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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

多次元の話(1)世界の違い:振動の違い

2016-03-26 11:05:13 | 宇宙的気付き
●波動は周波数帯域を有す
物質は素粒子で造られており、素粒子はまた波動エネルギーで出来ている。

物理科学で提唱されている「弦(ひも)理論」では、物質の窮極は「弦の振動」のようなエネルギー振動であるというもの。

振動であるからには、七色の光スペクトルや音楽のオクターブのような段階的な周波数が存在するはずで、

世界が振動エネルギーで出来ているのならば、宇宙には様々な周波数の違いや、オクターブまたは周波数帯域があるということだ。

これは存在諸物は、エネルギーバンドの違い、エネルギー振動周波数の違い、あるいは相違いがあるということを意味している。

例えば宇宙には、地球の今の存在周波数帯域とは違う、別の周波数帯域世界が無数にあるということになる。



●宇宙には様々な周波数帯域が重合している
そして、いま観測している宇宙とは、あくまでも地球の周波数帯域から見た宇宙であって、

我々は限られた自分達の周波数帯域の窓枠から見ているだけということになる。

これは電波望遠鏡で見た宇宙像と可視光で見た宇宙像の違いに似ている。

もっとも、電波と可視光は、単に電磁波の波長帯の違いであるが、

存在世界の違いはその電磁波のみならず、物質組成に関わる存在形態のそのエネルギー振動の周波数帯域の違いとなるということだ。

●次元の違いは周波数帯域の違い

存在周波数帯域の違いは、つまり「次元」の違いと言って良いだろう。

例えば、我々が火星を観測した時、遠くで観測するか現地に行ってみるかは同じことで、

要するに、その観察では”我々の存在周波数帯域と同じ帯域”しか観測できないということになる。

地球のエネルギー波動帯域と火星の波動帯域に「ずれ」があれば、

地球の波動帯域にいる人類がそのまま観測機器を持ち込んでも、

その・・・地球なりの・・・波動帯域の情報しか知覚できないのである。

(例えば、惑星毎にエネルギー量子の最小単位を規定する「プランク定数:h」(またはディラック定数)が異なると仮定するならば、エネルギー量子によって現れる現象世界も、地球とは異なった様相を呈すかもしれない。)

波長が合わなければ同調しない・・わけで、つまり周波数が合わなければ、

そこに「何か」存在していても「何も」見えないということだ。

そして極めて肝心なところは、周波数を合わせるのは「意識」だということ。

・・・
●存在形は観察者が対象を認識することで生じる

宇宙の全ての物、それがエネルギー振動であるならば、

どんなものも、あるエネルギー振動の周波数帯域を有しているわけで、

観測者と、その対象物のエネルギーの周波数帯域が合っていなければ、

対象物はまるで知覚できないということなのである。

ポケットにあるにもかかわらず「あれ、財布どこ置いたっけ?」等と探し回るように、

目の前に探し物が有っても、心ここにあらずではなかなか見つからないことがあるように、

これも当たり前と言えば当たり前だ。

物理科学では、観察行為によって、量子場のエネルギー波動を崩壊させて物質形が現れるとされているわけだが、

これは意識して観察する行為によって、はじめて物質形が出現する(ように見える)ことであり、

簡単に言えば、何ごとも・・意識して観る・・ことでそれが観察される、存在するとわかるということ。

●意識を同調させなければ何も現れず

そして「意識して見る」ということは、

対象に”意識の波長を合わせる”・・ということでもある。

ヘミシンクではこれを「フォーカスする」と言うようだ。

・・・
従って、例えば天体観測で様々な天体を探索しても、

それはあくまでもこちらの周波数範囲内での観測行為であるわけで、

世界の公的機関が、「近隣宇宙には生命が見つからない」という場合は、

それがある意図を含んだ全くの嘘か、

見つからない領域だけを公開しているか(嘘ではないが事実を言わないやり方)、

あるいは多分に地球のエネルギー波動帯域での観測で見つけられないということなのである。

今の宇宙開発やUFO等の情報開示の現状は、上の3つのいずれか、あるいはそれら全てであろう。

もっともUFOを見たり、また宇宙からの存在、これは宇宙人等と言われているが、

異なった次元世界からの来訪者というのが妥当であって、例えばそれに遭遇したりした場合、

信じる信じないという範疇は簡単に超えてしまい、それを事実として認識せざるを得なくなる。

実際自分もその一人だが、余談として、宇宙人?に合っても相手が自分は「宇宙人です~」とは言わないものである(笑)



●UFOは他次元からのもの

例えば、今までこんなにUFOが目撃報告されていても、何十年たっても、公では未確認のままになっているのは、

UFO自体が他次元からのものであるからこそ、有るようで無いようでもあり、

それはまたこの次元との周波数帯域が、大小様々に異なっているからこそだと言えるし、

また常に情報に血眼になっている組織の者たちが、大衆に隠しおおせてきたのも、

UFOの存在次元が微妙に地球のそれと異なるが故なのであると言えるし、

またこちらの人々がその存在可能性を全く認識をしていなかったからである。




●次元の違いはエネルギー振動帯域の違い

物質なるものはつまり「エネルギー振動」なのだから、

音楽で様々な音階やオクターブの違いによって表現される音曲の違いがあるように、

あたかもTVに映しだされるリアルな音声や画像が、一定の周波数帯域内で造られているように、

エネルギー周波数の帯域つまり波動領域の違いがあって当然なのである。

そして波動帯域が違うということは、その周波数が合わなければ知覚できないということ。

例えば、TVの7chは、それより低い、5chの周波数帯ではサンプル出来ない、観測できない、知覚できないというのと同じである。

ということは、

火星や金星、土星や冥王星などという異なる世界にも、

その惑星特有の周波数帯域の違いというものがある可能性が大であって、

我々に見えているその姿や情報は、あくまでも我々の「周波数」で得られた断片情報ということになるのだ。

●地球も多次元構造世界

地球という惑星存在も、波動・振動エネルギーで出来ているからには、

当然ながら地殻を含む周辺時空全てが波動領域であり、さらにそれらには、

ある一定幅の、帯状の階層構造をもった複数のエネルギー周波数帯域がある。

そして、今72億の人類が生存している表面世界のことを、いわゆる物質界と言っており、

さらに今・・ここに同時に在るが、知覚できない更に周波数の高い領域を幽界、霊界などと言っているわけだ。

また、ヘミシンクで有名な、ロバート・モンローの提示した体系だった「フォーカスレベル」は、

地球や宇宙の多次元構造の仕組みを別の表現で言い表したものだ。


そして、人々が生とか死とか言っているのは、

意識、魂としての「わたし」の、単にその次元世界での行き来のことなのである。

そして魂はどの次元であろうが、そこに存在しているのが・・

「わたし」  Iam である。

魂とは、多次元世界の全てと交差することの出来る、

言わば、時空も、次元も超えているところの旅人と言えようか。

そして、至高の存在とは、全てを超えた・・ひとつなる・・それ・・だ。






本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。








色即是空の話(5) 無は存在せず

2016-03-21 10:22:50 | 宇宙的気付き
人間とは何かと簡単に言えば、「魂」と「こころ」と「身体」の複合体ということだ。


「身体」はこの時空世界のインターフェース、あるいは衣服のようなもの、

この次元地球で調合創成された、あなたの身近な乗り物ということだ。

そのシッカリしたように見える物質的組成の肉体は、細胞、分子、原子で構成されており。

その中核たる原子の物質密度たるや、0.000・・1パーセントにも満たない。

これは単なる概念ではなく、人の実在の姿である。

人も何もかも、もとは空(くう)であって、

その存在形態は、意識を持つエネルギーというのが実在の姿なのだ。

もとはひとつ・・なのだ。

空(くう)は1個2個、「毎度ありがと・・」などとは数えられない。

たったひとつ、ただそれ、というしかない・・それ。

この空(くう)を深く観想すべし。



物質が・・実に重い、かなり固い、極めて小さい、随分大きい等と、

世界では何千年も騒いでいるが、

実体は、何かの間違いのように思えるほど、スカスカ、すっからカーンなのである。

素っ空(から)カーンの中に、振動する微細エネルギーが動き回っている。

まるで質量感を醸し出す、バーチャル立体映像システムのようなものだ。

幻想というのはぼやけた幻のような・・ということではなく、

まさにリアルであるようで・・、実際はないものという意味だ。

それが現象世界、諸行無常などとも言われるこの世界である。

世間の誰が何を言おうが、どうしようが・・それが事実。


つまり空(くう)の中で、エネルギーが振動し、動き回り、何かを創り上げている、

その何かとは、あるようでないもの、常に変化し続ける無限の宇宙の姿である。

無限なればこそ変化し続け、また進化し続けることがわかるだろう。


空(くう)の中に存在し、動き回るエネルギーは意識と意図といえる。

意識は無限なる自らに”気付いて”いることであり、

意図はその表現型を無際限に”生み出す想い”創造主の観想といえるだろう。

それによって、何かの形態を生み出すべく微細なエネルギーが振動するのだ。

数千億の恒星からなる銀河系も、

その銀河が1千億もあるこの次元宇宙も、ひとつなる空(くう)のなかでエネルギー振動・回転するエネルギーで出来ている。






そして宇宙という、あらゆる全ての中の「部分」には、

つまり全体が含まれているのだ。

えっどういう意味?

物量的足し算引き算では、部分集合は全体ではない・・という話だが、

それこそ、いわゆる3次元的な閉塞観念、物質が多いだ少ないだの観念であり、

そもそも、

部分の中に全体が含まれなければ、無限性などあるわけもない。



部分集合にあるのは小さく描かれた「境界線」だけであり、

その下には全体集合が100%含まれている・・気付けるだろうか。





引かれた境界線が、自我という境界であり、この境界が全体へと拡大するプロセスが、

つまり意識進化、魂の進化と呼ばれるものだと言えようか。

元々、どんな部分も・・全体と不可分に「ひとつである」のだが、

境界を様々に描くことで、それぞれのわたし達、という自我意識が生じている・・。



そもそも、空(くう)はどんな次元も何も無い・・入れもの、無限の許容性。

あなたの身体、精神、魂の多次元構造のバックにあるのは、

まさに99.99・・99%の空(くう)である。

その無次元のなかで、神なるものが意識と意図で多次元を描き出している。

この地球もその中の小さなひとつである。


ところで、空(くう)はいわゆる「無」ではない。

「無」は無であって、無以外の何ものでもない・・ことも証明できない。

つまり、無は無いのである!

無というのは・・どうあっても存在できない・・無いのだ。


人はだれでも・・我在り・・わたしはある・・という感覚が備わっているはずだが、

その何でもなさそうな自己意識、私感覚こそは、

あなたは本来、全体たる存在そのもの、

在り続けるところの至高の存在を示している。

オー、マイ、ゴッド!




まったくそれに気づかず知らず、

活きるためだと言われて、物・銭・金を追いまわすような世界にあっても、

それが、実に無知で意味なく自信満々な為に世を席巻した、

いわゆる欧米的唯物観念の支配した世界であっても、

TVやメディアが、いつまでたっても戦後植民地の囲い込み報道を繰り返しても、


あなたという、意識ある存在が、実際は至高の存在形であることには変わらない。


ここはどこ、私はだれ?

わたしは高度な動物? いつか機械に負ける知的生物?

お金は便利でまずこれを稼ぐのが良い事?

人間死んだら終わり?

そんなことどうでも良いから成績上げろ?


おバカも甚だしく続けば、いつか飽きが来るものである(笑)

そうではないか?


気付かず知らず、世間に言われるままの生き死にも、繰り返し転生も、

また面白い存在芝居への自己投入だったとわかるだろう。

肝心なのは、せっかくの今のこの時点で、それに気づくことである。



今はもう地球の固有の周期に沿った26000年にわたった、

旧次元的お芝居のサイクルは終わりを告げ、すでにもう、あらたなる次元物語の幕開けだ。

3次元映画の席でいつか眠っている者も、びっくり仰天で揺り起こされるだろう。

新たな次元映画は始まっているからには、いつまでも惰眠は面白くはない。

過ぎたるは、なお及ばざるがごとし。



「もうは未だなり」「未だは、もうなり」

あるのは今、そういまここ、そのうちには、永遠に来ない。

そりゃそうだ。未来とは、未来、いつも未だ来たらず・・なのだから。


今、ここ・・Present! 存在すること

・・・それはつまりプレゼント!

創造からの贈り物である。






本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

色即是空の話(4)空はまた全き充満である

2016-02-06 05:58:08 | 宇宙的気付き
色即是空、空即是色 実に深遠な言葉だ。


頭で考えてもわからない、いや途中までは理解可能だが、

世の中の全て、世界の全て、宇宙の全て、多次元世界の全ては、

簡単に言えば、空即是色、色即是空である。

世界の様々なこと、宇宙の様々な現象は一時も静止せず、常に動き変化している。

それは空(くう)が、無限の充満ということを示している。


充満というのは、箱の中に饅頭が充満している、沢山ある・・ではなく、

それこそ無限の存在可能性が充満しているということだ。

「なんだ可能性か?つまんない・」・・という感覚は、この世で刷り込まれた物質獲得観念がゆえであろう。

「えー、可能性より、物だよ、銭だよ、即効だよ、数字だよ・支払いもあるし~・・」

という経済植民地で巻きこまれた悲しい観念の癖。



こういう執着観念は、いつのまにか身体に浸透しているが、これは洗い流す必要がある。


本来は、物は二の次、三の次、また肉体自我を見極め、

こころの調律と観察、そしてそれを可能とする霊的自我を思い出すことが重要なこと。

その為には、宇宙大自然に遍満する愛という気、

調和の姿、全てを貫いて在る神なるものの意識と意図を見出して、

あらゆる全てが全託であることに気付かなければならない。

全てはひとつ、個々や部分と観えるなかに、全てが注ぎ込まれている。

つまり、空(くう)とはそれだ。


空即是色、色即是空。

現れた物は常に、常に消えてゆくのが現象世界の理(ことわり)だと知っている人ならば、

逆に様々な物が消えてゆくと同時に、現れてくるのが宇宙の創造だと気付いている人ならば、


空(くう)が無限の可能性であり、それは創造の根本であることが悟れるはずだ。

我々は、水の中にいて、水を求める魚のようなものだ。

最も身近で、無限に自己に近く、自己も他者も、あらゆるもの全てが「空(くう)」の中にいる。

空(くう)は、空間とか時間とか言っているところの空間(くうかん)でもある。



空(くう)にはそれ自体では、何でもないもので、エネルギーの局在化した物質というものが無ければ、例えば絵柄のバックグラウンドであるカンバスにも気づかない、つまり空(くう)は空のままである。


形あるもの、例えば物質が、空(くう)に描かれることで、

物質とその背後(くう)が、同時に自らの姿を表わすのだ。

描く者はいったい誰か・・

空(くう)なる無限者が、自らを知ろうとすること、自己認識。

その意識の働きが、全てを生み出しているのだ。


我々の日常の周りは、ほとんど全て空間で満たされている、そう満たされているのだ。

人が歩くけるのも空(くう)がゆえ、世界に様々な物が有るのも空(くう)だからこそ。

空(くう)は全てに浸透、全ての母なるバックグランドだ。

しかしながら我々は全くそれに気づいていなかったかもしれない。

有る物ばかりを後生大事に、必死こいて獲得し、富という様々な物質を集めてきたが、

それは、それを許容しているところの空(くう)あればこそなのだ。

空(くう)は何もない、物がない、飯の種がない、役に立たない、何の価値もない、

悲しいかな、いやそういう気付き意識レベルであったがゆえに、無意識にスルーしていたのだ。



海の水が充満しているゆえに、魚はその海で泳いでいるのだが、

その魚は自分たちの存在を必死で確保しようと、何かを探し回っている。

既に・・そこにあり、それで満たされているのに、気づかず知らず、

いや、何処かに何か真実が、豊かさが、可能性があるものと「考え」て、

いつも、ここ、今、わたし・・以外の何かを追い掛け回すことをする。

餌、獲物、物・銭・金を、外から得ようと、あちらこちら、右往左往する。

そんなことより、何よりも、

空(くう)があればこそ、様々な事物がそこに存在することが出来、

様々な生命さえも自らを現出することが出来る。


例えば人は誰も、生まれるという物語以前にはこの世界にいなかった。

そうだろう?

人は、もともと何も無かった、本来無一物でオギャーと出現してきたのだが、

3次元世界の常として、それより高次の自己をサッパリ忘れ、

生があれば死がある道理、あるいは生も死もなく、変化のみがあること、

自己にも変化があることを忘れてしまう。



いつの間にか消えゆく定めの自らの創造物ばかりを追い掛け回し、

無限の可能性という住処である空(くう)に、いったん帰すこと復帰する事、

本質の自己である「霊的自我」の、生まれ変わりという、

その楽しき変化さえも恐れる始末になり、肉体自我や物的富にしがみ付くことにもなる。

そう、今までの古き世界は、

空(くう)である自らを忘れ、空(くう)が無限の充満であることを忘れ、

空(くう)に息吹を吹き込む創造者の端くれとしての自我を忘れ、

様々な可能性としての自己、創造主の一部である高次の「霊的自我」を忘れてきた。

それが3次元的認識世界で体験できる・・神聖なる、そして過酷なる遊戯、

あたかも単なる岩のようなごつごつしたダイヤの原石が、

荒波や風雨、人の間で削られ磨かれ、いつの間にか、

その中にある至上の愛が輝くための試練。

もう二度とごめんだというようなところまで、行き着くところまで行かねば気付かぬこと。

こころすべし!


嗚呼、朋よ、・・・。

消えゆく定めの、古き二元性の世界、

善悪、大小、貴賤、快楽・苦痛という比較観念の世界、

ある意味で激しく過酷な世界、

それは、

空(くう)であり無限の可能性の体現者である自らを、

自らで思い出すための・・・あり得ない、いや有り難い、仕組みであったのだ。


そう、何を信じ込んでいようと、例え意識がボヤケテいようと、

ここに居る、この世界にいる存在達は、肉体自我を演じている魂達は、

実に雄々しき者たちなのである!




本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。







色即是空の話(3)意識で出来た宇宙

2016-01-11 06:45:52 | 宇宙的気付き
人の体は50兆とも言われる生体細胞と、更にそれを構成する分子、さらにはそれらは原子で造られている。

そして組織的な最小単位の「原子」は、陽子と中性子で造られる原子核と、その周囲を回る電子で構成されており、

その数たるや、天文学的以上の数で造られていて、さらに、

またこの原子核と電子の間は、途方もない空間(空)があるために、その密度たるや、

99.999・・99? %が空っぽということであり、また残りは、活動するエネルギーのみである。





繰り返しになるが、物質とは、無限数のエネルギー活動要素で出来たところの、

99.999・・9?%の空(くう)なのである。

だからそれは、エネルギーで造られているホログラムと言えるもの。

最も身近なあなたの体も、ほとんどが空(からっぽ)である。


いや、そうはいっても、完全な空っぽではないのは、自己を見ればわかるもの、

それは誰にも、「わたしは存在する・・という感覚」が絶対的にあるからだ。

五感の感覚、感情、思考等でそういう風な、しっかりした自己存在感覚がある。

そうではないか?


確かに、完全な空(から)ならば、なーんにも存在しない・・

でも、そうではない!

・・・
例えば、

足立郁郎さんの「波動の法則」という著書によれば、原子核つまり中性子と陽子は、
それは、意識と意図だといっている。

中性子と陽子は、形に現れた「意識」と「意図」だと言っている。

そして、「電子」を伴なう事で、様々な物質として現出しているというのだ。

一般常識ならば、「えー、何それ?・・物質が意識や意図だって?、馬鹿な」(笑)

ということになるが、

実はこれが極めて真実に近い表現なのである。(まさか!・・(笑))


よく精神世界の分野では、辟易するほど「意識」という言葉が頻出するが、

全ての現象は「意識」によって造られているという、まさにその話である。

・・・
つまり、物質という、原子で構成される、あらゆる事物、事象は、

空(くう)の中の「意識と意図」の表現形なのだということ。


要は、あなたもわたし達もそれである。

物質だ、物質だ・・、重い、軽い、冷たい等としている、

我々の身体、及び、我々周囲のあらゆる物、事象は、

空(くう)の中の、「意識と意図」で現出、あるいは投影されているということだ。

実際、物質というのは、極めて大ざっぱな、単なる「概念」なのである。


我々は今まで、それが事実ではなく、

大ざっぱで偏執した、様々な観念の世界に閉じ込められていたということだ。

あれが良い、これは悪い、これは務めだ義務だ、頑張って変えろ、

観念のお金、観念での規則、観念による支配・・・、

もういい加減お腹いや頭一杯ではないか(笑)

在るがままで、既に完全で奇跡的な生命の表出である我々が、

さも貧相で、不足だらけで、貧弱な存在であると、一体誰が決めたのだろう。

いいや、どんな誰もいるわけもない。

あると見えるのは、それぞれのわたしの前に投影される、単なるリアルすぎる幻影だ。



存在世界という投影幕(時空・次元)に映されるもの、

物質、原子で構成される、あらゆる事物、事象は、

「空(くう)」の中の「意識」と「意図」なのだということだ。


要は、あなたもわたし達もそれ、空(くう)であり、また「意図を伴う意識」。


昔から誤解多く、神などと言われる宇宙創成の主、いわゆる創造主も、

その空(くう)の中の意識と意図の全体性と言えよう。




神格化、擬人化される神のイメージは、確かに意識と意図の存在によるわけで、

その意識と意図は、人にあっては気付きや想い、想念として現れているのだ。

宇宙は神の想いで出来ているとか、マーヤの造る幻想だとか言われる所以である。


これは、いつかの、どこかの宇宙の話ではなく、今・現に!、

あなたが存在する、その在り方そのものである。


原子という、空(くう)に描かれた、微細で多様なエネルギーの動きは、

つまり、空(くう)に生じた、「意識」と、

その反映・・何かへの志向性・・「意図」ということだ。

それが様々な世界、宇宙を投影している因なのである。


そして、その意図を伴なう意識の、根幹にあるのは、

無条件の愛、仏の慈悲や、神の愛と言われるもの。

なぜならば、窮極でそれであるからこそ、無限に展開し続ける宇宙が存在できる。

そうではないか?

あなたや私たちが、今在る、わたしは有るという感覚は、

無限である空(くう)が表出したところの、無条件の愛から来ているのである。

気付いていなかっただろうか?


例え未だ多くの存在達が、それに気づいていなかったとしても、

例えこの地上の多くの魂達が、

小さな自己愛の塊、自我やエゴに縮まっていたとしても、

ただ単に、気付くかどうかの違いだけだ。

・・・
人が生きるとか死ぬとかいうのは、

単に投影された夢の中だけの話であって、何も怖くもなく、問題もなく、

死というのは、単に「本質」の表出形の肉体が現象として消えること、

また生というのは、本質の住処たる・・『充満せる空(くう)』によって、

再び何度も、押し出されるかのように出現する生命のプロセスである。

・・・
しかしながら、意図を伴なった意識に気付くならば、

わけのわからないカルマという、繰り返しのループは不要なのだ。

ここが肝心かなめな峠の茶屋である!(笑)


生きるも死ぬも、すべて存在の諸相に過ぎず、

まさにこれも、「空即是色、色即是空」・・そのままである。

簡単すぎて意味不明であり、考えすぎて迷い道だった古い世界、


しかしながら、空(くう)とは空っぽであり、かつ全き充満だ。

何もかも、まったく完全に「それ」なのである。



おー、なんということだ!






本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。

尚、余談ではありますが、今までもそうですが、例えばこの2月頃からは、現象世界の様相が大きく変化し始めたことに、よりはっきり気付けるかもしれません。

色即是空の話(2)夢のまた夢

2016-01-09 08:36:04 | 宇宙的気付き
我々が『これが現実だ!』としているあらゆる事物、状況もまた空(くう)である。
空(くう)とは「からっぽ」であり、何でもないものだ。


何でもないからこそ、何にでもなるわけ。

これを<空即是色>と言っている。

何にでも現れたものは、全ては実際は空(くう)でしかない。

これを<色即是空>と表現している。


あらゆる個人、あらゆる世界、あらゆる次元、例えプレアデスであろうと、マゼラン星雲であろうと、あるのは・・それなのだ。

あらゆる時、ところ、状況において全く「それ」だ。

しかしながら、何もない「無」ではなく、空(くう)としか言いようがないそれだ。

「それ」という表現も、何か特定感が残っているが、単に「それ」なのだ。

本当の現実、リアリティーと言っても良い・・それだ。


人が追いまくられ、忙しく回り続け、次から次にやらねばならないこと、

アー!嫌だ・ヤダという状況があっても、それは現実ではなく、

ホログラム上の物語でしかない。


生れるという設定により、その気でも無いうちに、いつの間にか採用した、集団での夢物語である。

好きだ嫌いだと言いつつも、みんなが居るからこその、集合的夢物語である。

確かに、今までは、あまりうれしい夢ばかりとは限らないが(笑)、

そう、ここは典型的な、どこか悪夢とも言える部分のある「夢の世界」である。

そうではないか?

そして、その古い夢の世界が今この時期に終わりを迎えている。

夢から覚める者と、未だ夢を見たい者が居てもおかしくは無かろうが、

古い夢の興行は、ここでは終わりということなのだ。





実際に、寝ていて夢を見ている時には、あーこれが夢だ・・と思わないだろう。

ほんと、それはもう真剣勝負、誠実一路、活きるの死ぬの的な状況・・ではないか(笑)。

もう必死で逃げまくる夢などもあって、寝汗をかいたことだって何度もあるに違いない。

でも、気付けばそれは、人々が「これが現実だ!」と言う、この等身大の世界と全く同じで、

それを「夢」だと思っていないからである。

夢とは、それ、一時の幻想、仮想現実、非現実的現実・・という意味。


それで、多くの人が「そりゃあんた夢だよ」としている、寝ている時の夢は、夢のまた夢、

起きている時に遭遇しているのが、これまた「夢」なのである。

「夢」とは、変化して止まない物語、

なんとなくしっかりしているようで、実はそうでない物語のこと。


実際に、しっかりしているはずの「様々な物質」という固そうなもの、

それらすべて、99.9999・・?%が空っぽなのである。

ニールス・ボーアやディラック、マクスウエル、チャンドラ・ボースもそれを保証するだろう。(笑)


ほとんど何でもやってしまった感のある、かの関白秀吉は、辞世の句でそれを残している。




露とおち、露と消えにし、我が身かな、

難波のことも、夢のまた夢、



別に悲しく儚いものではなく、無常観でもなく、

あー全ては楽しい夢物語だったなあ・・という感慨を残したものだろう。


また、何処まで行っても釈迦の手(言わば法)があるという物語、

強いも弱いもなく、距離も時間もなく、

あらゆる全てが、空(くう)だと悟った物語、孫悟空のお話は、

単なる仏教における戒め的逸話、比喩の話ではなく、

確かに、真実を悟った覚者がそれを物語にしたもの。

茶化されて、遊ばれても、しっかりと残すのは、なんという古代の叡智だろうか。




全ては空(くう)、あらゆる全ては空より出でて、空に帰す・・

これが衝撃の真実だということなのだが、


でも 「この今の現実はどうするのよ?」 という、

癖になった「思考」がやってきては、

ローンを支払えとか、成績を上げよとか、もっと頑張れとか・・、

またまた、等身大の苦楽の生活環境に意識が戻ってしまうかもしれないが(笑)


嗚呼、朋よ・・、

しかしながら、その実感程度は違うものの、

あらゆる全ては、変えようのない、固まった現実と言うよりは、

実際は、仮想現実、ホログラミック・ストーリーというのが、

正確な描写であることがわかってしまうならば、

どんなことも、「だから・・それがどうしたの?」 と言えるはずなのだ。

そう、様々な枝葉を作り出すマインドの騒ぎを鎮めることも出来るだろう。



これは決して投げやりなどではなく、事実に即した世界観測。

「もっと真剣に・・、もっと頑張って、きっと何かに成る・・、勝負に勝ってモノを言える・・とか、

アイツは悪い奴だとか、彼女はいい子だとか、あの国は立派だとか、かの国は紳士のようでいて実は極悪人が支配しているだとか・・・、]

それらすべて・・・、

その気も無いうちに、生れてから、いつの間にか採用した、集団での夢物語の中のストーリーである。





好きだ嫌いだと言いつつも、みんなが居るからこその、集合的夢物語。

しかしながら・・言ってはなんだが、

多分、一時的だが、そんな苦しい事、嫌な事を・・進んで求めてきた。

そう、善だ悪だ、女だ男だ、リッチだ貧乏だ、死んだ、生れた等・・・という、

二元性の世界を、皆で楽しんでいる・・ということ。

とはいえ、こういう言い方をすれば・・、

「えーっ?、こんな非道な世界にいて、楽しんでるだと~、馬鹿言うな!?」

多分、きっと総立ちで怒られるかもしれない(笑)。


・・・、
あなたの目の前にあるパソコン画面もマウスも「それ」、机もそれ、空(くう)だ。

あなたの苦手な、誰かの個人も「それ」・・空(からっぽ)。(笑)

私だ・俺だ・と、真剣なあなた自身も、実際、空(からっぽ)が身体という衣服を着ている。

必死になって保身に走らなければならない人々のその大切な身体も、

99.999・・?% が空(くう)で、残りは活動するエネルギー。

物質の塊なんて、どこにもありゃしない。


なんてこった!・・何時も、何処にも・・何もなかった、そういう感動がある。

そう、感動だけで・・宇宙が出来ている!  何てこと・・、それが宇宙創成物語である。

OH、MY GOD!

・・・

また仮想の物質幻影を、必死で何とか制御しようとするのも、暖簾に腕押しのようなもの。

そんなことより、その前に、

極みなき「創造」という、・・空より噴出している、あらゆる全てを、

それを目撃していることに、まず感謝すべきだろう。


あー、そうなのだ。

物理科学、量子科学で突き止めたのが、重要な究極の何か!ではなく、単なる空だった。

どこにでもあるもの、どこに行こうとあるもの、いつでもあるものは、確かに「それ」、


空(くう)であるからこそ、何でもそこに存在できる。

空(くう)だからこそ、そこにお絵かきのように、無限小の点が顕れ、それが運動し、回転し、



様々な現象という、リアルこの上もない影絵を投影させ、諸世界という仮想現実を創り上げる。

また、あなたや私たちという、仮想の個人を映し出す、

いや、絶対・・私は私だ!と言う・・個人意識まで映しだす。

そう、ずべてから分離した個人は、まさしく分離し、枝葉で出来たジャングルの、

そのこころ模様の・・「夢」の中のいるだけ。

それらを含む様々な夢物語は、多次元世界等とも呼ばれるものである。


しかしながら、それもこれも、様々な物語も、多次元世界も、

あらゆる全てが、ワンネスという、<空(くう)>であればこそ。


そう、

空(くう)は空っぽであるからこそ、あらゆる全てが充満しているのである。


言っては何だが・・・、あなたも「それ」なのだ。

すぐに、自分の手を見てみる良いかもしれない、

手を見ているように・・・見えるが、

実際は、それ、その空のなかの現れ、あるいは投影像を観ているのである。





本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。