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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

(36)幸せの実践・創造

2022-01-21 07:30:59 | 意識の科学(総合編)

幸せとは何かといえば、心の平安である。

こころの平安とは、

こころが穏やかで静かであり、安心した状態を意味する。

こころ、つまり意識の様相が「穏やか」であれば、

人は皆「幸せ」を感じるのだ。

 

あなたが幸せを感じていないというならば、

それは心が穏やかではないからである。

 

こころが穏やかであること

この状態は、ある意味で「達人」の域にあることを意味している。

達人とは、何かのことに対して熟知しており、

知識・知恵・経験に裏打ちされた”穏やかさ”があるものだ。

そのこころは平安である。

そして、その背後には・・穏やかさ、意識の「静けさ」がある。

 

静けさと言えば、

なにも無い閑散としたイメージがあるかもしれないが、

これも大いなる誤解、間違った観念である。

 

穏やかなこころ・・は、

全て・・、全てが・・そこから出現できるところの、

無限の可能性を露わに・・秘めた・・”意識”から来ている。

そこから全てが立ち上がってくる無限の意識・・

本来、わたしたちはその意識の個性化したものである。

 

こころの穏やかさは、

より高い次元の意識レベルからくるものであり、

意識の振動レベルが微細で、より創造のパワーが大きい。

・・・

物質・環境・人間関係もろもろは、

因たる意識が、二次的、三次的に現れ出たものに過ぎず、

それらを現象面(上っ面)でいかに加工・処理・整理しても、

単なる形を変えただけのものを、さらに変える努力に過ぎない。

 

自分が不幸だ、不幸だと嘆いているならば、

周り車の輪の中で、それ自体を回し続けているネズミ自身が、

「おーい、誰かこの回る車を止めてくれないか?!」・・

と言っているようなものだ。

 

まず止まる・・ことである。

誰か?って言えば、

自分自身でだ。

マインドの刺激に満ちた騒ぎを・・止めるのだ。

そういう時間を持たねばならない。

空いた時間をテレビなどでごまかすのは、最悪この上ない。

 

あなたが今幸せでない・・と感じているならば、

まず、何を知っていようと、知らなかろうと、

頭が良かろうと、そうでなかろうと・・

若かろうと年寄りだろうと、

 

まず、こころを静める必要がある。

こころを静めるということは、

感覚的で都会的な雑多な刺激を避けて、

内面を見つめる時間を持つということだ。

瞑想、内観、禅など・・と難しく考えず、

とにかく・・こころの騒ぎを静める必要がある。

 

こころの静寂を図ること、

これは絶対といって良い。

 

不安や義務感などでバタバタ騒いでいるときには、

決して心の平安は得られない。

1日のうちで必ずこころを静かに保つ”実践”が必要である。

 

電車の中、ひとりの時、トイレの中、風呂に入っているとき、

今は未だ、気付けば時間はいくらでもあるはずだ。

 

外側世界、雑多な不安ややらせに満ちた五感の世界でなく、

静かに内面に意識を向ける時間をもつことだ。

 

 

これを実践するならば、

その程度、ちょうどその程度づつ、

マインドの静寂さを感じられるようになり、

 

マインドの静けさが意識できるならば、

そこに言葉で言われる真の意味の

「幸せ」があることが実感できるだろうし、

そこに平安の波動を感じるだろう。

 

うれしいなあ、たのしいなあ・・幸せなんだなあ・・

そういってもいいなあ・・という感覚が、

そんな実感が

自然と、

わき出て来るのである。

 

それが私たちの周囲の時空間の、

その色合いを次第に変えてゆくことになるだろうし、

さらには、

いつか来る、持続する次なる人生へも引く継がれるだろう。

 

幸せは内面で感じる・実感するものであり、

文字列を読んで記憶する類のものではない。

 

これらは知識、学、頭だけでは理解・実感不能である。

実践・実演・・・実存・・・

そう在ること・・以外には・・ない。

そして、

そのための人生ではないのだろうか?

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、

誠に有難うございました。

 

 

 


(35)幸福は既に内在するもの

2022-01-11 18:20:07 | 意識の科学(総合編)

幸せは外側からくるものとか、環境次第とか・・

そんな風に考えていた人も多いだろうが、

実は全くそうではない。

 

幸せであるためには、

まず幸せの感覚を内面で起す・起動する必要があるのだ。

つまり、幸せとはその人の・・意識的な創造によるものであって、

偶然の結果としてやってくるものではない。

 

・・・

物的環境や人的処遇が幸せを決める?・・等、

大きな詐欺的ともいえる観念上の嘘と言わねばならない。

 

幸せはたまたま起きるもの、偶然の結果で生じるもの、

環境次第で幸せが決まる・・

財物・地位・血筋・容姿等で決まるもの、

そんな風に考えさせられていただろうし、

世間の多くがそういう漠然とした常識を持っているだろうけれど、

嘘も甚だしい。

・・・

ひょっとして、あなたも幸せではないと思っているだろうか。

というか、幸せという言葉自体に、

どこかあり得ない状態を聞く様な違和感・・、

自分とは関係が無いような異質感

あるいは

ある種の気恥ずかしさがあるかもしれない。

そんなのあるの?・・・

 

多くの人は、たまたま幸せを感じる出来事があって、

それで、初めて幸せを感じると信じているかもしれないのだが、

注意深く自分自身(意識)を観察すれば、

結局は、幸福とは内面で実感することだということだ。

 

幸せとは・・環境や出来事そのものではなく、

それを契機として・・その人が感じるものである。

 

感じるとは、一般に感情などと呼ばれている意識(振動)状態だが、

その感じるものの中に、

安心感、平安、うきうき感、喜びなどがあれば、

それを幸福感と言っている。

 

同じ出来事がいくらあっても、それで幸せを感じるとは限らない。

外の世界が独り相撲をして、気まぐれに何度か、

あなたのために幸せを運んでくるのではない。

宝くじが当たらなければ幸せになれないわけではない。

 

もし、たまたま偶然に外側から幸福がやってくると信じていれば、

まず、そのとおり、ごくたまに幸福感が訪れることになる。

「あー、あの時は幸せだったなー」

「今は何てざまだ・・・」

 

しかしながら、

幸せとは、元来・・内面で感じるものである。

内面に幸福感の種(因)が無い場合は、

どうして幸せの知覚事象(果)が起きてこようか。

・・・

外の世界に知覚され、発見されるものは、

常に内側の因によって生起される。

 

内面に「幸せを感じる」という意識的原因があるからこそ、

結果として投影される事象世界に、それが現れ出ているということだ。

光源無くして投影無し・・である。

 

内面にないものは、外面にも発見されない。

内面に種が出来れば、それが外面に展開する。

それは、生命表現を表す草木を観察してもわかることだ。

 

これらの一種の原理・法則と言えるものは、

あるいは「因果律」・カルマの仕組みとも呼べるだろう。

 

こういう意識を含んだ言わば5次元認識は、

言わば生命・意識の顕現の方式というべきものであり、

物質の反応や運動だけを扱うような、

3(4)次元的認識では理解できないはずだ。

なぜならば、

時空間(4次元)だけで、観察する”意識の次元”が抜けているからだ。

 

幸福はすでに真我に内在していて、

それを意識的に発動することで様々に体験として展開する。

 

何があっても無くても、

<あー、わたしは幸せなんだ・・>

そう感じること、そう感じようと意識的になること、

それに意識を合わせ続けることは・・・、

 

その意識的実感の程度に応じて、ちょうど、その程度

・・それが体験事象として生起されることになる。

 

「あー、わたしは幸福だ・・」と感じることの中には、

安心感、平安、うきうき感、喜び、躍動感、好奇心等・・

様ざまな嬉し楽しが含まれている。

 

貰うのでなく、取るのでなく、待つのでなく・・

そういう侘(わび)し、寂(さび)し、悲し、苦し・・でなく、

 

意識して、嬉し・楽し・愛し・可笑し・・を創造することだ。

 

だって、誰でも幸福を願っているではないか?

 

種がまかれれば、自然の法則に従って必ず刈り取るのが、

因果の法則である。

・・・

 

余計なお世話かもしれないけれど、

もしこれをご覧の方々で、

この意味の妥当性に気付いている方々は、

まず、日常生活の中で、

是非ご自分で実践・実感の、

意識的努力をせられんことを願う次第である。

 

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


(34)すでに在る・・至福へ

2022-01-06 05:54:39 | 意識の科学(総合編)

誰でも幸福であることを願っている。

意識する、しないに関わらずだ。

動物、動物種、人、人種の違いに関わらず、誰でも幸せを求めている。

これは否定しようがない。

存在は・・創造の喜びがあるからこそ「存在」なのである。

 

誰であっても、つまらないものを好むことはない、

嬉しくないと感じるものを、大事にしようとは思わない。

あなたは嫌いな人と是が非でも一緒にいたいと思うか?

不快な状況は避けようとするし、

気持ちが悪いものを肌身離さず持とうとはしない?

不幸を好むか?

・・・・

いいや、決してないだろう。

誰でも、自分が幸せに感じるもの・・

それとつながるものだけを欲しがるのだ。

だからシュールで意味ありげな例外はないということだ。

全ての人々の目的は幸福にあると言っても過言ではない。

 

悪い人も良い人も、その思考や行動がどうであれ、

自分自身の幸福につながると信じているからこそ、

悪いことも良いことも行うのである。

人に隠れ、人にひけらかし、騙し、騙され、

嘘を言い、真実を言うのも、

自分の利益になると信じているからこそだ。

良い思考、悪い思考、それから必然的に起こる行為、

それが確信犯的であろうが、詐欺的であろうが、

真実一路の行為であろうが、

その背後にあるのは・・その時時に信じ込んでいる、

自らの幸福の追求である。

皆々、これを漠然と行っているのである。

 

・・・・

しかしながら、なかなか幸福は得られない。

これでもか、これでもかと頑張っても、

幸せを実感することは針の孔より小さいものだ。

あっ・・と思えばすぐに消えてゆく。

それは、

地で満ちている不幸の群れの中で、

夜空に輝く星々のように小さい。

・・・

たしかに、幸福でなくとも毎日生きていける。

やらねばならないことがいつも山のようにあり、

それらをこなすことが、どこか苦しいながら、

それ自体に安定・安心を感じることもあるだろう。

そうやって、瞬間にも及ばない間の、

与えられた人生を消化するものだ。

 

・・・

そして今、あなたは幸福だろうか?

もしそうでなければ、なぜなのだろうか?

得られないことに意義があるのだろうか?

 

またそもそも、幸福とは何だろうか?

それが分からないのに、得る得られないもない。

幸福であるとは・・何だろう?

なんとなくの霞の中の幻想か?

・・・

それはこころの状態だ。

こころが幸福なるものをを感じている状態だ。

明らかに、物でも状況でもない、

絶対に、地位や名誉、財産や美貌ではない。

あなたの意識する・・

それ・・その対象物、状況そのものではない。

 

言葉で表現するならば、

「あー幸せだ・・!」と感じるこころ・・のことだ。

・・・

こころ?感じる?・・・馬鹿言うんじゃない、

そんなもの何の役に立つ?

銭や財産、地位や権威が効くんだよ・・

それで幸福をつかむんだよ・・

 

そんな大嘘の支配観念に気づくだろうか?

それは、肉体自我保身への不安を払拭する、

切ない努力ではあるものの、

生存のための過ぎたる試み以外の何物でもなく、

それで幸せを感じることはない。

なぜならば・・・

不安と不信のこころが根にあるからだ。

 

常に何かの問題があるので・・

いつもこれを何とかしなければならない・・・!

そうやって、次から次へと問題・トラブル・不安・不幸を創り上げ、

それを打ち消そうと努力に努力を重ね、

汗を流し、苦渋の涙を流し、

その先にきっと・・幸福がやってくると・・・

そう集団で思い込んできたのだ。

 

そうやって・・人生を終え、気を取り直して、

また次の人生へと・・突入してきた。

 

そうは思わないか?

 

条件付きの幸福を願い、

そのための条件を次から次へと・・

次から次へと・・・

不安と不信がゆえに、繰り返し繰り返し創り上げ、

決して到達しないように、

到達しないことが良いことのように思い込み、

幸せであることが間違っているかのように、

集団で真似事しながら思い込み、

顔を見合わせつつ、互いに戦いながら、

 

どうして幸福や平和は訪れないのだろうと、

難し気な哲学者のように考え込み、

永遠のかなたに追い求め、押しやり、嘆き悲しむ。

 

嗚呼、何という屈折して腐食した、

こころ・マインドだったのだろうか。

幸せの青い鳥は外の世界のどこかにいると、

今まで外の世界のどこかに幸せがあると信じ込み、

あるいは集団幻想を信じ込み、

あちら、こちら、あの人この人と探し回り、

いつもいつも、永遠のかなたを見上げながら涙したのか。

・・・

マインドの論理、理屈の罠にはまっている場合、

これらは意味不明な言葉と捉えられるかもしれない、

しかしながら、

 

幸福とは、

幸せだ・・と感じるこころ・・。

今・・感じる・・幸福感のことだ。

 

今・・何はなくとも・・幸福だと・・感じること。

あれが無ければ、これが無いから・・

そういう条件はまったく、まったく不要なのだ・・・

他人がどうであれ、環境がどうであれ、世界がどうであれ、

 

今・・幸福であることを実感・宣言・実践することだ。

そして、

そこから・・幸福が出て来るのである。

 

常に今の瞬間に湧き出す切なる根源からの想い、

創造の源・・理由・・

「あー、わたしは幸せだ・・!」

と、

何はなくとも、

無条件で・・

今・・感じること、

今・・瞬間の・・・創造なのである。

 

理由を付加しない無条件の・・

幸せであるという実感こそが、

それがマインドが撒く「種」である。

 

種は必ず成長し大きな花が咲く。

種を蒔かずして、どうして収穫があろう?

今、無条件で幸福を感じなくて・・

どうして幸せの現象花が開くのか?

 

現実という、過ぎては消える「結果」の世界を、

繰り返し繰り返し議論すべきではない。

・・・

元にある根源の・・創造の実感・・

それは・・既に在る、

時空を超え、常にいつも在った・・

至福である。

 

それを思い出し、それを芽吹かせるのは、

今ここでの・・幸せの実感である。

 

それに気づいただろうか?

 

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、

誠にありがとうございました。


(33)すでに幸福で在ることの実感

2021-12-25 05:20:27 | 意識の科学(総合編)

幸福になりたい・・幸せでありたい・・という願いは人間共通である。

誰でもそうだといって良い。

しかしながら、誰でも現実は、そうでないと思っている。

そして、それを不幸せと言うならば、

不幸の様々な原因を色々上げることも出来るだろう。

知的な人ほど、不幸の原因のあれこれが分かるものだ。

 

こうだから、幸せではないのだ。

これが原因で不幸だ。

この原因を無くさなければ、決して幸せには成れない。

そう、不幸せの原因はこれこれ、かくかくしかじか、

実に賢く、そういう徹底的な理論武装をしている。

 

その不幸の原因は、主に、あなたの外にある条件・環境などである。

社会・世間・身近な人たち・・

身分、経済格差、生活のレベル、・・・、

こういう”外側の”様々な現実こそが、

不幸の原因であると・・漠然と信じているだろうか。

・・・・

あなたの外側・・あなたという根源『意識』の・・

外側の知覚対象世界、

それが・・

あなたの不幸の原因であって、

その知覚対象世界・環境を変えなければならない・・

そういう風に信じ込んできただろう。

・・

いや、何言ってんの、そうに決まっているじゃん。

それ以外にあるわけないじゃないの・・!

だからみんな世界を変えようと頑張ってんじゃない?

・・・

でも、ここで何かが?すり替わっていることに気付けるだろうか?

幸せとは・・外側が幸せというのではなく、

それぞれの・・・わたし・・の幸せなのである。

 

外側の世界が幸せであることが、

あなたの幸せであるという、実に高尚な人がいたとしても、

 

結局、条件付きで・・幸せだということだ。

でも、本来・・・

幸せとは・・・あなたが実感するものである。

外の世界様が・・「あー、わたしは幸せだ」と・・

実感するのではなく・・・

あなたが、わたしが実感すること・・だということだ!

これは・・絶対的な真実として気づけるだろうか・・・

・・・

わたしが実感することに対して、

わざわざ外の世界の条件を重く重くのし付けて、

「わたしは幸せではない!」と・・実感しているのである。

そして、

意識主体としての・・わたし・・以外の、

わたしを不幸にすると考える外的条件を非難している。

 

幸せに・・条件を課しているのだ。

銭、金、物、財、地位、名誉、勝利・・

 

「まずは、それが必要でっしゃろ?」

「だって、みんなそうやってるじゃない・・・」

「そのために頑張ってんじゃないの?・・」

それを超えなければ・・決して幸せには成れない・・・

常に、さき、先に用意される幻影・条件プログラム

実は・・・

それが不幸せの原因なのである。

あなたの内面にある本来の幸せ・・・

その周囲にまとわりついている歪んだ想念の群れ、

それが原因なのである。

・・・・

わたしが幸せではない・・ことの原因である。

簡単に言えば、

わたしが・・幸せではない・・としている

「想念」そのものだ。

 

だって、様々な条件をわざわざ用意して、

その条件を満たさなければ幸せになれない・・と、

そう信じ込んでいるのだから。

 

だから、わたしたちのあるべき姿は、

わたしたちが幸せである・・ことを認識し、

それを実感で波動確定することなのである。

 

そうだ!。。と思わなければ実感は起きない。

実感とは・・実在感覚であって、

現実という名の知覚対象世界の創造力なのだ。

・・・・

何が無くても、何があっても・・・

わたしは幸せである・・という無条件の「実感」は、

全託の信頼、無条件の愛からくるものであるため、

常日頃からこれを意識していよう。

 

どんなマインド手法を使っても良い・・、

また出来るだけ時間を用意し、

「あー、わたしは幸せである!」という実感を、

わたしたちの意識の中に溢れさせるのである。

 

創造の基本形、

内部に出てきた根源波動が、

外側に波動として伝搬・降下・現象化する。

 

いままで、繰り返し、繰り返し、長い時間かけて、

不幸せの中で頑張ることを刷り込まれてきたのであれば、

その、同じ手法を学んだがゆえにこそ出来ること。

 

・・・

繰り返し・繰り返し・・・内部を起動し、

意識を振動させ、

意識的存在として既に在る・・幸福の根源波動、

全ての起動元である内面意識の中に、

「あー、わたしは本来・・幸せなんだ・・!」という実感・・を、

それぞれのあなた中心に溢れさせ放散させよう。

今までの心の癖があるため、

当初は難しいけれど、

 

不幸を繰り返し、繰り返し演技するのが、

もう十分な魂たちは、

これを理解・実践するだろう。

 

意識的実践・努力は・・その分だけ・・真我への波動に近づき、

あー、これも幸せ、あれもそうだ・・という現実が増えてゆき、

至福と言われる・・本来あるべき現実へと近づいてゆく。

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

 

 

 

 

 

 

 


(32)幸せである方法

2021-12-19 06:27:16 | 意識の科学(総合編)

人は誰でも幸福でありたいと願っている。

誰でもだ。

不幸になりたいとは、どんな人も決して思わない。

これは断言して良い。

例え闇だろうが光だろうが、誰でもだ。

 

でも、幸せではないと多くの人が感じている。

また成功者や大富豪や、世間でもてはやされている人は、

きっと幸せなんだろうと思っていて、

わたしもああなりたい、幸せになりたいと願っている。

 

・・・

これは真っ赤な嘘、騙しである。

あなたは幸福の所有者ではないと思うように仕向けた、

巧妙で愚かしい虚偽・詐欺である。

・・・

わたしは・・今・・幸せでないと、

子供のころから洗脳をされ、繰り返し・繰り返し騙され続けてきたのだ。

誰にだろうか?

周囲の人たち、社会の人たち、世界の人たちによってだ。

そうやって、騙され続けてきた人たちが、

そのままそれを伝え続け、不幸せなことが当たり前だと・・

そう想い、そういう言葉を発し、そういう行為をしてきた。

そういう集団を創り上げて来たのだ。

 

いかに自分は不幸であるか・・を実感し、

不幸であるがゆえに、

幸福を得るために努力をするのである・・と、

さも当たり前の論理を掲げ、

様ざまな社会的努力に勤しむことが、

生きていることの、人生の意味であると、

そういう風に思って頑張ってきたのだ。

 

こういうと、あーそうだね・・と思うだろう?

あなたは、ちがうのだろうか?

 

しかしながら、しかしながら、

いつまでたっても幸せではないことに、

あなたも、もう気づいても良い頃ではないか?

 

確かに、

幸せを得ようとして、頑張って、頑張って、

物や人や組織や地位を獲得し、

人々の注目を浴び、ほめそやされ、うらやましがられ、

・・・

あなたは一時の幸福感を得たかもしれない。

しかしそれは決して続くことはない、

それもすでに経験済みだろう。

実のところ、この世は、そのための人生である。

それに気づくための人生である。

 

幸福は・・得るものではない。

得たものは、失うということを意味する。

幸福は、得たり失ったりするものではない。

あーそうかも、と、それも理解可能である。

 

でも、あなたは今幸福ではないと・・・思っているだろう?

では・・

あなたは今・・幸福であると思えばどうだろうか。

わたしは不幸である・・とするのではなく、

幸福である思う・・とするのである。

つまり・・幸福であろう・・とするのではなく、

幸福である・・とするのだ。

 

「何かの条件がないから・・不幸だ!」・・が、大いなる詐欺師なのだ。

お金?名誉?人気?愛してくれる人たち?

それらが無いから幸福ではない・・と、パブロフの犬のように、

子供のころから条件づけられてきたことに・・気づけるだろうか?

 

「あの人のようになれ、あの人偉くなったわよ、随分お金持ちだよ、

あの方大企業の社長さんなんだって、お役人様待遇が違うね・・」

 

ハッキリ・・断言しよう。

彼らは絶対に幸福ではない。

なぜならば、幸福ではないから・・努力も、嘘も、騙しも使って、

必死に幸福になろうとしているからである。

 

しかしながら、ある人はこう言うかもしれない。

 

そうは言うけどね、

「何の努力もしないで幸福になれるわけはない。」・・と。

そう、そう、その通りと・・思ってしまう。

努力をして・・・⇒初めて・・ 幸福になる・・

こういうことを言っている。

そうであれば、

はしゃいで遊ぶ子供たちは・・幸福ではないのか?

家族同様のペットたちは不幸なのか?

いいやどう見ても不幸には見えない。

 

何かが変だと気付かないだろうか?

・・・

幸福は・・すでにある・在るものであり、

何かを獲得して得られるものではないということだ。

あなたが変身すれば成るものでもない。

大勢が同じ行動をすれば得られるものでもない。

 

実は・・幸福は・・すでに在るものであることに、

気付くべきなのである。

 

幸福であることに気付くこと・・

それを「実感する」ことである。

実は・・・努力は・・ここに集約しなければならない。

すでに幸福である・・と実感・するのだ。

 

実感することで、

いつまでたっても実感できない・・幸福が現れるのである。

・・・・

ここは多分、意味不明の方もいるかもしれない。

なぜなら、

いままで、、不幸の再生産マトリクスの中で、

随分とお騙し絵ばかりを見せられてきたかたらだ。

 

「何の努力もしないで幸福になれるわけはない。」

努力をして・・・⇒初めて・・ 幸福になる・・

その努力とは、

地位や名誉やお金や財産、見栄えや評判・・の獲得努力。

その全ては・・儚く消えるものばかりではないか!

それは・・幸福ではなく、

単なる一時の「創造されたもの」なのである。

 

真我は・・存在・意識・至福である。

創造物の中には幸せはなく・・、

創造そのものが・・幸福なのである。

 

 

幸福であることに気付くこと・・

それを「実感する」ことである。

実は・・・努力は・・ここに集約しなければならない。

すでに幸福である・・と実感・するのだ。

それが・・幸福の創造の・・元にある。

 

だから、何を置いても、

わたしは・・幸せであると・・実感しなければならない。

 

この実感が・・創造のパワーなのである。

既にそうである・・・こと、

これは頭で考え、すぐに忘れることではなく、

実感・・・をすることだ。

 

わたしたちは、繰り返し、繰り返し、

外の世界の虚偽のマインドに幻惑されてきた。

そして、大体いつも・・幸福でない状況を造りあげてきた。

 

であれば、

繰り返し・繰り返し・・幸福を・・実感することで、

 

大体・いつも幸せである状況を創り上げようか。

 

3次元的観念世界の普通のマインドの働きは、

考えて、想起して、そして忘れることだが、

それを超えた次元世界においては、

そのマインドを使って、感情という実感を使って、

本来望むあり様を・・自らで起動・創造することになる。

 

幸福であることに気付くこと・・

それを「実感する」ことである。

実は・・・努力は・・ここに集約しなければならない。

すでに幸福である・・と実感・するのだ。

それが・・幸福の創造の・・元にある。

 

単なる気の利いたスピリチュアル話でもなく、

そうなら楽しいなと思うような、寓話やたとえ話でもなく、

 

全てであり、全ての背後にある・・意識・・

その意識の派生した想念・マインドでの創造の方法である。

 

 

実感することが創造という・・

新たな生き方・・公式の話である。

 

・・・・・

 

意識の焦点化した先に・・知覚が起きる。

人間本来、そう私たちは皆・・そういう創造を行う者たちなのだ。

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。