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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

内観の重要性

2009-07-19 13:13:36 | 心の科学分野

 このブログでは、盛んに自己観想、内観の記事が出てくる。どうしてそんなに自己を観ること、自己の意識を客観視する行為が重要なんだろうかと思うかもしれない。単に精神の修養だろうか、と考えるかもしれない。また、精神の修養であれば、それは物質環境が整って、余裕が出来てからでも良いのではないか?と考える節もあるだろうか。

●外と内はつながっている

 しかしながら今の時期ほど内面の無限性に気付くべき時はないとも言えるのだ。1つの外宇宙が無限に見えるのは、内面に無限があるからなのだ、外に見えるものは必ず内にもある。我々と世界の関係は、あたかもメビウスの帯のごとく、内と外が繋がった1つのものといえるだろう。

180pxmc3b6bius_strip180pxkleinbottle01 ( ウイキペディアより)

 

 この内と外の相関性に関して比喩的に説明できるものとして、波動の共鳴という概念がある。科学的に?言えば「位相共役」というものである。位相共役とは、進んでいるまったく同じ「波」が、その方向が全く逆の関係にあることを示す。右から進む波と、左から来る波が同じであれば、出会うところで重畳され、そこで相互に共振する新たな定在波が生成される

●知覚とは波動の共鳴

 通常は、我々は外の世界を知覚していると思っているわけであり、すなわち肉体にある五感というセンサーで、光や音や振動という波動を受けて感じていると思っているのであるが、これは片手落ちというものであり、逆に、我々の内面を通して五感を含む全知覚の窓から正反対の波動を送り出しているということなのだ。すなわち、我々は、外の世界からの刺激情報を一方的に受けている受身の存在ということではなく、内面(こころ)からの波動と外面(環境)からの波動を「共鳴」させているという仕組みを言っているのだ。

 例えば、コウモリ、イルカ、クジラなどが超音波を発して身近な物体の位置などを認識してるのは、受信のためにまず発信をしていることによる。船や飛行機がレーダー波を発信して、その反射、干渉波を受信しているのと同じ理屈である。

 またラジオ受信機と言えども、受ける電波と同じ波長の振動が機器内部になければ、それを同調・受信することは出来ない。これは、例えば脳による刺激感受であっても、その受信者たる人間は、入射してくる波と「位相共役」な仮想信号を作り出さなければならないということでもある。

 知覚の全ては波動間の共鳴といっても良いかもしれない。大切なのは、我々が内面に波動をもっていなければ、外と見える世界の何も知覚出来ないという新たな気付きと言えるだろう。

 ビスケー湾に現われた西洋の帆船を、原住民が一切見えなかったと伝わる話も、また、催眠術師の暗示によって、特定の人や対象が見えなくなる不可思議な現象も、ある意味理解可能と言えるだろう。

 外の世界を知覚しているということは、知覚を通して外と内が一体である有様のことであり、外と内が実は一体である証拠でもあるだろう。もっと根本的に言えば、五感を含む全ての知覚作用は、根源から現われた大いなる意思の表現する世界を「意識する」ことであり、人間の役目はそれを無限にある各自各自の方向から観察することではないかと思われる。観察とは静謐の中にあるダイナミックな創造へのありのままの共感のことだ

 

●外と内の狭間にある鏡:自我意識

 比喩でいえば、外の世界と内なる世界との間の「鏡」が、我々の自我といえる。鏡を見ながら化粧するのはおなじみの行為であり、鏡のこちら側、あなたや私たちの意識のある方を変えると、鏡に映る像も変わるのは日常の経験である。それは単に化粧直しや整髪のことではない。身体をもってこの世界にいるというあり方そのものが、外面(世界)と内面(意識)の相互のあり方を明示していることに気付くべきだろう。極めて単純なことの中にこそ真理が示されている。

我々は決してこの世界に取り残された、数十億の哀れな魂の孤児達ではではないのだ。

「外」は常に「内」なるものの、丁度そのとおりの表現であればこそ、どこにどうして孤独や分裂があるものだろうか。いいや実は、それは有りもしない幻想であったのだ。単に自ずから描くべきこころのカンバスが空虚であっただけのことだろう。外に叫ぶ必要などなかったという事が真に気付く時が今訪れている。

13叫び」 ムンク作 1898

●片手落ちの世界観

 我々は今、光と物質に溢れた世界にあり、物質のその硬そうな形態をいかに変化・加工させるかに腐心してきたようである。物質文明はまさにそのように進捗してきたものだろう。外にのみその「対象」が在るという観念は、まさに当たり前のようにわかり易いものであり、そうであるがゆえにこそ、我々自身は、その物質世界の片隅に在る、ひ弱な肉体人間であると無意識に結論付けてきたのだろうか。

 また唯心論的宗教ドグマも、外なる神なる者を対象にしてきたきらいもあるかもしれない。唯物論的世界観も、唯心論的世界観も、どちらも片手落ちであろう。外の美しい物質世界も外の神なる完全なる者も同じことではないだろうか。 自己(内面・意識)と 世界(形態・表れ) との共鳴が見受けられないとも感じられる。

 全てが大いなる根源の内観によるものとしても、今我々人類が精一杯の世界観を持つとすれば、このような内と外の調和と共感ではないだろうか。今ようやく量子物理の世界を経由して、このような自他一体的な観点を見出し始めているようだ。

 こころの復権とは、こころだけに偏ることではなく、それを現し続ける周りの世界へも最大限の愛と敬意と感謝を表明することではないだろうか。

 

●用意された環境・物質世界

 地球の提供する物質環境、外の世界、ある意味御膳立てされたこの世界のおかげで、人類は泣き笑いしながらも様々に学ぶことが出来たわけである。しかしながら、一体全体このような、内面を映しだすところのわかり易い物質世界・外の世界が用意されていること自体に、どうして気付かずにいたのであろうか。まさに当たり前の中にこそ奇跡はあると言うことだ。

 三次元的物質偏重観念により、どうしようもないと感じる世界を、健気にそれでも力づくで変えようとする者と、それをボンヤリ見ている者に分かれてきたのかもしれない。またその本質を理解する覚者も少なからずいたことを忘れてはならないだろう。

●なぜここに我々がいるのか?

 しかしながら、それは既に答えが伝えられている。それは様々な変質を経ながらも人類のハイレベルな記憶や教訓として語り継がれてきた。仏陀、イェショア、・・・・、その他大勢の覚者たちの珠玉の言葉は、延々と、かつ静かに歴史にあり続けてきたのだが、我々、普通と言われる人間達は、その静かな言葉に意識を向けず、その他大勢の顔色を見ることを選び、有りもしない作られた平均的な観念に安住し、心地よい眠りの中に自らを没入して来ただけのことだろう。

「汝自身を知れ」

なるほど、この真の意味を少しづつ知ってゆくという事は、なんという驚愕の学びなのだろうか。

 

●外の世界:鏡の前に、いつもいた私たち

 外の世界にうごめく、自己の希望とすれ違う様々な諸現象に遭遇することで、それから逃れるべく、鏡の前で眠ることを選んでいたのかもしれない。他生に渡るカルマや転生はその為にこそ用意された辛抱強い仕組みといっていいだろう。カルマ・転生、それは自分が様々な夢の体験から目覚めるまで、辛抱強く待ち続ける「自分」のためのものといえる。

●外界は我々の衣服のようなもの

 外の世界は、あなたや私たちの内面の反映であることを知るためには、内面を観ずして出来る相談ではないのは明らかではないか。外の世界は単独にまた偶然にあるわけではなく、あなたや私たちの教材の為にある。

 我々はこの世界を、それぞれで多少異なる衣服として着ている同士ようなものであろう。各自の世界は各自の視座から見える別々の角度をもっているが、人類の魂レベルでの無意識の同意に基づいて、この地球というある意味で共役な、時空生命学園を構成している。

 しっかりと確実にあなたや私たちの意識の拡大と進化、深化にピッタリとした衣服を提供しているのだ。我々の衣服は肉体ではなく、我々を取り巻いているように見える世界のことだ。

 

●内面にて創造するための学び

 一説によると、我々が肉体を去った後に赴く高次元世界、霊界は、様々にある学びの場への中継地とも言われている。そこではそれぞれの魂の表現レベルを調律し、思いや感情がどれだけ鍛えられ進化したかを自己観想するようである。我々は忘却というルールをもって何度も行き来しているものであるが、高次元意識体であればこそ、自己のツールである意識の使い方の進化レベルをしっかり把握し、更なる体験と気付きをすべく再び下生するか、数多ある生命学園に進級するか自己裁量で決めるようである。

 また更に高次といわれる数多の異なる時空世界では、意識の作用・こころの思いがすぐさま形態化する世界のようである。それはあたかも熟練した画家が短時間に絵を描きあげるようなものだ。絵も作文もこころが創るものであることは誰も知っているだろう。カンバス、筆、鉛筆、原稿用紙が描くものではない。ましてや肉体、頭脳自体が人生創作の因ではあり得ない。

 我々の核である魂の様々な人格表現、それが高次元意識体であっても、これで十分と言うことはなく、それは、今この根源から湧き出し続けるところの宇宙が、永遠ともいえる輝きをもっていつもいつもそこに見えることでも理解可能だろう。

 

●愛を気付かせる地球フィールドに感謝すべし

 我々の学ぶべきことは、多分に、この世界が「愛」で遍満した形態世界であることに気づくことであり、そのためには、同時に、あなたや私たちの内面に「愛」を発見してゆくことが必須だろう。

 その為にこそ、自己の意識作用、こころの働き、思考、感情を観察し、その時々で出来うる限りの純粋で、強力で、美しい「愛」と「理解」を、内面に創り上げる必要があるのだ。愛は内面同士の共鳴を外に現したものであり、共感であり、その共鳴波動は新たな別の波動となる。自他一体とは、それぞれ別でありながら、愛で一なるものに統合・調和される新たな創造だろうか。

 地球はそのための学びの場を提供している、愛と理解に満ちた巨大な「意識」なのだ。それが口でもの言わずとも理解すべきことだ。我々の周りに様々な物や事があるのは「」の賜物である。すでにある愛に気付くには、飛び跳ねるこころを静めることがまず肝要であろう。こころという意識波動自体に自己投入せず、そのこころを観察しながら、それを創る者として、遥かに見晴らしのよい視座に、本来から居続けてきたことに気付くべきときではないだろうか。

意識の変容は、まさにそのようになされることだろう。

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


こころの大掃除・自己観想

2009-07-12 09:39:58 | 心の科学分野

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われわれのこころすなわち、思いと感情あるいは想念は、われわれ人間存在にとってもっとも重要な属性であるのは明らかだろう。身に着ける衣服は汚れるたびに洗濯するだろうし、体の汚れはそれこそ毎日のように、シャワーやお風呂で流している。

 それなのに何故、その衣服や肉体より極めて「わたし」に近い、こころ・想念の洗濯はおざなりにしているのだろうか。眼に見える物は劣化し汚れるのがわかるけれど、眼に見えないため、また自己の傍にあるため、そのこころの作用の調律の必要性、それ自体を意識していないせいなのかもしれない。毎日の生活の体験や、それらに対する思いや感情でもって経験知を重ね、それぞれに人生の意味を見出している身でありながら、どうして根本的な自分の思いや感情・想念自体に注意を払わないのだろうか。

 われわれが他の動物でなく、人として生きて在ることの特性は、実に、この想念にあるといって過言でもないが、どうして自分の思いや想念に殊更気付かないのであろうか。因である思いや感情が行為や行動を促し、その集大成であるわれわれの人生を形づくっているのというのにもかかわらず、何故か気付くことを忌避しているようだ。それとも、自己がどこか遠くにあり、面倒な自己に向き合う代わりの、別の何かを探しているのだろうか。

 我々の多くは、自己という存在の、外側からやってくるように見える、不本意なハプニング、他人の命令、脅し、促しや集団規律、そのようなものが、自分達の人生を決めざるを得ないだろう・・?という、漠然とした、ある意味で弱みをあげつらい、多くの人々の間の、架空の相互依存で構成された集団信念体系をに没していると考えても良いだろうか。

 自分という存在のあり方を枠付けするのは、なんと、自分ではなく、すべては外からの、あるいは環境からの働きゆえのものである・・というような、不明確な自己認識に陥って、眠っていると考えていいだろうか。それはまた、極めて単純な唯物史観やプラグマティズムの賜物だろうか。それに気付く機会を毎瞬毎瞬持ちながら、皆が皆眠っているお互いを見て安心し、再びまどろみの中で眠ることを繰り返して来たのかもしれない。それは恐怖を反面教師にした、一時の仮の惰眠でしかないにもかかわらず。

 

 外から規制される自己の人生?という不本意な信念をもっていれば、何がやって来るかわからない不安定な外側の世界や社会からいかに身を守るか?いかに有利にもってゆくか?いかに逃げるか?というような、こころの態度を持つことになるのは、火を見るより明らかではないだろうか。その根底に在るのは「恐怖」である。何が出てくるか?、なにが自分の身に及んでくるか?わからない不安な状況は、あたかも、わけのわからぬ幽霊の話を聞いて怖がることと同じことだ。その不安は「好奇心」や、いわゆる「ワクワク」とは正反対の、いわば戦々恐々というものであろうか。我々は、いつの間にか、重くて疲れる、こころのゲシュタルトを身に着けているということかも知れない。

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ホドラー作:生に疲れた人々1892)

  

 このようなこころのパターンをもった我々の有様が、例えでいう子羊の群れであり、ハーメルンの笛吹き男についてゆく子供達のたとえであり、揺りかごで何世にも渡って眠れる人々であるといえるだろう。

 物質偏重の観念世界においては、巨大な物量に比べて肉体はか弱く、個々の人々は相互に理解不能であり、人生の一寸先は闇の中でありそうだ。自分がまさにそのような、ある意味恐るべき環境に生存していると感じ続けてきたのかもしれない。そのための戦いであり競争であったのだろう。

 そういう観念に縛られていること自体、まさにいわゆる三次元意識形態とも言えるだろう。縦・横・高さで測定、カウントされ、1g10kgで計量される世界の中に、どっぷりとはめ込まれている肉体人間、またそれ自体にも気付かぬ<意識存在>を、いわば三次元意識体と言っても過言ではあるまい。

 そのような三次元意識とは、われわれの意識、こころのあり方が、それが実は三次元であると理解していないが故のものであることは、誠にパラドキシカルではあるかもしれないが、まさに自己意識で創造し続ける、大いなる根源の意識作用であることに間違いはない。汝が信じるごとく汝になる・・という法則は破れそうもない。

 今我々のいる人類世界の不浄部分といわれるもの、一部の物量渦巻く過酷な世界は、まさにそのような自己不信の「恐怖」を集めて創り上げたものかも知れない。肉体を維持・繁栄させるという「種」としてのあり方にのみ、おのれの意識を投影・偏重させた故のものであり、現れては消えて行く現象世界に浸りこんだ意識ゆえのものなのだ。

 われわれの属性である思考や感情・想念は、如何様にも創り上げることが出来るのは誰にも理解が可能であろう。空想、妄想も含め、完全なる自由度を有すのは、この人間に与えられているところの、意識の働きなのであろうことは察しがつくに違いない。

 世間で半ば冗談で言われるテレパシーや念動、不可思議な時空内での現象の一致(シンクロニシティ)、体脱意識経験、臨死体験のような、物質偏重のこの三次元を超える現象は、われわれの意識が第一義的なものであることをほのめかしているのだが、あくまでも物量・計量での検証にこだわり続けるこころの覆いによって、くすんだ光にしか見えないのだろうか。 

 体験し、分析し、経験を集積して、そこに法則を見出す行為は、なにも物質・計量のみに当てはまるものではない。意識、想念という三次元を超えた存在のあり方は、1g10kg、300mという計測・計量を超えているだけのことである。あの、シャイロックの肉片を計るような契約という縛り、物量観念体系に、いつまで浸っているべきなのだろうか。残念ながらその観念体系は、もう終わりを迎えている。

 人間の毎瞬毎瞬抱き、発し続ける想念は、確実にわれわれの「現実体験」にフィードバックされていることに気付くには、間違いなくその想念、思い、感情を観る必要があるのだ。そのものを観察出来ずして、そのものの理解も統御も不可能であろう。

 

われわれの観察すべきものは内面にあることに気付く段階なのだ。外面をこれ以上理解しようとすれば、内面を観る必要がある。他人を理解しようとすれば、まず自分を理解すべきであるように。

 

 自分の思いを観ることは「内観」と言われる。またそれは具体的な表現をすれば「想念観察」ともいい、また自己観想とも言われる。一時、五感の刺激をさける時間をもち、おのれのこころの様々な動き、その千変万化する有様を見ることが出来るようになることは、まさに禅の目的でもある。変幻自在の意識の織り成す万華鏡のパターンが、変換されて気付かない間に、あなたや私たちの世界に投影されていることに気付くまでは、心底次の言葉に気付くことはないのかも知れない。

  

汝(なんじ)ら、汝自身を知れ。

汝が信じるごとく汝になる。

 

 古来からの言い伝えや、聖典と言うものに共通する宇宙開闢のパターンは、神なるものの自己観想ということであろう。根源神はおのれの無限さを知ろうとし続けることで、今われわれもこうして生きてあることは、実にシンプルな存在証明ではないか。

 根源はいまだかつて眠っていたこと等ないのだ。宇宙開闢の<前の>段階はあり得ないであろう。今がいつもその時というのはまさにそうであり、覚醒自体が今であるからには、創造主の覚醒自体に「過去」も「未来」もあり得ないことが直覚できるかもしれない。

 今展開し続ける諸次元宇宙といえども、また、様々な世界を包み込む時間や空間といえども、それは相対的な現象の1幕であり、今の瞬間に、まさにいわゆる三千世界が花開いているといえるだろう。

 

根源たる存在は、常に「今」生きて在り、おのれの無限を嬉しく楽しく現し続けていることであり、それは、そう、今、あなたや私たちがここに在るということで、既に十二分に示されているではないだろうか。

 

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本日も誠に拙い記事をご覧頂きまして、誠に、ありがとうございました。


感謝は世界を浄化する

2009-06-21 09:41:55 | 心の科学分野

●感謝で浄化されるあなたの世界

 我々の意識すなわち思いや感情のうち、「感謝」はそれを発する存在を取り巻く世界全てを浄化する働きをもつものです。なぜなら、感謝は「ありがたい」「ほんとに有難う」という思いであり、同時に「本当にそうだ」・という感情実感を伴うものであり、それが人の周りの環境や物事のほんの一部についてであったとしても、ありのままを全面的に、多面的に「肯定」する想念であるからです。

 

感謝は積極的な「肯定」なのです。誰でもいつでも行う事ができる、シンプルではあるが最強のポジティブ想念とも言えるでしょう。

 

この感謝の想念には、単にこころの浄化のみならず、人の知覚する、いわゆる外の世界に通じた確実で深い法則が存在しています。  

   

個々の意識には個々の責任があるものでしょう。なんでもかんでも、皆一緒は不可能なのです、そうであれば、少なくとも気付く存在の知覚する世界だけでも、責任をもって感謝、浄化すべきでしょうか。そうすればこそ、世界にも光が漏れてゆくものです。責任は各自・自分自身という無限の可能性を少しづつでも観てゆくことにあるのではないでしょうか。 

    

 我々が孤独でつまらなく感じられたり、自分を取り巻く世界が、あたかも敵だらけ・ゴミだらけと感じてしまうような傾向がある?今の世界通念体系において、どのような小さなこと、ものに関してでも、その存在意味を最大限に感じ取り、否定どころか大きなこころの頷きをもって発する「肯定」「同意」の想念が「感謝」なのです。

 

 「感謝」は、単にありがたいな・・という空虚な思いではなく、我々が今生きて在るところの、この創造された世界が、実はなんと素晴らしいものであったのか!と気付くような、とんでもなく創造的な行為なのです。世界に在るわたし、わたしが見る世界・・時折、一見わけがわからぬ現象や不快感に満ちたこの世界において、そこに時々見え隠れするキラキラと輝く瞬間、小さな善意やチャンス、人の情け、動植物の愛らしさ、自然の不可思議で完全なる調和・・等を垣間見た時に感じるのが「感謝」でもあります。 

 小さな動物の可愛さや肉親の情や友人の気遣い、赤の他人の小さな親切なども、それに気付かせてくれる貴重な使者と考えられるのです。彼らの時折示す光のメッセージともいうべきものは、こういうことを言っているのでしょうか?

 

●自然からのメッセージ

『世界はあなたが感じているかもしれないような、つまらない世界ではありませんよ。

あなたの見方次第でどのようにも見える世界なのです。

あなたは世界を力づくで変えるものだと勘違いしているのではないですか。

また、ひょっとして、外の世界があなたに富や栄華をもたらし、

安寧なる思いや・幸せをもたらしてくれるものだと勘違いしているのではないですか。

・・・

もうすでに在る、自然なあるがままのそのままが、既に極上の創造世界であり、

それにあえて包装を施して見えなくしているのは、

単にあなたの「重い」思いのベールだけなのですよ。』

Flower1002

確かに無数の自然の仲間達には「思い」のベールはなく、小難しいアピールなどはありません。まさに、そのままです。花も木も草も物言わずとも、人間であればこそ、そこにただ在ることに、こころから感謝してあげることもできるのです。(気がつかないですいませんでした。)

 あなたやわたし達や、この無限とも思える世界の「今」在ることに感謝する瞬間は、それを創造した根源意識の思い自体を感じる瞬間でもあります。時折訪れるのは小さな感謝かもしれませんが、その「感謝」は全てのすべてを、全てのすべてとして有らしめ続けている創造の本質に「同意」する想念なのです。まさに創造に意識的に参加していることに気付く瞬間です。そこには小さいも大きいもないのです。

 

●一見仇(あだ)と見えるものに感謝できれば、その仇は解放される

 一見イヤだと思えるものやことに、逆に感謝することができれば、その嫌なものやことの存在「意味」を感じてあげられることになるものです。逃げる事は誰でもいつでもできる事でした。しかしながら、その一見嫌なものやことに勇気をもって合い対峙し、それを見つめ、そうしてその嫌なものやことの群れの、裏に隠れた切なる演技を認めてあげることこそ、その嫌なものやことを開放してあげられるものです。

 

確かに、どんなものにも感謝ができそうです。

 

●一見無責任とも感じる近所の人への感謝

 近くに一所に住んでくれてありがとう。あなたがどういう人かわからないけれど、近くにいることでなんとなく連帯できるのです。たった1つの会話も半年かけてしかできないけれど、それでも、ここが極北の極寒のさびしい地域でないことは、実にあなたがたのおかげです。ゴミをたまにずさんに振りまいていたとしても、そんなことぐらい許せます。いつもありがたいと思っています。

 

●仕事場や仲間内での、そりの合わない人への感謝

 他人を罵倒し、細かいことをあげつらうことで、あなたなりの仕事の厳しさを、ことさら大げさに教えてくれているのですよね。あなた自身が大変であることがわかります。例えわたしをののしっても、それで嫌な感情を抱えるのは、まずあなたの方でしたね。わたしは、どう捉えるか選択の余地があるのに、あなたはもう嫌な感情を抱えてしまっているのですね。そこまでして示唆を与えてくれてありがとう。あなたが無意識であってもそれに気づける事に感謝します。

 

●電車のなかの大勢の無表情な乗客への感謝

 いつもながら何かに不満なのか、決してにこやかではないのはよくわかります。席が空いたら我先に突進して座るナリフリかまわぬあなたも、やはり疲れているのですね。咳1つしただけで変な顔してそっぽを向くのも、インフルエンザやらなにやら何か不安があるからでしょう。ラッシュで足を踏まれて「ムカっ」とくる自分も許してください。わたしがあなたの足を踏んだら「ムカっ」ときてもいいので、後でいいので同じように許してください。誰ともわからぬ多くの人々は、わたしと同じ世界に、それもすぐそばにいてくれていますね、ほんとうにありがとう。

 

●どこかすっきりこない両親へのあらたな思いの感謝

 あなたがたは良く子育てをしてくれましたね。私たちが、大人になって、今ここにいること自体がその愛の結果です。ほんとうに感謝します。大人も皆皆発展途上ですよね。大人と称して好き勝手なことをして、たまに怖い事や嫌なことも目の前や見えないところで行なっては、その反面教師ぶりを発揮してくれた時もありましたね。この世界の中で生きるのはやはり結構大変だったでしょう。それなりに努力してこられました。子供達は、それこそ親のおかげで、よい事わるいことなども教わるものです。それがなければ薄っぺらな人になっていたかもしれません。お父さんお母さんありがとう。誰よりこの世界で最も近くに居てくれて、こころから感謝します。

 

●陰謀巡らす道化芝居のピエロさんへの感謝

 社会の頂点で大勢の人を影で動かすことを面白がっているんですね。自分を観察し自分を動かす前の学びなのでしょう。お金や権威を溜め込む事でそれを使って他人を使役する力を大切に思っておられるのでしょう。面と向かって人に誠意を示すことの方が疲れることを良くご存知ですが、結局はいつかそれを通らなければならないようです。古くは私たちのやってきたかも知れない権力と支配の道化芝居を、今見せてくれてありがとう。それがなければ浅薄な平面世界で終っていたでしょう。善や悪が相対的な、ま反対の同じものだとダメ押しのように気付かせてくれてありがとう。この世界に、光と影の陰影をつけてくれて感謝します。もう影のお役目は十分でしょう。皆気付いてきましたからね。

 

●眼に見える見えない多くの仲間への感謝

 思えば宇宙の中で1つでも根源からでてきていないものはありません。きづかずにごめんなさい。外の世界を切れ切れに分割し、分析し、小さな一片まで追及したところ、そこには宇宙が広がっていました。

  いつ果てるとも、どこが限度ともわからない宇宙は、実は私たちのこころの反映でしたね。反映である外の世界ばかりに眼がいく事もあるのですね。内に在るのはその世界を投影する根源でした。内なるこころがなくて外なる世界は現われてはこないことは、宇宙の無限からも感じることが出来たのです。内なる意識を辿れば、そこには数限りない同じ意識を発見することでしょう。そうすれば外なる世界からも大勢の仲間が現われてくるものでしょう。外は内の反映ですから。眼に見える見えないに関わりなく、数限りない多くの仲間たちに、こころから感謝します。

 

●母なる地球・父なる宇宙への感謝

 我々にいつもある直覚知を再び思い出し、使いこなす段階になりました。、理論や実証などの乳母車は二の次でよいのですね。いつも、今在るのは私たちの魂と意識、そしていま地球から与えられているこの体でした。天真爛漫に遊べる宇宙という砂場、いくつも在る無限の世界が創られていることに驚きと感謝をしないではおられません。

お父さんお母さん、いつもいつも有難うございます。

兄弟たちいつもありがとうございます。

全ての全てに、せめて今の瞬間だけでも、魂こめた精一杯の感謝をさせてください。

 ・・・ 

「有難うございます。」

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました。


悟りと人間

2009-04-29 14:09:06 | 心の科学分野

●悟りは達成ではない

「悟り」とはなんでしょうか。大概、何か宗教的なイメージを持つかも知れません。悟りを開くという言葉にあるように、人間が、至福、安心、静寂などに象徴されるある意味で落ち着いた、広く、高い意識状態を、恒久的に実現しているとも言えるでしょうか。

また「解脱」も「悟り」に似たイメージを持つかも知れません。なお、ここでは言葉の定義の話をしているわけではないので、それらの定義の細かい枝葉をあげつらうつもりもないのです。

 悟りや解脱は、過去の聖者や宗教の開祖、まれに歴史に残る有名な覚者たちだけが成し遂げる事ができる「偉業」というものではないと考えます。どうしても世間一般の観点から見れば、宗教や、昨今の言葉でいえばスピルチュアルな分野での偉業や達成などのようなイメージを持つ場合が多いでしょう。また宗教界におられる、または造詣の深い方々は、更に深く専門的な見解をもっているものでしょう。

 

●悟りはありのまま、素のままにあること

 悟りは世間の観念から見えるところの偉業や達成ではなく、元(根源)の自分という、素の有り様に立ち帰ることです。例で言えば、映画館で上映される映画に没入していた自分から、観客であった自分の意識に判然と気付いて目覚めることです。結果の世界、現象の世界に入り込み、そこに自分という意識が入り込んでいるということ自体も、忘れていた自分自身に気付く事です。

 気付くと言うのは、ちょっと気にする・とか、ひょっとして・・等という意識レベルではなく、<まこと・そうであったと『悟る』>ことでしょう。『悟り』は今ここにあるのであり、苦行難行して得られる偉業や達成ではないのは明らかでしょう。今このままで、素のままで、何も確保せずとも、どんな位階になくとも、何を言われようとも、どんな風に見られようとも、それは本来のことではないのです。今在る、当たり前の自分に戻るということは、いつも、今もそうである今のこの瞬間の存在自体であることなのです。過去にも在ったし、今も在り、何時のときも在る、自分への自覚のことです。在ることが第1義的であり、その周りにその都度飾られるものは、刹那の影法師のようです。

   

●「今」が奇跡と感じること

 当たり前の自分であるとは、今存在しているこの瞬間の奇跡に対して、それをそのままを認めることであり、それがそのまま、まさにそうであるということ・ということです。今という『奇跡』の瞬間にあることは、まさに自分自身も『奇跡』であることは自明であり、『奇跡』の中にあり続ける「今」を通して、無限である自己の広大さに気付いていることになります。自明の理と云わずして何というべきでしょうか。

 云わば、魂という広大なる自己自身が、意識という働きを通して自己投影し、自己を自己として認識し続けているのが、森羅万象とその根源であり、同じく、その中に包含されている、今の私たちなのです。各自の広大なる自己は、無限から現われ出ずる者であり、確かに我々皆ともに、まさに『無限』の「極み」以外の何者でもないのです。

   

●無限の先の先には、いつも「今」が在る

 その『無限』を様々な形態として有らしめるものは、自己自身を見つめ続ける『愛』であり、その自己を愛し続けるためにこそ、無限数の魂達である我々がいるのです。我々個体と見ゆる人間は、無限と有限の、その多様さの永遠に在るイメージの中に、様々な存在世界の要素を演じているということも出来るでしょう。体験や思考、感情、想像を表出している、我々人間意識という1点の中にも、その全体、無限が包含されている有様は、まさに無限を超えた、また、悠久を超えた全体という言葉をも超えたものでしょうか。

その超えに超えた先にあるものが、どこにでも在る、「今という永遠のこの瞬間」であったのです。

 

●悟りはすなわち難解でないこと

 悟りは、そのまま、あるがままの中にこそ、その自己たる無限を実感することであり、物や形や情報や、ましてや露と消える金銭などとは全く無縁のものです。悟りを開いたといわれる存在達が世俗を捨てたように見えるのは、まさに見えない者が抱く『虚妄』であり、まさにそのままの有り様に、そのままあり続けること自体が、もっとも今を生きているということの逆説を示しています。確実に今この時を生きているのは、逆に虚妄を捨て去った者達の方であり、遥か遠くにいるのは、世俗に埋没し自己を一体化させ、我を「忘れた」在り方をしている存在のほうだといえるでしょう。

 別の意味でいえば、もっとも刹那的で、最も不快で、最も孤独なあり方を自ら選んでしまっている我々大多数といわれる人間の有り方の方こそ、難解この上もないものであったのです。

 

●元々解脱していることに気付けるまでのこと 

 『悟り』等無い・・と感じる状態、解脱などしていない信じ込み、自らをわざわざ降下させ、枝葉、末端の中に、まことに広大な己の意識を押し込める体験自体は、逆に、難しいことこの上もなく、森羅万象、宇宙広しと言えども、確かに独自の素晴らしい体験でもあります。

 今のこの瞬間という、『時』のない『今』という『瞬間』の永久性、言葉を変えれば、連続性に気付く事ができるならば、我々の誰にもある死という、相対的な世界での存在形態の転換も、まさに相対的なものであると理解されることでしょう。今の瞬間が『永遠』であれば、どこで終ってしまうのか?という疑念自体も、馬鹿げていることに判然となることでしょう。

我々は有りて有り続けて「今」在ります。

 二度あることは三度あるという意味では毛頭ありませんが、今この瞬間に有るということを、そのまま、ありのままに観ずることができれば、変化を纏(まと)いながらも、瞬間瞬間で永遠に自己であり続ける生命・魂の壮大な仕組みにも間違いなく気付く事でしょう。

 

●人間本来無一物

 最近放映された「禅」という邦画ではありませんが、まさに素のまま、在りのままとは、本来、何も所有などしていないことを覚知し、肉体も借り物であることを、こころの底で理解することでもあります。我々にあるのは、今というこの瞬間、瞬間の永遠なのです。これが解ることがどんなに難しいことなのでしょうか。今在ることが永遠(とわ)といっても、それは山のあなたの永遠(はるか遠く)にはなく、今この瞬間にあることは明々白々の真実です。

 きれいごとの話でも、なにか詩のようなの話でもなく、事実、今この瞬間というものしか無いことがわかると言うものです。今のこの瞬間に気付いてしまったならば、あらゆる楽しみも失われるかもしれない等という猜疑や恐怖こそが、「ここ」にあらぬこころ、という状態をもたらしているのでしょう。こころが「今ここ」に居なければ、当然ながら、いつも遠くのどこかにあると思うものです。

 

●本来、楽しきこと限りなし

 まことの嬉しさ、楽しさは、今この瞬間に己を帰着させることを合図として現われる、無限に親身な仲間たちのことでもあります。仏頂づらした他者も、脅しにかかるエゴイストも、心の狭い他人も、嫉妬深い隣人も、皆同じ道を歩いている仲間達であるということに、どこかで確実に気付くことでしょう。我々が、未だに、好き嫌い、嫌悪、好感を併せ持つ「こころ」であったとしても、それらの光と影として自分の「こころ」に映し出される他人達は、実に自分のために有り、同じ同志であり、親身なる仲間、友人であることに、はた、と気がつくかもしれません。

不完全と見えること、常に道半ばにあると感じることの中に、今のこの瞬間・瞬間から創出しつづける大いなる『愛』や『眼差し』を感じないでしょうか。

楽しきこと限りなし。

もし何か負っているものがあるとすれば、楽しきことまさに限りなし、これが本来当たり前であることを悟る、その務めだけなのです。

 

 Saigyou12

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。

 

 

 


親愛なる「こころ」

2008-07-08 22:01:31 | 心の科学分野

このブログを読んで頂いている多くの方々に、心より感謝申し上げます。

いつもながらの直感と下手な文章による肉付けですが、余興としてお読み頂ければこれ以上のことはありません。

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こころとはなんでしょうか?

多分、こころはわたし達の無二の親友ですかね。

  自分のすぐそばにあるこころを、わたし達は見えていないのでしょうか?

物や他人、社会やお金、毎日それらに必死になって意識を込めるばかり。

  自分以外を、ああだ、こうだと気遣う?のに、自分のこころはおざなりでしょうか?

生まれて以来、あるとき気付けば、自分に寄り添っていた自分のこころ、

  どうでもいい、きらいな身内の奴ばらでしょうか?

こころを使って、外の世界を見ているのに、

  親愛なる自分の内にある、こころを無視でしょうか?

自分がここにあるのも、こころのおかげです。

  本音では、無視したい、闇のようなものでしょうか?

こころは世界の「光」と「影」を造ってくれる、現実世界の設計者ですが。

  わたし達が造ってしまう影は、わたし達はやっぱり嫌いなのでしょうか?

こころがあってこそ、人間として在り得ることは、多分誰も否定はしません。

  それでも、自分の心を、大切な存在として見てあげないのでしょうか?

多くの人が、それこそ沢山のペットを可愛がる世相でも、

不思議な事に、自分の心の働きには、気付かないどころか、ケアもしないようです。

  こころが形として、目に見えないからでしょうか?

物事を客観対象として現象化する機能、形を表すことの出来る 「こころ」は、

  どうしてケアもせず、看てあげていないのでしょうか?

あなたやわたしの無二の親友というよりも、皮膚より近い身近なこころなのですが。

  それはひょっとして、いつも仕えてくれている保護者のようなものでしょうか?

おのがこころの言いなりになって、右や左にふれ続けるわたし達は、わたし達の心の本意ではありません。

  こころは、自分を越えよと言っていると思えませんか?

自分の心を、自分でしっかりと見てあげることが、こころの本意であり、役目です。

  しっかり見てあげるという行為が、愛であると思えるでしょうか?

愛は感情まかせに、無軌道に爆発することではありません。

  しっかり認めてあげること、言葉を変えれば、観察し、理解してあげることが、

  本来の、実践的な愛ということではないのでしょうか?

多くの人が求める愛の感情は、我々のこころ、マインドによるものでしょうから、

おのれの心をしっかりと認識して上げなければならないのでしょう。

自分自身を見ないで、何事も進歩などないとも思うわけです。

最も身近にある、我々のこころは、必ず越えるべき第一のハードルなのでしょう。

われわれは、いつの日にも、潔く堂々とした心であってしかるべきですね。

あの純粋な若い頃、学生時代には普通であった、

あの雄雄しい心を、いつもしっかりと掴んでいたいと思います。

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「旅立ちの日に」  作詞  小嶋 登

    
白い光りの中に 山なみは萌えて 

懐かしい友の声 ふとよみがえる

      
 意味も無いいさかいに 泣いたあの時    

  心通った嬉しさに 抱き合った日よ     

   みんな過ぎたけれど 思いで強く抱いて   

    勇気を翼に込めて 希望の風に乗り     

この広い大空に 夢を託して 

   はるかな空の果てまでも 君は飛び立つ  

     限りなく青い空に 心ふるわせ

      自由を駆ける鳥よ 振り返ることもせず

 勇気を翼に込めて 希望の風に乗り

この広い大空に 夢を託して        

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