から明らかなように、この「第二の身体」は極めて可塑性に富んでいる。しかし肝心なのは、どのような形であれ、自分は自分だということだ。この事実に変わりはない。ーーーただ自分が、それまで思っていた以上のものであると気付くだけのことだ。

この状態では、どこへ行こうと何をしようと、まったく制限はないようだ。制限があるとしても、今のところ見つかってはいない。体脱状態では、もはや時空に縛られることはない。時空のなかに存在はしても、その一部として縛られてはいないのだ。

非物質的な自己は、他のエネルギー系(システム)にも問題なく適応できるし、素晴らしい自由の感覚をともなう。 とはいえ、完全に自由だというわけではない。それは、糸のついた風船か凧のようなものだ。糸(見えない糸だが)の反対には、物理的名肉体に結びついているのだ。

研究を始めて間もなくわかったのは、我々の文化や文明では、目覚めているときの物理的な意識ばかりが重要視されるということだった。それとは異なる存在の状態を立証するのは、たやすいことではない。ほんの少し調査しただけで次々と出てくる変則的な事柄は、現在一般に「既知」とされていること、つまり信念体系(ビリーフ・システム)の範囲では、位置づけも説明も不可能なのだ---ただし、この「信念」という言葉は一般に、充分な理解や確認が出来ないものをさす言葉として使われているということも念頭におく必要がある。

・・・中略・・・

自然に起こる体脱のうち、特に興味深いのは、臨死体験と呼ばれているものである。これもまた麻酔手術中に起こることが多い。多くの場合、この体験によって患者の信念体系は変わってしまい、真の「異なる世界観」ともいうべき啓示が与えられる。患者たちは、自分が単なる肉体以上のものであり、疑いようもなく肉体の死後も生きのびるということを知って帰還してくるのだ。

いま私たちが「体脱」と呼んでいる体験は、実は歴史の随所にあらわれている。いい例が、私たちの使っている言葉だ。私たちは「我を忘れ」たり、「自分をなくし」たり、眠りに「落ち」たり、眠りの淵から「浮かび上がっ」たり、気を「失っ」たりする。過去十年間に行なわれた、この問題に関連する数少ない調査のひとつによると、合衆国の人口の二十五パーセント以上が、少なくとも一回は自然に体外に離脱した経験をもという。

よく考えてみれば、あなたもその二十五パーセントのうちの一人かもしれないのだ。

「飛行夢」を見たことはないだろうか---飛行機に乗ってでも、そうでなくても、飛んでいる夢を。また、夢のなかで駐車場のたくさんの車の中から自分の車を探していて、見つかったとたんに目が覚めたという体験はないだろうか。(私たちはしばしば潜在意識において、自分の車を身体の延長とみなしている)。

「墜落」する夢で、「下」にたたきつけられる前に目が覚めたということは? これは、体脱者が目覚まし時計にせき立てられて肉体に戻るときに、よく起きるのだが!

・・・・・・・・以上抜粋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

追記) 夢について

以上の内容は、臨死体験を除いて、その多くが自分でも体験したような内容だった。だからこそモンローの書を読んだときに、顕在意識的な違和感を感じながらも大いに引っかかるものがあった。 それどころか何処かの銀河?に、一瞬で「ズームイン」するように行ってしまい、あわててズームアウトして還ってきたような意識体験もある。 その時は、明らかにイレギュラーな夢?状態に気づいて、ビックリ仰天し、我ながら必死になって還ってきた。(笑)

また夢の中の何処かの施設?のようなところで、死んだばかりの人に2度も会ったりしたこともある。 飛行夢はしょっちゅうあるし、ある時は夢の中?で宙に浮きながら、自分の身体のようなものがしっかりあることを自分の眼?で確認したことがある。また肝心と思われる夢の時に、いつも自分の右背後に、自分をサポートしているもう一人の自分(エコー?)または、ガイドのような存在にも気づいている。不思議なことだが本当だ。世間一般常識からは、「おい、お前大丈夫か?」となること請け合いである。(笑)

大体において、そのような普段とフェーズの異なる意識体験は、完全には眠っていない状態、すなわち体は寝ているが、意識はハッキリしている状態が多い。 寝起き時のボーとした状態での半覚醒夢は、その多くが、意識の異なるフェーズを「体験」しているのだと考えざるをえない。たしかに夢には、無意識的な「体脱体験」も含まれるだろう。それらを全て「夢」として片付け、ゴミ箱に捨て去ることで、どこかで安堵するのが大方の常識的な考えなのだう。・・・実は自分も以前はそうだったのだから。

今にして思えば、夢で何らかの画期的アイデアを得ようとして、夢に意識的になってからのことである。

それ以来、夢に対する従来の心理学的な説明も、今ではその多くが「逆に」こじ付けのように感じるところもある。 やはり脳波以外のこれといった検証が出来ないせいだろうか。その観点では、こころはこころ、物質は物質という分離感覚で捉えるしかないだろう。 実際の生存環境への意味が希薄な、こころだけの問題と捉えることにもなる。そのほうが当たり障りが無く無難なのだ。

考えてみれば、夢も現実と同じ一種の「知覚」体験であるが、それを単に夢として無視していられるのは、常日頃の我々の顕在意識の有り方のお陰であろう。 逆にその先入観念のおかげで、折角の内面からの知覚情報は忘れ去られるか、変質をしてしまう。それ故に夢なども、いい加減な幻想のようなものだと解釈しているのだろう。

夢を意識できる人々も、その情報が往々にして現実生活のなじみのあるものや、簡単に連想されるものに変換されていたり、また日常生活の記憶などがごちゃまぜになる傾向があるために、気にはなるが意味不明のものとしてしまうことも多いだろう。

しかしながら、逆にひょっとして、我々が唯一の現実と安堵しているこの世界は、「しっかりしているように見える」 幻想・またはバーチャルなリアリティなのかもしれないわけだ。地球フィールドも、本来は広大な意識の楽しむべきトレーニング場かもしれない

各自に現れつづける周りの世界は、古い言葉で言えば幻灯機の映じる世界であり、光源にあるものこそ、作者であり、真にリアルなのだと感じないだろうか。

外の世界は内面の写し絵なのだが、そこに一見わかり難いプロセスを感じているとするならば、それは自分で解明する為のものとして、しっかりと残されているということだろう。我々は実のところ、世界・宇宙のことはあまりよくわかっていない・・という謙虚さがまず必要だろう。

「汝が信じるごとく、汝になる」 という言葉の奥深さには唸らせるものがある。汝とは、今そこにいる表面の個我の自己という意味だけではなく、大きく拡大した自己と捉えるならば、このような物質世界のリアリティの中に、我々多くが生きていることが出来るという事実も理解出来るかもしれない。

自己が光源であり、また根源からの光であるとするならば、今確実に、絶対に思い出すべきは、実のところ、このバーチャル世界というカンバスに表わしたいところの「愛」というものであろう。この地球で生かされているということに思いを馳せれば、本筋の意味での「愛」というものが理解されてくるのではないだろうか。

作者である、あなたや私たち自身の今のテーマは、まずそれなのだと感じないだろうか。

・・・

(③へつづく)

人生の諸段階  :カスパー・ダービド・フリードリッヒ 作 1835

Fri281111

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。


探求者ロバート・モンロー(1)

2009-08-29 11:44:30 | 心の科学分野

 体外離脱や幽体離脱、またそれに関連する生まれ変わりという現象があるといわれている。経験したことがなければ、そりゃ一体なんだろうかと考えるにちがいない。特に現代社会においては、多分、多くの人がそれらの不可思議を全てまがい物と考えているかもしれない。また、好奇心がある人は、それは魂が抜けることか?とも考えるかもしれないが、それは違うようだ。

 現在の物質的な科学では、検証、観測可能なものしか扱えないため、肉体が動いていない状態での意識的体験ともいえる体外離脱は、公の学術・研究対象にはなりにくいのが現実だろう。しかしながら、現在、世界には様々な体験談の統計やその法則性の検証が行なわれている。

 確かに物質メカニズムではないメカニズムがあってもおかしくはない。電磁波も目には見えないが、その不可視の波動も周波数変調等により、TVや映画のような観測可能な現象として現れてくる。 多くの人が馴染んでいる携帯電話も、我々の五感に感じない波動を利用しているわけである。 どんな不可思議な現象も、それは無いのではなく、知らないのだと考えてしかるべきだろう。 どんなことも、それを知れば恐怖がなくなるものだ。

 少なくとも、五感に直接映じないからと言って「存在しない」という観点に縛られることだけはやめるべきなのだ。たしかに、そう思えるならば、世界は未知で輝く数多の星座のように感じるだろう。

 こころではどんなものでもイメージできる為、法則などないと考えるかもしれない。また、そこには確かに「主観」、「こころの働き」という意識的作用が強く働いていたとしても間違いなく法則があるのだ。体外離脱とか生まれ変わりというものは、人間および生命の変化のプロセスについてのものであり、そこにも「法則」があるということだ。

 体外離脱や生まれ変わりという、人間の「意識分野」でも、もしそこに誰でも再現可能なプロセスがあれば、それは追求・探求の対象とするべきなのだ。世界の歴史や昨今のスピリチュアルな書籍、臨床医学からの報告や統計なども含め、そのような先入観を外したアプローチをする勇敢な人々がいる。 

ロバート・A・モンローもその勇敢な一人だ。

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 自分は何者か、どこから来て、どこに行くのか、生命とは、生まれて死ぬとはどういうことなのか、その意図は?  等の貴重な示唆を与えてくれる書であると思う。特に今世紀を生きている意識的存在には必須ではないだろうか。 ご覧になれば、ひょっとして当初は私のように違和感を感じてビックリするかもしれないが、きっと良かったと感じるだろう。 

 貴重な体験である日常の生活もさることながら、少し先を導いてくれるような書に出会うということは、単に時間つぶしの読書の為のものでなく、生きた知識を得る、または本来の自分を思い出してゆくための援けの階段でもあるとも感じるのだ。

 

(以下、「究極の旅」 ロバート・A・モンロー著 日本教文社刊 から抜粋)

(「究極の旅」p2-5)

恐怖は、人間にとって大きな障壁となる。この世に生まれてくるとき、私たち人間が感じる恐怖は二つしかないという。大きな音への恐怖と落下の恐怖---どちらも誕生のプロセスにともなう恐怖だ。

しかし私たち(のほとんど)は、年齢を重ねるにつれ、より多くの恐怖を知ってゆき、成人する頃には、恐怖を山ほど背負い込んでしまう。私たちは肉体的には成長してきたわけだが、真の成長、すなわち自分の本当の潜在能力に気付くという点に関しては、ひどく阻害されたままなのだ。

未知なるものは、恐怖を生み出す。暗闇が怖いのは、何が隠れているかわからないからだ。また、肉体的な痛みが恐怖を生むのは、その痛みが何を意味するかわからないからだ。こうした「未知」(アンノウン)そのものが「既知」(ノウン)の知識に変わるとき、恐怖は薄れて消え去り、私たちは自分が直面する全てに対処することが出来るようになる。

私たちはみな、すでに充分すぎるほど「未知」なるものを、そして恐怖を抱えて生きている。これ以上(恐怖を)探す必要などありはしない。・・・

(中略)

一九五八年、思い当たる原因もないのに、私は自分の肉体から漂い出るようになった。自分で意図したことではないし、そんな芸当をしようと思ったわけでもない。睡眠中の出来事ではないので、ただの夢として片づけるわけにもいかなかった。私は起きている現象を完全な意識で自覚していたが、当然ながらこのことは事態をいっそう深刻にするだけだった。

これはひどい幻覚の一種で、何か危険な---脳腫瘍か、脳卒中か、精神病が引き起こしているのではないかと考えた。死の前兆かとさえ思った。

この現象はその後も続き、自分ではどうすることも出来なかった。それはたいてい、横になったり、リラックスして休息しようとしたり、眠ろうとするときに起こった。

(中略)

当時の私は健康的に申し分なく、たいした問題もストレスもないと思っていた。生活は大変に忙しかった。いくつかのラジオ局のオーナーをしていたし、他の事業もあった。ニューヨークのマジソン・アベニューにオフィスを構え、ウエスト・チェスター郡に家があり、そして何より、妻と二人の幼い子供がいた。薬はのんでいなかったし、ドラッグもやらず、アルコールもほとんど飲まなかった。特に信仰する宗教もなく、哲学や東洋思想を学んでいたわけでもない。こんな途方もない変化は、予想もしないことだった。

こうした状況で私が感じていた恐怖と孤独感は、筆舌につくし難いものだった。誰にも相談できないし、---心配かけたくなくて、はじめのうちは妻にも話せなかった。私は一般的な西洋文化と科学に深くなじんでいたので、当然のように従来の医学とオーソドックスな科学に答えを求めた。医者は、精密検査の後で、脳腫瘍もなけらば、生理的名原因も見当たらない、と太鼓判を押してくれた。だが、それ以上のことはわからなかった。

その後ようやく、友人の精神科医と心理学者に、この問題をうちあける勇気が湧いてきた。うち一人は、私が精神病ではないと保証してくれた(この友人は、私のことを知りぬいている親友だった)。もう一人は、インドの導師(グル)のもとで、何年か修行してみたらどうか、と言った。---これは私にはまったく思いも及ばない考えだった。私はどちらの友人にも、他の誰にも、自分がどんなにひどく怖がっているかをうちあけることは出来なかった。これまで自分が属していると思っていた文化、賛美し敬意を払ってきた文化の枠からはみ出してしまったのだから。

とはいえ、生存本能とはしたたかなものだ。少しづつ、ほんのすこしづつではあるが、私はこの現象をコントロールするすべを覚えていった。これは必ずしも死の前ぶれではなく、制御が可能であることがわかった。しかしまるまる一年を費やしてようやく、体外離脱(体脱)体験というものの実在を受け入れるに至ったのだ。 (今でこそ、OBE-- out-of-body experience という呼び方も定着しているが) 私は体脱の旅を、慎重に確認しながら四十回以上も繰り返してはじめて、信じることができたのだ。この旅は、、私に-私だけに-豊かな知識を与えてくれた。その知識に出会うと、たちまち恐怖は消えてゆき、それにとって代わったのは、同じくらい強い好奇心だった。

(②へ つづく)

 

出会い「こんにちわ クールベさん」    クールベ:1854  

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


神様がくれたお守り

2009-08-16 11:21:41 | 心の科学分野

今日は飯田史彦さんの著「生きがいの本質」から抜粋させて頂きます。

飯田さんの著は「生きがい」「生と死」「使命」「こころ」という、人にとって最も肝心要(かなめ)なものを思い起こさせるようです。今回のお役どころに、こころからの敬意を感じないではおれません。(極めてローカルですが、出身高が同じであったということで、勝手な愛着を感じてしまいます。ご本人は知りませんが(笑))

  

・・・・・ 飯田さんの頂いた、神様からのお守りのお話しです。 ・・・・・

「生きがいの本質」 PHP文庫  飯田史彦著

以下p348頁より抜粋 ・・・

  

~神様がくれたお守り

一九九六年の七月二十三日、わたしのもとへ、このようなお手紙が届きました。

・・・  

「 先生の本を読ませていただきました。

 実は、息子が五歳の時、漢字も読めないのに、突然、不思議な文字を書いたのです。

 息子は、無腐性大腿骨骨頭壊死という、骨が壊死するという難病です。

きっと息子には、何か使命があると思っていたのですが、先生の本に出会い、やはりそうだったかのと思いました。

 これからは、親子で創造的に生きていけると思います。ありがとうございました。 息子の書いたものを同封します。  」  

   

「 イノチヲカケテモ ヒトヲマモロウ。

ボクタチ ノ ココロヲ タイセツニ ソダテヨウ。

ユウキ ガ アレバ デキナカッタコトモ デキテクル

アキラメズニ キボウヲ モテ。

力とおかねがせいぎではないこころがせいぎだ。

空ハカミサマがスンデイルトコロダカラ

空ニハ モノヲホカラナイ (ほからない=投げ出さない、という方言)

山の月きれい しんでもたましいはのこる。

男ノ子モ女ノ子モ トテモイイ子。

いいことをして人をよろこばすなぐさめる

わるいひともいいこころになるみんな天ごくゆき。

いいことをたくさんすればかならずかみさまはおよろこびになって

せかいがへいわになるだろう。 11/8 にちよん  」

  

・・・ 「命を賭けても、人をまもろう」 「勇気があれば、できなかったこともできるようになる。

あきらめないで、希望を持て」 「力とお金が正義ではない。心が正義だ。」

・・・・・・まるで何者かから与えられたような、この言葉の中に、私が「生きがい論」シリーズ三部作を通じて読者の方々にお伝えしたかったことが、すべて言い表されています。

もしかすると、これらの言葉は、この男の子が人間として生まれる時に、「生きがいの源泉」(こころのエネルギー源)として、しっかり握りしめて生まれてきた言葉なのかもしれません。

まるで修行僧が、親から与えられた「お守り」を胸のところに首から下げて、厳しい修行の門をくぐるかのように、

そのありがたいお守りを心の支えに、意を決して、「人生」という名の修行に足を踏み出したかのように。

すでに、生まれた時から、誰の心の奥にも存在し、一本のキャンドルのように光り輝いている言葉・・・・・。

しかし、長年、人間として修行を積む苦しさの中で、しだいに曇りがかかって忘れがちになっている言葉・・・・。

・・・・それを、もう一度、思い起こして頂ければという願いを込めて・・・・

(以上「生きがいの本質」(飯田史彦著)から抜粋 p348~351)

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年のせいか?(笑) 涙が出てとまりませんでした・・・。

たった5歳の子供の切々たる言葉の中にも、深遠な意味を読み取ることが出来るものです。いわゆる神様は、そこらじゅうすべてがそうである存在のことです。あなたやわたし、その周りや無限の遠くまでが、すべて。

すべからく、人生も山あり谷あり、明あり影あり、大あり小あり、苦あり楽あり・・・過ぎればそれが得難い学びとなって、楽しさとなって、皆々に還って来ます。実に有り難いことではないでしょうか。

また、無限に展開する森羅万象の世界、それを、出来うるだけ歪みを無くする努力を通じて、その創造のあるがままを観ること・・・。そのために、今我々皆に与えられているところの「こころ」を磨いて澄ませてゆくことこそ、人存在としての、また心ある生命(いのち)としての使命なのでしょう。

 

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<海岸で遊ぶ子供達  メアリー カサット(1845~1926)

本日も誠に拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました