このブログでは、盛んに自己観想、内観の記事が出てくる。どうしてそんなに自己を観ること、自己の意識を客観視する行為が重要なんだろうかと思うかもしれない。単に精神の修養だろうか、と考えるかもしれない。また、精神の修養であれば、それは物質環境が整って、余裕が出来てからでも良いのではないか?と考える節もあるだろうか。
●外と内はつながっている
しかしながら今の時期ほど内面の無限性に気付くべき時はないとも言えるのだ。1つの外宇宙が無限に見えるのは、内面に無限があるからなのだ、外に見えるものは必ず内にもある。我々と世界の関係は、あたかもメビウスの帯のごとく、内と外が繋がった1つのものといえるだろう。
この内と外の相関性に関して比喩的に説明できるものとして、波動の共鳴という概念がある。科学的に?言えば「位相共役」というものである。位相共役とは、進んでいるまったく同じ「波」が、その方向が全く逆の関係にあることを示す。右から進む波と、左から来る波が同じであれば、出会うところで重畳され、そこで相互に共振する新たな定在波が生成される。
●知覚とは波動の共鳴
通常は、我々は外の世界を知覚していると思っているわけであり、すなわち肉体にある五感というセンサーで、光や音や振動という波動を受けて感じていると思っているのであるが、これは片手落ちというものであり、逆に、我々の内面を通して五感を含む全知覚の窓から正反対の波動を送り出しているということなのだ。すなわち、我々は、外の世界からの刺激情報を一方的に受けている受身の存在ということではなく、内面(こころ)からの波動と外面(環境)からの波動を「共鳴」させているという仕組みを言っているのだ。
例えば、コウモリ、イルカ、クジラなどが超音波を発して身近な物体の位置などを認識してるのは、受信のためにまず発信をしていることによる。船や飛行機がレーダー波を発信して、その反射、干渉波を受信しているのと同じ理屈である。
またラジオ受信機と言えども、受ける電波と同じ波長の振動が機器内部になければ、それを同調・受信することは出来ない。これは、例えば脳による刺激感受であっても、その受信者たる人間は、入射してくる波と「位相共役」な仮想信号を作り出さなければならないということでもある。
知覚の全ては波動間の共鳴といっても良いかもしれない。大切なのは、我々が内面に波動をもっていなければ、外と見える世界の何も知覚出来ないという新たな気付きと言えるだろう。
ビスケー湾に現われた西洋の帆船を、原住民が一切見えなかったと伝わる話も、また、催眠術師の暗示によって、特定の人や対象が見えなくなる不可思議な現象も、ある意味理解可能と言えるだろう。
外の世界を知覚しているということは、知覚を通して外と内が一体である有様のことであり、外と内が実は一体である証拠でもあるだろう。もっと根本的に言えば、五感を含む全ての知覚作用は、根源から現われた大いなる意思の表現する世界を「意識する」ことであり、人間の役目はそれを無限にある各自各自の方向から観察することではないかと思われる。観察とは静謐の中にあるダイナミックな創造へのありのままの共感のことだ。
●外と内の狭間にある鏡:自我意識
比喩でいえば、外の世界と内なる世界との間の「鏡」が、我々の自我といえる。鏡を見ながら化粧するのはおなじみの行為であり、鏡のこちら側、あなたや私たちの意識のある方を変えると、鏡に映る像も変わるのは日常の経験である。それは単に化粧直しや整髪のことではない。身体をもってこの世界にいるというあり方そのものが、外面(世界)と内面(意識)の相互のあり方を明示していることに気付くべきだろう。極めて単純なことの中にこそ真理が示されている。
我々は決してこの世界に取り残された、数十億の哀れな魂の孤児達ではではないのだ。
「外」は常に「内」なるものの、丁度そのとおりの表現であればこそ、どこにどうして孤独や分裂があるものだろうか。いいや実は、それは有りもしない幻想であったのだ。単に自ずから描くべきこころのカンバスが空虚であっただけのことだろう。外に叫ぶ必要などなかったという事が真に気付く時が今訪れている。
●片手落ちの世界観
我々は今、光と物質に溢れた世界にあり、物質のその硬そうな形態をいかに変化・加工させるかに腐心してきたようである。物質文明はまさにそのように進捗してきたものだろう。外にのみその「対象」が在るという観念は、まさに当たり前のようにわかり易いものであり、そうであるがゆえにこそ、我々自身は、その物質世界の片隅に在る、ひ弱な肉体人間であると無意識に結論付けてきたのだろうか。
また唯心論的宗教ドグマも、外なる神なる者を対象にしてきたきらいもあるかもしれない。唯物論的世界観も、唯心論的世界観も、どちらも片手落ちであろう。外の美しい物質世界も外の神なる完全なる者も同じことではないだろうか。 自己(内面・意識)と 世界(形態・表れ) との共鳴が見受けられないとも感じられる。
全てが大いなる根源の内観によるものとしても、今我々人類が精一杯の世界観を持つとすれば、このような内と外の調和と共感ではないだろうか。今ようやく量子物理の世界を経由して、このような自他一体的な観点を見出し始めているようだ。
こころの復権とは、こころだけに偏ることではなく、それを現し続ける周りの世界へも最大限の愛と敬意と感謝を表明することではないだろうか。
●用意された環境・物質世界
地球の提供する物質環境、外の世界、ある意味御膳立てされたこの世界のおかげで、人類は泣き笑いしながらも様々に学ぶことが出来たわけである。しかしながら、一体全体このような、内面を映しだすところのわかり易い物質世界・外の世界が用意されていること自体に、どうして気付かずにいたのであろうか。まさに当たり前の中にこそ奇跡はあると言うことだ。
三次元的物質偏重観念により、どうしようもないと感じる世界を、健気にそれでも力づくで変えようとする者と、それをボンヤリ見ている者に分かれてきたのかもしれない。またその本質を理解する覚者も少なからずいたことを忘れてはならないだろう。
●なぜここに我々がいるのか?
しかしながら、それは既に答えが伝えられている。それは様々な変質を経ながらも人類のハイレベルな記憶や教訓として語り継がれてきた。仏陀、イェショア、・・・・、その他大勢の覚者たちの珠玉の言葉は、延々と、かつ静かに歴史にあり続けてきたのだが、我々、普通と言われる人間達は、その静かな言葉に意識を向けず、その他大勢の顔色を見ることを選び、有りもしない作られた平均的な観念に安住し、心地よい眠りの中に自らを没入して来ただけのことだろう。
「汝自身を知れ」
なるほど、この真の意味を少しづつ知ってゆくという事は、なんという驚愕の学びなのだろうか。
●外の世界:鏡の前に、いつもいた私たち
外の世界にうごめく、自己の希望とすれ違う様々な諸現象に遭遇することで、それから逃れるべく、鏡の前で眠ることを選んでいたのかもしれない。他生に渡るカルマや転生はその為にこそ用意された辛抱強い仕組みといっていいだろう。カルマ・転生、それは自分が様々な夢の体験から目覚めるまで、辛抱強く待ち続ける「自分」のためのものといえる。
●外界は我々の衣服のようなもの
外の世界は、あなたや私たちの内面の反映であることを知るためには、内面を観ずして出来る相談ではないのは明らかではないか。外の世界は単独にまた偶然にあるわけではなく、あなたや私たちの教材の為にある。
我々はこの世界を、それぞれで多少異なる衣服として着ている同士ようなものであろう。各自の世界は各自の視座から見える別々の角度をもっているが、人類の魂レベルでの無意識の同意に基づいて、この地球というある意味で共役な、時空生命学園を構成している。
しっかりと確実にあなたや私たちの意識の拡大と進化、深化にピッタリとした衣服を提供しているのだ。我々の衣服は肉体ではなく、我々を取り巻いているように見える世界のことだ。
●内面にて創造するための学び
一説によると、我々が肉体を去った後に赴く高次元世界、霊界は、様々にある学びの場への中継地とも言われている。そこではそれぞれの魂の表現レベルを調律し、思いや感情がどれだけ鍛えられ進化したかを自己観想するようである。我々は忘却というルールをもって何度も行き来しているものであるが、高次元意識体であればこそ、自己のツールである意識の使い方の進化レベルをしっかり把握し、更なる体験と気付きをすべく再び下生するか、数多ある生命学園に進級するか自己裁量で決めるようである。
また更に高次といわれる数多の異なる時空世界では、意識の作用・こころの思いがすぐさま形態化する世界のようである。それはあたかも熟練した画家が短時間に絵を描きあげるようなものだ。絵も作文もこころが創るものであることは誰も知っているだろう。カンバス、筆、鉛筆、原稿用紙が描くものではない。ましてや肉体、頭脳自体が人生創作の因ではあり得ない。
我々の核である魂の様々な人格表現、それが高次元意識体であっても、これで十分と言うことはなく、それは、今この根源から湧き出し続けるところの宇宙が、永遠ともいえる輝きをもっていつもいつもそこに見えることでも理解可能だろう。
●愛を気付かせる地球フィールドに感謝すべし
我々の学ぶべきことは、多分に、この世界が「愛」で遍満した形態世界であることに気づくことであり、そのためには、同時に、あなたや私たちの内面に「愛」を発見してゆくことが必須だろう。
その為にこそ、自己の意識作用、こころの働き、思考、感情を観察し、その時々で出来うる限りの純粋で、強力で、美しい「愛」と「理解」を、内面に創り上げる必要があるのだ。愛は内面同士の共鳴を外に現したものであり、共感であり、その共鳴波動は新たな別の波動となる。自他一体とは、それぞれ別でありながら、愛で一なるものに統合・調和される新たな創造だろうか。
地球はそのための学びの場を提供している、愛と理解に満ちた巨大な「意識」なのだ。それが口でもの言わずとも理解すべきことだ。我々の周りに様々な物や事があるのは「愛」の賜物である。すでにある愛に気付くには、飛び跳ねるこころを静めることがまず肝要であろう。こころという意識波動自体に自己投入せず、そのこころを観察しながら、それを創る者として、遥かに見晴らしのよい視座に、本来から居続けてきたことに気付くべきときではないだろうか。
意識の変容は、まさにそのようになされることだろう。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。