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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

次元上昇と次元降下(2)

2009-11-29 16:23:36 | 心の科学分野

●今の三次元世界観

この世界は三次元と呼ばれる場合がある。物理学では我々を取り巻く世界、いわゆる時空は四次元で構成されているとも言われている。

XYZ座標指定できる「立体空間」及びその内部にある物質は三次元であり、それらの変化率である「時間」であわせて四次元ということもある。

我々の認識しているこの世界は、宇宙を含む無限大の3次元箱とその中での物質密度や形態の多様な変化で構成されていると考えているということだろう。確かに最も単純化して数式で表せるような時空論である。

そのような物質形態に満ちた空間を三次元と言うのだろう。しかし、これらは世界そのものではなく、単に我々の知覚認識する世界が、時間空間密度とエネルギー、その形態の時間変化率で説明されるとする世界観のことである。

ユークリッドやニュートンを経由して、リーマン、アインシュタインやボームの思考を借りながらその認識を拡大してきた地球人類の「時空観」であり、今最先端では全て波動で表せるという方向にある。

今、科学の最先端では、物質を含む時空形態は全て波動または振動として説明できるかもしれないというところまで来ているといえるだろうが、それもあくまでも素粒子や原子で構成されるこの物質的時空世界の説明としての新たな世界観なのだ。

我々という観察主体の本質を説明しているわけではないのだ。それはあくまでも今の我々の観察するところの物質的世界観でしかない。

次元上昇、アセンション等という言葉で表現されていることは、それらの客観世界が我々の意識と無関係に、勝手に様変わりすることではないということだ。

●自己の世界観のなかに自己を幽閉している人模様

ところで、この世界観の中で、人間は一定の物質肉体で動き回る、単なる知的動物としてそこに参加している風に捉えられているだろう。

これは、世界を認識する当の意識的存在自体が、なぜかその世界自体に組み込まれているという観念を示しているともいえるだろう。

世界を思考、思推するものが、その世界の中の一小部分に自己を没入させて、身動きの取れないような、パスカルの言うような「葦」(あし)になりきっているようだ。

一体だれがそうだと言ったのか。

また言葉を変えて言えば、無限の思考・思推を行なう存在が、その思推の湧出点を自己の肉体という小さな波動の窓に限定している「観念」である。不可思議なパラドックスに「あなた」は気付けるだろうか。

無限の存在が有限を装っていると言う感覚である。

それは肉体の五感の感ずる一定範囲の情報波動のみにリアリティーを付与して安心していることを意味するだろう。そのために、肉体を出来るだけ安寧に維持すべく、いつもながらの不安を友に、孤軍奮闘しているのではないか。

お互いの顔を遠くうかがいながら、今はそれしかないと考えながらも、何だかんだとつぶやきながら人生を歩んでいるようではないか。我々はまさに律儀な蟻のような、実に愛すべき生き方を経験してきたようである。

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●次元降下の諸相

肉体への幽閉は、別の表現で言えば、自己の観念の中に自己を幽閉しているという意味でもある。

大勢の共通の集合観念で慣らされた個々人は、1つの共通理念の中に多かれ少なかれ幽閉されているともいえるのではないか。

その1つ1つの囲いは、実は1つ1つバラバラであり、1つ1つの個人の間の囲いと囲いの間には無限の距離がある。

決して本質では分かり合えることが出来ないという観念に色づけされた「個我」の壁である。人と分かり合えることなどないのではないか?というあきらめでもある。

社会の法律や決め事は、そのバラバラの個我牢獄の間の、おためごかしの橋渡しともいえよう。

巨大なこの三次元世界の中に創った「小さなのぞき穴」から観ている無数の意識達が、即ち今の我々の有様であるといって良いだろうか。また、万華鏡をのぞきこんで三次元形態の様々な有様を楽しんでいる幼児とも言えるだろうか。

その中に入り込んでいる・・そのような感覚は多くの人も理解出来るのではないか。

三次元空間のあちこちに開いた、個我の覗き穴からお互い同士を、怪訝な顔をして見合っているのだ。そうして数十年のちにはその覗き穴はふさがれ、また再び小さな穴を生じて、この次元を観察するようなものだろう。

他者と他者がわかりあうことはないという感覚を確かにあなたも持っていないだろうか。

自己が自己の観察する世界に入り込む、いや創り上げるということなのだが、自己を忘れなければ出来ない芸当でもある。

これはすなわち、意識的な次元降下、分裂化、多様化ともいえるだろう。

 

●もとは ひとつの意識

全てに浸透し、全ての波動、振動を生じるところの根源の波動、「根源意識」は、ひとつのものであるが、人という意識存在・魂は、その搬送波とも言うべき根本の根源波動を変調し、多様性を無限に生み出すところの個別の「自由」を持つ存在でもある。

分裂化、分化の方向の次元降下も「自由」であり、また地の底、海の底の観測から浮き上がり、洋上に、また天空に戻るような次元上昇もまた「自由」である。

意識的存在である我々には、まさに、「汝の信じるごとく汝になる」という法則が働いている。

なるほど、三次元観念への自己幽閉も例えば宇宙規模の認識拡大も、苦も楽も、何でも出来るのは、意識的存在であるところの人間ならではのことなのだろう。

三次元を観ているところの「わたし」は数式や現状の時空論では説明できない。それは自分で自分をいまだ充分知っていないということなのだ。

「わたし」とはまさに「今ある」そのものであり、説明不要の存在であるということに気付けるだろうか。

もとはひとつ、「わたし」とは、何の説明も出来ない存在であると言うことを暗にあらわしているのだ。

光を見、物を見る観察者、それは物質では語ることの出来ない存在であるということを示している

肉体や物質を超えた「わたし」は、いつも今、そこに在っただけのことだ。

意識的存在である人間は、今は「自分」自身を思い出す途上にあるだけのことであるが、また、その学びのプロセスにも何か大きな宇宙規模、いや創造プロセスでの仕組みや促しがあると思われる。

 

●地球という無条件の愛の舞台

人間が意識存在であると同じく、地球も意識存在である。個我のわがままや主義主張や人間的な表現がないからと言って、地球は宇宙に浮かぶ単なる「巨大な土塊」と考えるところの幼児的な誤解に気付くべき時でもあろう。

我々という生命、意識存在達の経験と表現の場を悠久の時間軸で設定、提供しながら、さまざまな時空を創り上げるフィールドを提供している地球という惑星存在の不思議さに気付くべきときではないか。

地球という舞台、人類やその他の無数の生命が様々な表現が可能な「演劇舞台」を提供しているからこそ、偉そうな主張も、悲惨な体験も、感動の経験も可能なのだ。

土、水、気、火・・全て地球の舞台道具なのだ。それに太陽の光、それらが無くては到底生きてゆけない我々でありながら、そのことに気づくのに何千年もかかるのだろうか。

自然への尊敬の念、それは単なる古代の信仰・・などという古い観念のゴミ箱に捨ててきた愚を振りかえり、それらに対する当たり前の「感謝」が今こそできるはずなのだ。

我々の世界を三次元と称し、そのある意味空虚な観念体系のなかで、

自己の周りに肉体という檻をめぐらし、個我やエゴという分裂遊びをしている間も、われらを無条件に生かし続ける、宇宙あるいは地球の「無限大の愛」に気付く時である。

個我と個我の間にある表面越しの、また交渉づくの架空の愛を求め続ける必要はないのだ。

我々自体の意識、想いや感情を調律し、より大きな観点、視座に上昇することにより、我々の「愛探し遊び」を遥かに超えているところの、いわば宇宙的な「無条件の愛」に気付くだろう。

それは全体へのこころからの感謝から生ずる、全体理解の視座への浮揚によるのだ。

 

●次元上昇は今ある

それに気付く意識的存在の増えるのを、いまこの地球は待っている。地球も進化する意識生命体であればこそ、今、ある飽和点に達しつつあると感じないだろうか。

「物語」はすべからく、ダラダラ行なわれるようなものではないものだ。起承転結のような節々の転換やサイクルもあるものだろう。

なぜならば、創造の目的は、未知なるものが既知になり続ける「楽しさ」であり、また、様々な意識の表現、生命の多様性を通じて沸き起こるところの「感動」を味わうことだと思う。

人の物語も宇宙の物語も本質的には違わないものだ。

それは、まさにあなたがうすうす気付き、また願っていることと寸分変わりの無いものであることに、もう気付けるだろう。

 

●意識原理

あなたやわたし達の本然のこころが変わるに従い、それを常にサポートしている大舞台である地球や宇宙も、あなたやわたし達に見せるその姿を変えてゆく。

あなたやわたし達の本然のこころが変わるに従い、それを常にサポートしているあなたの周囲の人々も環境も、その見せる姿を変えてゆく。

外の世界は、我々の観方に応じて変わるのが意識原理というもの。

「わたしは在る」・・・その有り方をいかようにも自由に表現することが出来る意識的存在・・それを「ひと」と言うのだろう。

また語呂合わせではないが「ひと」は「ひとつ」からの現れなのだ。

 

●次元は意識存在のさまざまな舞台

次元とはこころの反射せる舞台のようなもの。

今ここでいう次元とは、時空を含む我々の存在世界に対する認識レベルのことであり、外界世界そのものではないことは明らかであろう。

外界世界は、我々の意識の有りかたに依拠しているものであり、その逆ではないのだ。

今の時期は多分に、その意識の励起を促すともいえる宇宙大の仕組みによって、変容の為のエネルギーの増大している特殊な時期かもしれないし、また幕と幕の切り替わる大舞台の転回するような時期であろう。

まず、意識的存在である人間達の内面の励起を通じて外界の質的変化が現れてきている特殊なフェーズなのではないか。

次元が上昇するとは、我々の意識のレベルの深化・拡大のことであり、それに鏡を対するかのように現れてくるのが新しい存在世界である。

 

●変容、今、花の一大フィナーレを祝う時

アトランティスやムーの逸話はその多くが地殻大変動による清算のイメージがあることだろうが、その本質は語られていないかも知れない。

そのような驚天動地の文明の破滅の体験は、進化し、開花するべく変化しいている生命達の、時期を得た大舞台の変容に気付かず、その転回する大舞台に気付かず眠っているような、意識的ギャップによって生じるものだろう。

無意識を演じつづける存在は、卒業式も学びの1つであるにもかかわらず、それをボイコットして古い世界に安寧を求め続ける生徒・・という比喩もあながちそうそう外れてはいないだろうか。

居残りもまた格別な味わいがあるものだが、今回は地球生命学園自体の花の卒業式ではないか。

今は、もう今までのようにはここでの繰り返しが出来ないのかもしれない。

しかしながら、まさにその選択もまた自由であるし、地球も意識であるならば、その巨視的な観点から推し量るところの「地球」の意思にも自由な選択があるのだ。

巨視的な意識の変容は人間知ではわかりにくいものの、いまのこの地球の変容観察で気がつくのではないだろうか。

しかしながら、あなたも、わたしも「わたしはある」という永遠の意識に、もう気付いている。

母なる地球はそれを待っていたのではないか。

ワンネスとは、一極全体支配の構図ではなく、与え合いサポートし合うことで響き渡るところの「愛という」コーラスに参加していることに気付くことなのだ。

地球はいつもそうであった。

それは、我々という、今はまだ物質形態で楽しく演技する子供達の為に捧げる歌である。

 

そして宇宙に響く音楽は、もう次の楽章に行くべき時を告げているのだ。

 

Yae  

不定期で手前勝手な記事をいつもご覧頂く「あなた」に、こころから感謝いたします。

本日も、拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました。


幸せは今ある

2009-11-07 16:21:06 | 心の科学分野

●人が求めつづける幸福とは

多くの人々は今幸せではないと自ら感じているだろうか。多分そうかもしれない

「冗談じゃない、幸せであれば、今のような苦労もあるわけない、当たり前のことだ」・・と想っているのかもしれない。

誰しも幸せでありたいとどこかで願っているからこそ、

冷たい朝に起き出して、仕事をこなし、勉学に励み、嫌な人にも頭を下げ、愛想笑いを顔に作り、疲れた足取りで家にたどり着き、いつかまたこころを眠らせながら床につくのだろう。

●幸福は苦労の先にあるものか

それでも、その毎日毎日の繰り返しにも辛抱し、我慢しながら、自分または家族の為にと密かに奮い立ちながら、いつも来る明日にようやくたどり着いているのかも知れない。

多くの人は、ものごころつく子供の頃からそうだったかも知れない。 そう、今、幸せなどあるわけもないと思うから、きっと将来、幸せになるために頑張っているのだ。

多かれ少なかれ、そのような希望に満ちた未来への頑張りの中に、せめてもの今の幸せを見出しているともいえるだろう。わたしも、あなたも本当に愛すべき人々であるのだ。

 

●幸福には条件が必要なのか

しかしながら、なぜ過去も、今も幸せではないのだろうか。

それは・・・

 世界どこかの誰かが我々の幸せの邪魔をしているせいなのか?

 社会が偏狭だからなのか。

 政治が低俗であるからなのか?

 身近な人が何かにつけ、いつもあなたの足を引っ張っているからなのか?

 仕事の仲間がいつもストレスをあなたに与えているせいなのか?

 お金が、収入が期待どおりでないせいなのか?

 人がうらやむような美貌でないせいなのか?

 こころから愛してくれる人がいないせいなのか?

 豪華な御殿に住めないせいなのか?

 尊敬される地位についていないせいなのか?

 ・・・・・いいや、ちがう。

 

●求める幸福はいつも未来にあるのか

それらの全てが、あるいは1つでも満足できる状況ならば、幸せと思い込んでいるのではないだろうか。

多分、漠然とした意識ではありながら、そう想っているのかもしれない。

実のところ、こころや身体を安楽にする為の「もの」「人」を満たすことが、「幸せ」を得ることにつながると漠然と思い込み、そのいつも満たされざるものを満たそうとして奮闘しているのかもしれない。

何かがなければ幸せではあり得ない・・という刷り込まれたような想いに気付くだろうか。そこには、知らず知らずの刷り込みと勘違いがあるようだ。我々はどうも、幸せを求めているのではなく、安穏と充足を求めているといえないだろうか。

 

●幸せが未来にあるという幻想

 当然ながら、人それぞれのこころのステージ、ステップがあるものの、実のところ、ある人々にとっては、実は幸せなど眼中にないのが事実だとしたら、それは言いすぎだろうか。

幸せという「的」を漠然と頭に描きながら、体やこころの為の「安楽」と「刺激」を求めているだけの場合もあるものだ。

現代社会がこのような乱雑さと活気と喧騒に満ちているのは、そのような人間達の想いを満たそうとしているからに他ならないだろう。

社会は有る面で、本然たる幸せよりも、物的充足と安楽と生きるための、外からの刺激を供給する仕組みになっていることに気がつくだろうか。需要と供給である。

そのためには実によく出来た、幸せを求め続けるだけの世界ともいえるではないか。

あなたやわたし達は、自分のこころの中の奥や隅に隠してある、不可思議な不安や恐怖、あるいは自尊心が腐りかけたような孤独の影に自ら気づかずにいるが故にこそ、その影が社会に投影されてしまい、体験として具現化されていることに気づくだろうか。

そうして、あくまでもその影の投影である世界や社会の有り様の方に不平不満をぶつけるのか。

漠然とした意識のなかで、まず身体の安寧さが幸せに先立つものと思い込んでいる。そのため、身体の安寧さを獲得する為に、多くの細切れの知識と世渡りの術で社会という海を泳ぎ続けるのではないのか。

岸はいつも遠くにあることに辟易としながらも、それでも必死になって彼岸に辿りつく努力をしているようでもある。結局のところ彼岸は、その必死の努力が終わった時にしか到達できない矛盾を感じることを毎度繰り返しながら、いつかどこかで辿りつく希望を、未来に投影し続けていることもあるだろう。

我々が幸せでない?・・まさに宇宙的な冗談ではないか。

確かにもって、それを何世も何生も繰り返すことが出来るのもこの愛すべき地球の支えのお陰でもある。

 

●既に与えられていることばかり

幸せを追い求めること自体、本然の幸せから眼をそらせていることになる。今、無い」と想うから求め続けるのだ。

一見当たり前だが、ここに既に、「いつも得られることのない幸せ」を想定し、その状態をしっかりと得ている所作に気づくだろうか。

我々はいつも求めているものを、今の瞬間に得ているのだ。それに例外はない、気付かないだけのことだろう。

そう、いつも「この先にあるかも知れないという幸せ」を、今の今その通り得つづけているのだ。いつも未来にある幸せというものを、今の今の瞬間に、しっかりと得ていることに判然と気づくではないか。いつも未来にあるということを創りつづけているという笑える話なのだ。

幸せを「求める」行為によって、「幸せが今無い」ことを勝手に設定し、そのままを瞬間に創造しているようなのだ。それがわがまま三昧の放蕩息子の遊びといわれるものだろう。

 

●生かされている事実を思い出す

我々は自助努力で生きていると誰しも想っていることだろう。自分が生きなければ誰が助けてくれるものか・・という、どこか奪うばかりの社会の中で必死に孤軍奮闘しているようではないか。

 

ところで、我々は本当に自分のお陰で生きているのだろうか。

  我々の身体は誰が維持しているのか。 

   数十兆の細胞はあなたやわたしの個人的成果なのか。

  空気はなぜ周りに満ちているのだろうか。

   調和に満ちた地球の大気は、あなたやわたし達の個人的成果なのか。

  水はどうして生命をあらゆる場所に運んでいるのだろうか。

   わたし達は、意図して体に水や栄養素を運んでいるのだろうか。

  大地はなぜ足元を支えてくれるのか。

   我々がその足で意図して地球を支えているとでも言うのだろうか。

  太陽はなぜいつもエネルギーを我々に供給し続けるのか。

   暖かい熱も、全てを照らす光も、たまたまの偶然の「好意」なのだろうか。

   そこには大いなる愛があると観じないだろうか。

例えれば、無限の愛というものが絵として目の前に掲げられていたとしても、我々は紙や絵の具にしか着目せず、それを物質として分解し、額を切り刻み分析し、バラバラにしたあげく、元に戻せないようなことをしているのかもしれない。

また、鼓舞するような書物があったとしても、その中味のテーマなど解読するよりは、外見の装丁や紙ページの量や重量などにしか眼がいかない様なものかも知れない。

全ての被造物は、それを鑑賞・観察し、その創造の本意が理解される為にこそ、存在している。形や物ではなく、それで現すところのこころ、意識の働きに気付けるまで何十億年も必要はないのだ。

 

●意識的目覚めはいつも今しかない

 我々人類が「眠っている」といわれる所以は、我々を取り巻く「いのち」すなわち無限に織り成す「愛の表現」に気付いていないからである。

様々な生命や自然の有様は、我々を十全の愛をもって生かしているにも関わらず、それを単なる確率・偶然として捨て去る意識のどこに、万物の霊長たる人類の意識があるのか。

不満足と不幸を元に車輪を廻し続ける幻想の社会、世界に浸りこめるのは、その人を取り巻くところの様々な自然界の「無条件の愛」の支えが故のものなのだ。

我々を取り巻き、我々自身でもあるところの自然・宇宙は何も文句をつけることが無いのは、無機ゆえでなく無限の慈愛が故なのだ。

 

●人間とはなにか

人間・・それは、

  空気がなくては生きられず

  水が無くて生きられず

  土が無くて生きられず

  光がなくて生きられない・・・

  人々がいなくて生きられず

  動物がいなくては生きられず

  植物がいなくては生きられない・・・

 

・・・しかしながら、全てが愛と調和であることに、

意識的に気付くところの存在が人間なのだ。

そして無条件の愛に対して、

無条件の感謝の念を発することが出来るのも人間である。

それは、創造を創造として仕上ることが出来るところの存在ともいえるのだ。

 

我々は今、いつも、今も過去も、未来永劫、幸せに満ちた存在なのだ。

 人々は・・・あなたの周囲に、これでもかというくらいに大勢いて、それを待っている。

 動物は・・・いつも愛らしく、あなたのそばにいて、それを待っている。

 植物は・・・あなたの糧になってあなた自身の細胞のなかで、それを待っている。

 万物全てが、それを待ちわびて、あなたやわたし達を黙って支えているのだ。

それを「無条件の愛」といわずして何と言えるだろう。

あなたやわたしが、どうということもない事に悩み、後で後悔する行為を繰り返しながらも・・・、

それでも次第にこころが広がり、万物から無条件に既に受け取っている、今有る「幸せ」に気付くことを待ちわびているのだ。

我々は、個々、別個の悩みや不満どころではないはずの、

万物からの無償の愛に、もう気付くべきなのではないのかと言っているのではないか。

そう・・・、我々は幸せなどを追い求める必要自体がないことを悟り、既に有る幸せにいつも感謝するしか手は無いのだ。

まさに今この瞬間が幸せそのものであり、努力して行なうべきは、

まさにそれに気付くところの観の転換のみである。

全ては与えられている・・・感謝を十万遍も言っても・・足りないと思う。

 ・・・・・・・・・・・・

Flower1009

(ふと思えば、何かオーラが写っているような花の写真です。)

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


自己の想いを観る

2009-10-20 07:40:52 | 心の科学分野

●人間体験=人の間

大勢の人々の中では、人と人との狭間で様々な想いや感情をいだくものだ。それがゆえに人生を悲観したり、あるいは喜んだりする場合もある。実に人の間での想いこそが我々の四六時中の体験そのものであると言っていいだろう。

しかしながら、そのような有態の中で、我々を時において不幸の底に突き落とす想いが生じるのは、決して他者の発言や行動そのものではなく、それに対する自己の想いなのである。また逆に我々を幸せと安寧の里に導くのも自己の想いである

●意識的・意識=目覚め

何をどう感じるかは我々の想い次第であることも事実なのだ。問題は実のところ、自己の想いの有り方にあることはもう既に理解出来ることだろう。

そのような現状の社会のなかで悠々とすごすには、先ず自らの想いを観ることができなければならないことは自明だろう。その想いや感情の中味を自ら自己吟味することが出来るようになれば、それは精神的な自由を獲得したということであり、意識的に自立出来たと言えるだろう。そうなれば、他者の言動に戦々恐々となったり、一喜一憂するようなことは少なくなるのだ。

●先ず観察すべきは自己の想いである

他者を観察してもその何たるかを変えるのは他者自身でしかありえない。自己の想いを差し置いて、他者の良い悪い思いを必要以上に追求・批判してもどうしようもないことではないか。批判や議論が何がしかのヒントを自己に与えるとしても、それは究極のあり方とは程遠い。自己を観ることが出来ない人間に他者をどうこうすることは出来ないことは火を見るより明らかなのだ。自己の面倒を見れない人間達が如何様にして他者への奉仕が可能であろうか。

全ての行動の因であるところの自己の想いに気づき、それをしっかり観ることが人にとって最重要なプロセスなのではないのか。イメージや発想をいかように多様に表現しえたとしても、その表現の在りかたを決めるところの自分の想いや感情を制御できない間は、現代文明のような、刺激に満ちてはいるがいつどうなるかも知れない無軌道な軌跡をえがく浮遊世界を創り続けるのだ。

●内観とは

ここでいう内観とは内なるこころの動きを観る行為である。内とは内面・こころの動きのことであり、自己自身の想いや感情のことである。肉体を構成する数十兆以上の細胞を見ることでもない。あなたの創り上げる心模様をあなたが自身が観ることなのだ。プラス思考でネガティブ思考を克服するという思考の技術は昨今浸透してきており、それは大変に素晴らしい意識進化のあり方であるが、その思考・想いの発する因たるこころのあり方をしっかりと把握する必要があるのだ。

往々にしてネガティブともいわれるこころの動きを観ることで光が当たる。光が当たればそれが露(あら)わになり、それはこころの影ではなくなるものだ。恐怖も不安もその出所に、意識の光が当たれば不明・不安の影が知識に変わり、もうそれには力などはないのが理解されてくるだろう。抱や我慢は、日常という与えられた生活体験のなかで、自己の内面を観ることの努力の途上で味わうものであり、外の世界から押し付けられるものではないのだ。

わたしは今怒りまくっている・・・のを観るわたしに気づいていること。

わたしは今嘆き悲しんでいる・・・のを観るわたしに気づいていること。

わたしは今ずるく立ち回っている・・・のを観るわたしに気づいていること。

わたしは今ブルーなこころでいる・・・のを観るわたしに気づいていること。

どのような場面でも、それに対峙し感情に呑み込まれずに、出来るだけその想いや感情を観ることが出来るならば、それはその感情を知るという高度な意識的行為を行なっていることになる。感情を理解するどころか、その奔流に流される火遊びで怪我をすることには、もうすでに十分気づいているはずなのだ。

想念・感情は御しがたい暴れ馬のごときものであるが、自己の想いや感情を自己自身で識(し)るならば、その暴れ馬のごときエネルギーは、天上、地上を自在に賭けるペガサスのごとき優美で自由なあり方を示してくれることに驚くに違いない。

自己の想いを無意識に垂れ流しせず、それが創造の奔流と悟り、少しづつ制御するのが我々のここでの人生の目的の1つであろう。そのためにこその、いまの世界、何でも有りの世界構造と思えないだろうか。まさに進化・発展途上の世界である。この地球も人存在もいつも可能性に満ちているのだ。

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●他ではなく「我」のこころに対峙せよ

生起する想いや感情にすぐさま蓋をしないことが大切である。世間的な我慢や世慣れたごまかしをしないで、まずその有りのままを生起せしめ、それを観ることが実に重要なことなのだ。逆に、それらの想いや感情がわめき散らすのをしっかりと味わい、しっかりと受け止めることが出来れば、無軌道な言葉や行動に及ぶことがなくなるのだ。自己の感情のざわめきにパニックになるのはいつも一体誰なのか。

注目すべきは、彼らなりの発展途上を表現しているその他者の言動、社会の有り方のほうでなく、それらに対峙している自己の発する想いなのである。自分に意識を集めることが出来ないからこそ、自己以外の他者に意識がゆき、その言動に一喜一憂するような自縄自縛、外からの支配の罠に陥るのである。

自己の想いや感情、行動という自己にとっての全存在に対峙できず、自己以外の世界に批判と攻撃を与えることは日常茶飯事ではないだろうか。自己の肉体を維持しているのは命といわれる眼に見えないエネルギーであり、そのエネルギーの顕在化する鋳型が「想い」なのだ。その現実化の因たる「想い」を観ることで、顕在化され続けている外の世界の仕組みが理解出来るだろう。

●世界はあなたのこころの窓から観える景色

我々の体験とあわせて生じるところの想いや感情は、すぐさま再び拡大再生産のための鋳型になる。意識という宇宙に遍満する波動をこころで変調することで自己や周囲の世界が現れることに気づくことが、言葉を変えて言うところの意識次元の拡大となる。

外が変われば自己が変わるのではない。自己の想念は環境から生じるものではなく、環境にどういう風に対応するかという「想い」によって生じるものである。自然に満ちた世界を野卑で怖い世界と見るか、その美しい有り方に感動するかはそれぞれの想いによるのだ。

社会を汚濁に満ちたものと見るか、切磋琢磨の修行の場と見るか、全く異なった観点の位置に立つことになるだろう。ゴミと汚泥にまみれた世界と感じるか、更なる光を求めるた為のあり得ないほどに御膳立てされた世界と感じるか、その感じ方捉え方がそのまま世界という顕現へと変化してゆくことに気づくだろうか。

世界が汚濁で満ちているのは、どこかしらある我々の汚濁の想いの集積、観念という鋳型の歪を通して見ているいるからなのだ。

●自己を観る、思い切った勇気

自己のこころの歪を勇気をもって自由にさせ、開放させることが浄化へと繋がる。こころとは、想いや感情の集大成であり、その見えない鋳型のパターンから歪を取去ることが今求められているものだ。

そのためには、瞬間に発し続けるところの自己の想いを観る必要がある。それを観る、認めることでその歪は開放されてゆき、本然たるこころのあり方が現れてくるだろう。

ハイアーセルフは大きなあなた自身である

考えてみれば、この地上の一般の社会において、我々という個を身体的なレベルで面倒見てくれた者は、両親以外にないだろう。親身に無条件に思いやりを与えてくれるのは、我々がこの世界を体験すべく、無意識のプロセスではありながらその門戸を開いてくれた両親以外にはないのだ。この地での体験の為の身体を構築するきっかけを与えてくれたのは両親であり、また、この地にその体験の花を咲かせようとしたのは、あなたの今の個我を含むところの魂なのだ。

我々の想いや感情を知ることで生じる意識の拡大に伴い、更に大きな自己が階層的な気づきをもって現れてくるようになるだろう。それを高次の自己、ハイアーセルフと呼んでいるのではないだろうか。小さな個我の自己をありのままに見ることが出来る視座にあるのが高次の自己というあなたである。

高次の自己、ハイアーセルフとは、子供のような今の個我を、大きな観点から観ている自己なのだ。それは夢幻の向こうにいる、よそよそしいわたしではなく、今ここに潜在するさらに大きなわたしのことなのだ。それはあらゆる可能性の波動に満ちた者、いわば確かに光の存在というべきものであろう。

●時空の本質は「今」ここにある

神なる根源は、物理宇宙または多次元ともいえる諸世界のどこかの「場所」に居るわけではなく、あなたやわたしの「内面」にいる本然のわたしのことである。

Dogen01

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。


今ある幸せ

2009-10-12 11:11:43 | 心の科学分野

●不幸は不足と感じるこころの状態

世の中には自分が幸せでないと誇っている人々がなんと多いだろうか。「自分は今幸せではない、これだけは確実だ」・・ と漠然とながら、なぜか密かな自信をもっているのではないだろうか。

自分は幸せだ・・などと言うことは、なにか極楽トンボのような軽薄な印象を与えるような社会にいるのかも知れない。

好きなことをする金が無い、愛してくれる人もいない、時間が無い、・・あれも足りない、これもない、このように、無い無いづくしでは幸せなど「無い」と思い込むのも確かに無理がない。

しかしながら、つまる所、自分で「無い」を作り出してしまい、その不足に不快感を感じているのではないだろうか。 多分、有るべきものが無いと感じているがゆえに、幸せではないと思っているのだ。したがって、その不足感を補おうと必死になることになる。幸せは様々な物や事の獲得のあかつきに得られるものだと思ってしまうからだ。

●内面の不足感を外部から補おうとする無理

不足に対する不安を補おうとするような、この潜在的なこころのパターンは、現代社会、物質文明の典型的なものである。

物を持てば賢くなれる、お金が有れば羨望と安心が買える、煌びやかな装いは自分の存在価値を高めてくれるかもしれないと考えるだろう。

逆にそのような濁流社会の渦の外にいる人々も、このような世界はそのうち終わり、いつの日にか周りの世界が夢のような幸福に満ちた世界に変わり、やっと自分も幸せになるのだろうとも考えているのだろうか。そこにも不足感が隠れている。

●外の仕組みが個々を幸せにするという勘違い

まさに、そのような大勢の人々の不足感を露骨に秘めた眼差しから創出された世界が、今の物質文明社会と言えるだろう。なるほど、その社会を維持する為には、次から次へと安楽さと便利さと刺激を創り出してゆく必要があるのだ。

その1つのマクロなバロメーターが必死になって操作しようとする経済成長等ともといえるだろうか。ホンの数%の経済成長率を信奉している物質繁栄至上主義のある意味で宗教組織のようでもある。

政治・経済・社会というものも、その仮想の幸せを社会の「仕組み」としてもたらそうとする試みだろう。しかしながら、その仮想の「仕組み」の模索は、内面に感じる本然の幸せが、外から得られるという幻想に気づくまでのものなのだ。

●外部条件という鎖を解放せ

から得られる幸せというものは、条件づきの幸せであり、その幸せなる条件を操ることで人を駆り出す仕組みに陥ることにもなるだろう。期待を持ちつづけ、あるいは持たせ続けて、いつ終るとも知れない無限ループにもなってしまうだろう。

そのような仕組みの世界の中で得られる経験も貴重とは言え、そのループの中で、人生の全てを賭けて取り組み、闘い、矢折れ刀尽きることが全てなのだろうか。

いいやそうではあるまい。

●与えられるのを待つ必要はない

無限ループの中の体験、経験は、自分の幸せが外の誰かから与えられるものだという、ある意味で幼児的な無知と無邪気さ故のものなのだ。とはいえ、幼児期にある我々が、その囲いの集合観念の中でもがくのは、幸せが内面から創出されるものだということに気づくまでの間のことなのだ。

自らを自らで縛ってきたカルマも、あっという間に解き放つことが出来るのは我々の意識の方向づけによるのだ。

誰かがあなたやわたし達を幸せにするのではない。幸せが創出する根源は、恋人でも、お金でも、社会的地位でも、理想社会の仕組みでも、法律でも、大統領でも、陰謀めぐらすフィクサーでも、未来の宇宙コロニーでもなく、ましてや危急を救う宇宙船でもない。

●創造は内面から湧出するもの

人間に備わる「思い」と「感情」が、我々の否応と無く創り続ける世界の原因であることに気づけるだろうか。確かに、単なる思い、単なる感情として2の次3の次にしてきた「想念」によって外の世界が集合的に創られていることに気づくのは、実のところ難しいかもしれない。

目に見えるもの、触れる物から得られるわかりやすい五感感覚だけが全てだと思い込んでいる社会にあっては、無理からぬものかも知れない。まさに外の世界を追い求め、追いすがる無限ループの流れは、刹那の五感感覚を追い求めるこころによって創出されている。

自己を創り続けるところの自己に意識的に気づくことを目覚めと呼んでいいかも知れない。目覚めは永遠の内から起きるのだ。

●自己のこころの鋳型を整えるべし

我々の世界の時空スクリーンに創出する立体映像は、その元の映写機たる個々のこころによって送出されているのだ。

我々がスクリーンに釘付けになっている場合には、そのような世界の創出の仕組みすら気づかないようなものだ。刻々と切り替わり流れて行く我々の世界という物語は、我々の眼すなわちこころの鋳型を通して創出されている。

無意識に世界に居る状態から目覚め始め、その世界の光と影を察知し、次第にその陰影の出所を探るようにもなるだろう。なぜこのような世界映像なのか?どこの誰がこうしているのか?という疑問が湧き出してくるのだ。そうしてその世界スクリーンの隅々まで思い巡らしながら善と悪を見つけようとするかもしれない。 映像で映し出された世界の中に、我々の幸せを邪魔してきた悪が見つかるだろうか。

いいや、本質から言えば、それは多分見つかることはないだろう。見つかるのは、自己の内面にある影の部分の投影としての他者の悪なのだ。

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●各自のこころが映し出す世界

生きてあるこの世界は、我々のこころの鋳型を通じて現れているのであれば、その世界の中にある光と影も、善も悪も、我々のこころの歪、染みのようなものでしかないからだ。

例えれば、創出光の通るレンズの染みや影が、我々個々が見ている世界というものに投射されているのならば、その体験スクリーンのほうを磨いて変えようとしても無理なのだ。また、世界はあなたやわたし達の必死の念によって加工されるというものでもない。

言葉をかえて言えば、我々を取り巻いている世界の変化は、我々の個々の表面意識の働きを支える、存在世界全体に広がっている膨大な意識の仕組みによっているのだ。我々のホンの表面の思いが、勝手にずらずら出て来るというものではなく、内面の深くにある潜在的な鋳型を通して、そのパターンにしたがって自分の世界というスクリーンに出てくるということだ。

あなたも知らぬ間にあなやは創造を行なっているのだ。

●責任は我にあり

行なうべきは自分のこころというレンズを磨くことなのだ。自分の汚れをそのままにしながら他者の演技の出来が良いとか悪いとか、善だとか悪だとか言うのは多分余計なお世話だろう。

自己と他者という鏡の反射を学びながら、他者は他者でおのれのこころというレンズに磨きをかける為に、この共同世界で演技をしている存在なのだ。

我々を取り巻く世界の責任は我々にあり、何処かの他者にあるのではない。

●なぜ全き自由を怖れるか

これは逆に言えば「全き自由」に他ならないと言える。驚きをもってでもその全き自由を自己で認識するべき時なのだ。そうすれば、今は不明確で不確かながらも、意識存在という我々に対してこころから感謝をすることになるのではないだろうか。 不足や不完全であるという思いから来る不満や批判ではなく、こころ次第で現れる世界にあるという思いからくる「感謝」と「共感」である。太陽も、風も、大地も、水の流れも、そのあるがままを表現している。そこに不足があるとどうして考えたのだろうか。

●幸せはいつも「今ここにある」

幸せは今ここにある。生きてあること、笑えること、怒れること、悲しむこと、慈しむこと、それは思いと感情という創造の泉から湧き出すものだ。

それを汲み出すのはいつもあなたやわたし達以外にあり得ようもない。

今、意識を自分に戻すときではないのか。そして外ではなく、自分の内面のこころという鋳型レンズを、出来るだけクリアーにしてから表を眺めてみるべきなのではないか。そうすれば、いつも有った「今の幸せ」を発見するに違いない。

太陽も、月も、星も、風も、水も、大地もいつも黙ってそこにいてくれていたことがわかるだろう。そうして奇しくも我々の世界に同時に参加している、全ての存在に感謝せざるを得ないのではないだろうか。

  ごめんなさい

   許してください

    愛しています

     ありがとう

Flower1007

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


自己を許すこと・癒すこと

2009-09-27 12:06:08 | 心の科学分野

●こころを洗う

今、我々のまず為すべき事は何だろうか。

多分・・・、それは我々夫々の「思い」の浄化ではないだろうか。

それは自らが行なえるものであり、また自らしか行なえないものだ。

自分の「こころ」の洗濯である・・・・

ただし、こころの洗濯というのは、こころの中の汚物を洗い流すことということではなく、汚物と感じている様々な感情に意識の光をあて、キラキラ輝く体験・経験という宝物に変質させることなのだ。

●トラウマは夏休みの宿題のようなもの

トラウマやこころのしこりを、それを嫌なものとして捨て去る行為ではなく、それと対峙し、それを観て、その経験意味を悟ることなのだ。悟りとは究極の達成ではなく、1段1段と確実に登る階段にある・・と言うことであり、目からうろこを落とし続ける行為のことであろう。

その為には、自分の感情が訴える、その歪んだエネルギーの中で右往左往してはいけないと思う。感情の訴えは、我々に混乱や忌避を求めているのではなく、そこに、我々の「観るべき」重要なものがあるという意思表示なのだ。

 

●体験と体験する者の違いに気づくべし

我々は体験自体でなく、体験をする者なのだ。人生を演じる芝居の中の役者のようなものであり、役者は役の中で演じるところの二枚目や三枚目、悪役の役どころ、またそれが喜劇、悲劇のストーリーであっても、決して自己を失わないことと同じなのだ。

我々は間違いなく、体験・経験自体ではなく、それを体験している主体である「魂」「意識」という、人生の舞台を超えたところの役者なのだ。あるときは喜劇、あるときは悲劇、あるときは加害者、あるときは被害者として、この地球という独特のフィールド演劇に出演している。

未だ大勢の人間達はそのことに気付かずにいるのかも知れない。演劇の中の自己の役回りが、自分の思いや感情によって創作されていることに気づく段階において始めて、自己の演技、演出、体験を創造している役者である自己に気づくのだろう。他者が我々の人生のシナリオを描くわけではないことに気づく必要があるのだ。

 

●我々は無限に自己演出する役者のようなもの

役者が、単に役の中の体験演技にこだわり、その役どころで進行する時空舞台の演技という流れの中で、トラウマを作り上げることの「可笑しさ」に、今はもう気づくべきかも知れない。プロの役者ならば、気にするべきは、思いや感情によって創られる自らの演技の輝きかたであり、決して単に舞台の中の様々な物語自体ではないだろう。人生のある時は喜劇、ある時は悲劇の様相を呈すものだが、自分が役者であることを知っている者は、その様相自体に己を没入させず、そこにいる自己を、それを大きな視野で観ながら演技する者なのだ。

様々な気付きのレベル、段階において経験するものは、それを経験・体験することでその気づきのレベル、段階を超える為の後押しであろう。たしかに、経験しなければ一体何が解るものだろうか。体験・経験は大きな自己への気づき、理解を深めるためのものなのだ。それを創り上げるのは、自己の思いであり感情である。

 

●外は内の反映でしかない

目の前の机を、縦にしようと横にしようと、我々の魂の発露であるところの本質的な「思い」は何も変わるものではない。洋服を変えようと着飾ろうと、我々の内面は変わりようがないのだ。ゴッタ煮のような情報群を百科事典のように集積するだけでは、知恵や力には変わりようがない。

世界の多くの人々が外に向かって、いかに夫々の自己主張を行なうか、いかに相手に理解してもらうかに腐心している。それはベクトルが違うのだ。自らを理解するのは自らであり、それを他者に求めるのはまさに筋が違う。

外なる世界の諸物を、ここあちらと切り刻んでも、また統合しても、それはごまかしやお遊びでしかない。その前に、自らの存在として拠って立つところの、魂の発露である「思い」に対峙すべきではないだろうか。地球という、愛溢れる大舞台を維持する者は、役者としての人類の目覚めと感動的な演技、それを待っているのだ。地球という大舞台をここかしこ切り刻んで遊ぶような幼年期はもう終りかけている。

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●こころは体験の動的フィルター

自己の周りの世界を認識するのは、我々の「思い」と「感情」という内面の働きである。世界をあるがままに見るには、我々の中にある、こころの歪を探り出し、思い出し、それが単に経験と感情であることを認めるのだ。そうして、そこにあるかも知れない、怖さ、恥ずかしさ、憤りなど、内面の歪となっている感情を勇気と根気で解きほぐし、その噴出をそのまま開放するのだ。

こころは各人各人の体験のフィルターであり、我々の行なうべきことはそのフィルターを掃除することだろう。トラウマはフィルターに映る影であり、その影の原因である歪んだ思いと感情を、自ら癒すべきなのだ。

そうしたあかつきに、我々の目の前に映し出される世界・地球は、実に調和に満ちた世界でありながら、様々な生命たちの、かけがえのない体験と学びの場であることが理解されるだろう。

以前の記事の繰り返しになりそうだが、ホ・オポノポノの言葉は、実に簡単でありながら、広大な生命の海ともいえるこの諸世界の根源とつながる響きをもっている。

・・・

ごめんなさい

 許してください

  愛しています

    ありがとう

・・・

この言葉は、自己を癒し、自己の鏡である他者を癒し、全てのものが、全ての為にこそ存在している真相を表わしていると感じないだろうか。癒しは体験を、感謝すべき知恵に変質させるためのものだ。

実のところ、ここにも、どこにも、かしこにも、「許し」と「愛」と「感謝」に満ち満ちているのが真相なのだ。まさに宇宙全体は未知から既知へ、嬉しく楽しい実のある体験を続けている。

Nature1008

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。