goo blog サービス終了のお知らせ 

気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

転生の話(12)宇宙での転生 その2

2019-10-02 06:45:23 | 語り部の章
宇宙スピリチュアル系の話でよく聞く、プレアデス、オリオン、シリウス、ベガ、アークトウールス、という他星の生命体の概念は、
例えば、アメリカ、ドイツ、フランスなどをイメージするようなものであり、
かつて、あるいはいつかの・・情報・・、何事も程度問題はあるものの、

意識内面の想起、想いつき、記憶の再現、ビジョン等によって、
懐かしみ、親しみ、馴染みを感じることから来ているだろう。
そうではないか?

同じく、今までの一般常識外に位置しているはずの、
他星からの魂の転生を語る人は、本で読むとか、
誰かに言われるとか、意味不明な夢を観るとか、
そういうトリガーによって、
内面意識・・からの感覚・想い・ビジョン・の生起によっているはずだ。

なかには、スピ系流行語を楽しんでいる人もいるだろうが、
はっきり言えば・・・
肝心なのは・・そういう情報に接している・・という事実だ。

あなたはこの世に生まれる前に、あの世、別の世にいたとか、何度も転生しているとか、
かつてはどこかの歴史、国・地域に生を受けていた別人格だったとか・・・、
そういう情報に接したときに、どう思うのか、どう感じるのか?
あるいは、そういう”情報に接する”ことで、肝心な何かに”気付く”機会があるのか?

それが今起きている事だ。

今、少しの間・・開いている宇宙のポータルと称されるものは、
そういう真実の”わたし”に関わる、
高次の意識的な情報に接する機会があるという事だろうと思えないだろうか?

単に目で見て聞いて・憶える・忘れる・・・は知ることになならず、
「おや?」「あれっ」・・「えー、何だ?」という気づきから、
さらに・・それが一体何なのか?
意図をもって調べ、探究する先にこそ、真の知識が得られることは、
心ある人ならば必ず知っているだろう。

肝心なのは・・宇宙人やら霊界人?の話ではなく、
それぞれの・・わたし・・自分自身の事である。

例えば、
地球での転生・生まれ変わりを、信じる・と言うより、
それを知り、調べ、腑に落ちて理解するならば、
宇宙での転生・生まれ変わりは当然ながらあってしかるべきと感じるだろう。

誰も”それが無い”・・と証明・断言などできるものではない。

「わたしは疑っているよ・・」というのは多分に世間体を考えてのことであり、
少なくとも、
調べること自体が、”何かに”気付いている・・ことを示している。

自分が肉体でしかなく、
長年かかって進化した結果、偶然に組成された高度な頭脳が、
”意識”を偶然に生み出しているという「仮定」は、誰も証明なんかしていない。

わたし・・”意識”を、
第三者に見えるように、科学的に物量換算、単体検出・抽出できるのか?
いいや、そんなこと決して出来ない相談だろう。

逆に・・
”意識”が無ければ、物質も環境も、何もかも知覚・認識できない。

意識とは・・物質からできるものではなく、
物質やら様々な事象を通じておのれを表現するものであり、
原子、細胞、物質などを付帯して出現・表現する・・「本質」である。


この世界での転生も、さらに無数にある存在舞台での転生も、
あってしかるべきだ・・という認識、定在化した意識内容は、
そういう想念形の振動・情報が付帯した現象化を促すことになり、
簡単に言えば、信じている方向にそった体験世界が出てくる・のである。

そういった体験世界が出てくる・・
そう、つまり、
UFOなど含め、宇宙的な存在のことなども、
オドロオドロシさや夢見がちなロマンという歪んだ内容も含みながら、

少しづつこの世界に知られるようになっているのだ。

どこまで嘘か誠か、リアルか勘違いかは程度問題もあるが、
有名なジョージ・アダムスキから始まって、
宇宙人と合って(コンタクト)その世界・星に行ったという体験記の情報も出ている。

肝心なのは・・そういう情報に接している・・という経験事実なのだ。
それで・・私はどう感じるのか?

「えー、何それ?・・・ヤダ~・・」
「そんなの嘘よね、だってそうじゃん!、それって常識よね・・!」

まったくそうだ、これが何かを強く認識している(いわゆる信じている)状況であり、、
その人にとっては・・それが”現実”なのである。

そういう”認識”であれば、それは ”そう” なのだ。
事実・現実というものは・・認識して初めて・・現象世界に現れている。


その人が、自分自身が何者なのか?「わたしとは何か?」という・・
真のわたしを追求する意識そのものが、意識進化を推進する。

宇宙という無限大の存在時空間のなかで、
地球という小さなカテゴリーのみならず、様々なカテゴリー世界において、
様々な意識存在たちが、あるいは転生を通じながら探求していることである。

なぜならば・・自らが普遍の意識・・”無限”そのものであるから、
その”無限”を様々に形に現すことがこの上ない喜びであるからだ。

本来は生命表現は楽しいものではないのか?

閉じた時空間で、弱肉強食の世界をことさら刻印された歴史物語のなか、
自他共に無知な人々の間で辛苦をなめ、
苦労の末に、一瞬だけしか続かない快感・栄冠を勝ち取る・・
幻想でしかない栄光を求めて、
長い転生を小さな小さな時空内でさ迷いながら、
怖れと快楽、苦痛の振れの間で生死を続ける・・、

自己が体でしかないという信念から生じる、
生老病死の観念の重荷を投げ捨てるまでの物語は、
確かに実に宇宙でも稀有な体験場であったからだとも言えるだろう。

ある意味、たしかに宇宙で稀有な、実に”素晴らしい”世界。

あなたはどう想うだろうか?






拝借したハッブル望遠鏡の画像であるが、
これはあなたが無限の一端を除いていることを意味している。
あなたが、果てのない無限の宇宙の一端を観察しているならば、
それは見る者が無限であるからである。


転生の話(11)宇宙での転生

2019-09-28 07:19:51 | 語り部の章
スピリチュアルな情報世界では実に様々な話がされている。
例えば、生まれ変わりがこの地球だけではなく、
その範囲を超えた宇宙の星々でも行われているという話があるだろう。

地球から見たプレアデス、シリウス、オリオンなどの
星や、星座の名前に代表される世界からの転生者であるという人たちもいる。
何らかの理由で、実際にそういう風に真剣に思う人たちが、
出版物やインターネットサイトなどで発信しているため、すでに知っている人も多いだろう。

中には現実という生活に対して、違和感や苦痛を感じる人たちは、
この世ならぬものに救いを求めることもあるだろう。

言うならば、宇宙スピリチュアル的な概念世界も、
様々な利害意識を持った人々で作られていることに変わりはない。
しかしながら、その利害というのは
金銭・物質面ではなく・・多分にこころの面であることに気づけるだろう。

自分の魂が宇宙由来であると思う人に、どんな金儲けができる?
出版してそれほど儲かるものでもないだろう。(笑)

もっともこんな話を普通の社会や家族、仲間内でしようものなら、
「お前大丈夫か?」と言われて、悪く言えばのけ者にされる可能性もあるため、
そういう宇宙的な話の出来る人たちの間でしか会話ができないだろう。



ある人、あるいは自分は、宇宙のどこどこからの生まれ変わり・・

「えー?!、ナンだって?」(大笑)

一般常識の人たちから見れば、そういう情報に接した場合、
生まれ変わりさえ、社会の一般教育プログラムでは話されないのに、
さらに”宇宙という大きな世界での生まれ変わり”となると、
想像を絶する異質な「おとぎ話」のように感じられ、
それらに全く関知しない、全然知らない多くの人々のほうが「正しい」と思い、
いつもそこから先へは行かない人も多いだろう。

上から目線的な言い方、あるいは余計なお世話かもしれないけれど、
こういう掲示もあっていいかもしれない。

悲しいかな、いまのこの情報開示された稀有な時代にあって、
せっかく宇宙(意識)の窓が開かれているにも関わらず・・だ。

よくポータルなどという英語で言われる窓、開口部は、
簡単に言えば、宇宙か何かで突破する次元窓という感じだが、
スターウオーズ的なワープ航法の何かの技術の話ではなく、
意識における次元上昇という意味での突破口のことであり、
今までの信念・想念の固まった帳(とばりの)の開かれることを言う。

閉じられた魂の体験場が、そろそろ開いていい時期だという意味でもあろう。
閉じられた魂の体験劇場、いつまでたっても小さな小さな宇宙小屋で、
”我”を忘れて 生きる・死ぬを恐怖をもって繰り返す、
そういうシナリオ劇場は終わろうとしているともいえようか。

あなたは、これからも相変わらずだろうか?

日本に伝承される天の岩戸神話、あるいはカゴメの唄も、
その閉鎖観念世界の閉鎖と開放のことを言っていよう。

自らの魂を開放するのは・・誰か?
アタリキシャリキ・・自らである・・あなたしかいる訳もない。


誰かが言うことを鵜呑みにしないのは全く正しいが、
それを自分で確認することをしなければ正当性の確認までいかず、
いつもそこで半煮えの状態でくすぶらざるを得ない。

誰それが宇宙からの転生組とか、宇宙での生まれ変わりがあるとか、
そういう情報は知っているし、気にはなるのだが、
本当かどうかわからない・・、

あなたはどうだろうか?
本当かどうか?・・事実か虚構か?・・・




転生の話(10)意識展開のサイクル

2019-09-25 07:47:33 | 語り部の章
誰でも知っているように、「転生」とは生まれ変わりの事だ。
それで、それがあるのかどうか?実際にはよくわからない人が多いだろう。

あなたやわたしが生まれて今、生きている・・存在しているということが、

それが・・その証拠だと言っても、納得できないだろうか。


わたしのことを・・わたし以外の何かの証拠で証明しようとする愚策を行う事と言えよ
う。

それはある意味で、わたしを悟らせてくれ・・と言うようなものだし、
わたしの代わりにトイレを済ませてくれというようなものだ。

それは、証拠が必要だ、誰かの保証が必要だ・・という観念からきている。
証拠はあり・・いまここに在る・・それぞれ・・”わたし自身”だと言っても、
えっ?それが何だと?・・・証拠は?・・と、他者に確認したいと・・思うものだ。

そうではないか?

今在る・・ことを、深く感じること・・在る・・に意識合わせる行為によって、
意識内面から静かに噴出する微細な純水のような想いを浴びる必要があるだろう。

その静かな意識の内面から沸き起こる微細な想いという、いわば情報によって知る、
今生きていることは1つのサイクルに過ぎないという確証が沸いてくるだろう。

さらに、今の時代は、実はすでにかなりな時代になっており、
別に高額が求められる占い師や霊能者に聞かずとも、
探せば、多くの人々の転生や生まれ変わりの調査報告に接することも出来よう。
そういう外からの情報をもたらす霊的、あるいは科学的な書物もは実に役立つものだが、
しかしながら、いずれにしても・・
その証拠は、自分で真剣に調べて、その意識的努力の先にやってくる収穫、
内面から起こる確信しかないということだ。

これは、人に頼んで「・・なるほど・・そうですか!」という、
消費社会の霊的ビジネスでの獲得物を陳列することでもないはずだ。

もし転生があるとすでに知っているならば、
その存在は多分に、生き方考え方が質的に変化・転換しているはずである。

大きな変換と言っても別に大きな事をやるとか、金持ちになるとか、羨望される偉い人になるとか、
そういう古い社会プログラムとは一切合切関係なく、
多分に・、思慮深く、明るく、穏やかで、優しく、
また強靭でもあるような、そんな存在表現に少しづつシフトしているだろうと思われる。

そう言う人たちが多くなれば、そういう集合世界、
思慮深く、穏やかで、明るく、優しく、強靭な存在たちの集合世界になるのは、
火を見るよりも明らかである。

そしてそれが必然的に、次なる展開(サイクル)へと持続する。

人も社会も、人類も、宇宙を含むすべては、
わたし・・(宇宙)意識の展開する無数の(波動)サイクルの、
無限の展開を楽しむプロセスにあることが理解できるだろう。

肉体は地球上にも70億の存在がいるが、それが何の変化もない状態であれば、
これほど気持ち悪いこともあるまいし、それが永遠の生とは言えないはずだ。

魂、意識は無限であるがゆえに、あれやこれ、あいつやわたし・・君と僕、お前とおれ、
きゃつらと奴ら・・いろんな姿で現れては創造を楽しんでいるのである。

しかしながら、あなたは気付いているだろうが、
いまはもう、その楽しみの質的なものが大きく変化する時代のただ中にあり、
持続すべき、魂・意識の探求拡大の努力は、ゆめゆめ疎かには出来ないものである。

意識はひとつが・・無数に展開する・・・それ、
例えば形や意匠、衣装や踊り、人生も山河も世界も様変わりもするもの、
しかしながら、それら様々な変化・展開あるいは変容があるのは・・
無限に湧き出す
不動の一点、その本質、真のわたしが常にあるからである。

他人ごとではなく、それぞれのわたしの話なのだ。




転生の話(9)自省は輪廻を超える

2019-09-19 05:22:49 | 語り部の章

●全宇宙の起点は・存在・わたし・Being

全存在宇宙には無数の生命があり、例えば地球には70億の人がいる。
その中の1人が自分であると、そう想っている。
そう想っている・・なんてもんじゃないよ・・、その通りだよと思うものだ。

しかしそれは見方を変えれば、まったく異なる様相を呈することになる。
簡単に言うところの、見方・視方を変える・・だけでガラッと変わることになる。

わたしたちは・・気付き・意識であるという観点は実に驚天動地の転換となる。
考え方・・と言うよりも、事実・・・在る事への意識の注視ともいえる行為だ。

全ての起点、基点、原点は

・・われ在り・・・わたし・・は 在る・・存在・・という事実なのである。


●宇宙意識は個別化して人意識になる
意識ともいえる”それ”から生じる様々な想念・観念・概念・感覚・肉体・環境は、

二次的な副産物であり、それらに”意識”が埋没している状況を”次元降下”と言って良いだろう。

ニサルガダッタ・マハラジは、それを個人、肉体への”自己同化”と言っている。

わたしたちは、肉体・個人ではなく、それに自己同化している・・普遍・・である。



本質・・魂・・在る・・(宇宙)意識・・が個別の人間にもなって、

そこに・・真我・本質のわたし・・の反映が刻印され、

個性ある人間個人存在として顕現している。

刻印とは、刻む情報、想念の形・こころの鋳型・・である。

転生のパターンはカルマによるとされるが、これが何のことなのか、

すでにあなたは気付いていることだろう。


●閉じた社会(観念)プログラムを越えよ

自分が地球上に一時だけ生きている、小さな知的な肉体存在であると、
死んだら終わりの1度だけの人生、大事にしなくちゃ・・と、
大勢の中で出来るだけ楽しまなくっちゃと、
あるいは、
そのために、取りあえず肉体の安楽さの追求だけを大切にしなきゃ、と
嘘だってなんだって結果が出ればいいんだなどと・・、
そう思っているのだろうか?

たしかにほとんどの人は、程度問題はあるものの、そう教わってそう、信じ込んでいる。
信じ込んでいるというよりは、それが客観的な事実であると・・しているだろう。

いつまでたっても、霊的知識は、
何か興味をそそられる、スピリチュアルと呼ばれる新しい分野の知識であると、
そう想っているだけだろうか。

それに、魂的、霊的と言われる知識を得ても、
だからってなにも周囲が変わるわけでもないし、何の得もないからと、
刹那的感覚だけの肉体個人の集団に舞い戻る繰り返しもあろう。


●外は投影像だからこそ”外の世界”

ただ、いつか気づくのは・・、大勢のこの世界の誰一人として・・
あなたのことを”全面的”に、”全包容的に”愛する者はいないと、
そういうことに気付くのだ。

どこにどう埋没しようとも、例えインドラの神?のように、
豚小屋の豚の親豚になろうと、王侯貴族になろうとも・・
なんの変りもない。

大勢のどんな組織、集団に埋没し、心酔し、支持しようとも、
ましてや自分を愛する異性をこの世界のどこかに探しても、

あなたが深く求めている・・はずの、無条件の親密さ、愛、
全存在として・・あなたの全てを知り受容することが出来る者は
どこにもいない。

仏陀、キリスト、マホメットであろうと、・・だ。
霊的知識をお金に変える賢い?教祖さまであろうと、
宇宙のどこかの高度な時空世界の、何次元の存在であろうともだ・・。

●普遍的な願い=幸せは・・既にあるもの
この世界で、
人はみな幸せという状態を求めて社会で動き回り、喜々として彷徨うものだ。
あなたもそうではないか?

なぜかと言えば、生きている世界の中で・・無条件に幸せでありたい・・と、
すべての人にとっての普遍的な願いがあるからなのだ。

そう、それは頭の良いお猿さんが願う事ではなく、
神なる者である・それ・あなた・わたし・・が故の願いであるとも言えよう。

我々は、繰り返される現実という、実に詳細で執拗な”幻想世界”の中で、
求めて、求めて、獲得し、獲得して、身に着けて、見栄えを飾って、
多少悪いことをしようと、知られなければ良いと切り捨て、
取りあえず、人生を頑張って生きることを良しとする。

そういう刷り込まれた社会プログラムのおかげで、
若い間は何も考えず社会でいかに踊り上がるかだけを考えて過ごすことが多いものだが、
いつか人は、人の寿命が限られているということに嫌応なく気付く時が来るもので、
誰でも例外なく、大なり小なり、自分の人生を振り返らざるを得なくなる。

ここまで来れば、ある人達はようやく気付くのだ。

外の世界では、どんな幸せも得られないと・・。

それは一種のあきらめ、離脱、解脱とも言えるものだ。

3次元的?世間常識では決して評価されないので、

そこまで深く探求する存在はそう多くないかもしれないが、

そういう事なのである。


●自分の来た道・・想念の系譜を顧みる

これはある意味で、

常に自己を振り返ることを怠ってきたがゆえに、

一気に自省の状況になると言ってもいいだろう。

わたしたちが・・肉体ではなく・・意識であるがゆえに、

その意識から生ずる・・

自らの想いと行為を振り返り見る時期がある。

それは必ずしも、臨死体験報告などにあるような死後の人生の回顧、
ライフレビューと呼ばれるような、肉体死の直後に行う必要もなない。

今ここで、現実世界という、顕在意識の先端部で・・
それに気付いて生きることが良いとは思えないだろうか。



●霊主体従へ

これは、今までの様に?物質的に生きる・・のではなく、
意識的に生きるとも言えよう。
ある表現では、体主霊従ではなく霊主体従などと呼ばれるものだ。

ここで、
霊とか体とか・・霊だけとか、物質だけとか・・
概念で分離して考えがちだが、
意識に生じる波動・・いわゆる(神の・人の)想いが具象化することには変わりなく、
霊界・物質界などという分離された概念は誤解を招くだろう。

●わたしの本質は(宇宙)意識

意識であるわたしたちは、全包容的宇宙意識・・であり、
そうであるがゆえに、本来・・時空を超えた存在である。

この世界では最後まで忌避され、大きく無視されるところの死は、
生とセットになった波動の両端のようなものであることに気付けるだろうか。

肉体死の後は「魂・意識」として、時空を超えた全包容的波動域にあり、
その意識の中の波動情報・カルマ・想念の形、
例えばそれは鳴門の渦巻きパターンのようだとも言えようが、

その意識内面の、自らの刻印(想念)によって、次への転生が行われると言えよう。

この世界常識では、常に誤解を招くことだし、
安易な逃げ口上とすべきではないものの、
転生とは、
本来はワクワクしてもおかしくない魂の表現・開花の仕組みなのである。

そう、神なるものは・・あなた・・なのだ。

今ここに在る・・のが証拠である。
いかにこの地球という世界が閉鎖された時空といえども、
その証拠たる”自らを”見逃し続けることは、何時までも出来る事でもないだろう。


●今在る・・ことは未来も過去もある事を意味する


今・・在る・・ことは、過去も未来も・・今在る・・

来世も過去生も・・ある・・、

生も死も・・今・・在ることの変化・変遷に過ぎない。

今と言っても、この世、現時点、何月何日・・・ではなく、

在る・・こと・・それだ。

今・・とは、 ただ・・今・・。

そこから全てが生じていることに本当に気付けるだろうか。





転生の話(8)人生という・たとえ話

2019-09-06 07:48:00 | 語り部の章
いま私たちは、ここ・この時に・・生きている・・と感じている。
今・・在る・・ことに・・気付いている。

意識・・ここから、それぞれのわたしにとっての全てが生じている・・。

この自分というものへの気づき・・簡単に・・自意識などとも呼ばれるが、
それがなければ、わたし自体が存在せず、
またその・・わたしの・・知覚する世界も存在しない。

”意識”という概念で示されれる・・それが無ければどんな世界も無い。

これは・・今・・瞬間・瞬間に出現し続けていることだが、
当たり前のように無視され続けて、何生にも渡って、
ほとんど全くと言っていいほど気づかなない。

なぜならば、
無限の意識の顕現体ともいえる無数の個別意識を、個の「魂」というならば、
それが、ある肉体という観賞切符を見にまとい、
世界映画に見入り始め、次第に目先のスクリーン(人生の)展開に釘づけになり、
またそこで起きる様々な想念・感情に、自己投入・没我してしまうのだ。

それがこの世界に生まれることであると言えようか。
想像しがたいかもしれないが、
赤ん坊を生む事、赤ん坊で生まれることも、
この世界に参加するための”設定”のようなものなのだ。
意識の設定・・ひととして生きてきた経験や、
醸し出されてきた想念の鋳型から出てくる形と言って良い。

こういう視点は、自分を肉体だと思っている限り、到底想像も理解も出来ない。

人は誰でも目先の事に”捕らわれている”ことに気付かないもの。
多分、大勢がそう思い込んでいる造られた常識観念、
わたしとは・・死んだら終わりの偶然の肉体人間だと、
そう想い、その他大勢の中に安住しつつも、
どこかいつも不安を抱えつつ、外の世界の何かの刺激に気を紛らわす、
とはいえ、問題など何も無い様な、尤もらしい顔をしているだろうか。

そうしている間に、幸であろうとそうでなかろうと、
人生は終わりを迎えることになる。


あるスピリチュアルな人は、この世界に生まれる前のイメージとして、
まるで地球にダイビングするようなものだと言うが、
これは、意識がその投影世界に自らを”自己投入”することの別表現であり、
それが生まれること、生きること・・とも言えるだろう。




あなたやわたしという人間、無数の意識的生命が存在するということは、
魂・個別意識が、宇宙意識自身の・・”個性化表現”とすれば、
宇宙意識そのものの展開の中に、”自ら”を無数に投入して、
様々な角度・次元から、宇宙創造を実体験しているということも言えるだろう。

あなたは、そういう経由で、今ここに居る・・かもしれないと、
そう思い巡らすことが出来るだろうか?
それともあるいは、この地で生まれた一過性の、偶然の知的肉体個人だろうか?
そうであれば、あなたは衣服の事を自分だと思っている幼児かもしれない。



そして、自分が映画館に来た観客だということをすっかり忘れてしまい、
映画館の中でいきおい、何十、何百本もの映画を観てしまう。
そういうこともあると思えないだろうか。

自己忘却がゆえに繰り返し見る人生映画、
これがその世界での輪廻転生とも言えるかもしれない。

人生の1話1話が短く、生と死に関する相当に激しい感情を沸き起こすため、
1話1話の記憶を一端しまい込まなければ、到底次を見ることが出来ないという、
そういう忘却の仕組みもあると、そう想えないだろうか?

また多くの魂(観客)たちは、この(地球)映画館で上映される、
人生・地球・宇宙物語を語る想念・感情の大枠の流れが、
あまりにも利己的、卑小的、暴発的である為に、
よって生じる衝撃でマヒしているとも言えるだろう。

あなたは他生の記憶があるだろうか?
それとも、それが無いと思っているため、
自分とは、この人生だけの偶然の存在だとそう想っているだろうか?
そう言う信念は、またまたそういう形を現すという
そういう意識的な法則のようなものがあるかもしれないと、そう想えるだろうか。

信じるも信じないも・・あなた次第・・というのは、
なにも、面白おかしく不可思議で信じがたい、都市伝説だけではない。


それは、それぞれの・・わたし自身・・のことである。