幸せとは何かといえば、心の平安である。
こころの平安とは、
こころが穏やかで静かであり、安心した状態を意味する。
こころ、つまり意識の様相が「穏やか」であれば、
人は皆「幸せ」を感じるのだ。
あなたが幸せを感じていないというならば、
それは心が穏やかではないからである。
こころが穏やかであること
この状態は、ある意味で「達人」の域にあることを意味している。
達人とは、何かのことに対して熟知しており、
知識・知恵・経験に裏打ちされた”穏やかさ”があるものだ。
そのこころは平安である。
そして、その背後には・・穏やかさ、意識の「静けさ」がある。
静けさと言えば、
なにも無い閑散としたイメージがあるかもしれないが、
これも大いなる誤解、間違った観念である。
穏やかなこころ・・は、
全て・・、全てが・・そこから出現できるところの、
無限の可能性を露わに・・秘めた・・”意識”から来ている。
そこから全てが立ち上がってくる無限の意識・・
本来、わたしたちはその意識の個性化したものである。
こころの穏やかさは、
より高い次元の意識レベルからくるものであり、
意識の振動レベルが微細で、より創造のパワーが大きい。
・・・
物質・環境・人間関係もろもろは、
因たる意識が、二次的、三次的に現れ出たものに過ぎず、
それらを現象面(上っ面)でいかに加工・処理・整理しても、
単なる形を変えただけのものを、さらに変える努力に過ぎない。
自分が不幸だ、不幸だと嘆いているならば、
周り車の輪の中で、それ自体を回し続けているネズミ自身が、
「おーい、誰かこの回る車を止めてくれないか?!」・・
と言っているようなものだ。
まず止まる・・ことである。
誰か?って言えば、
自分自身でだ。
マインドの刺激に満ちた騒ぎを・・止めるのだ。
そういう時間を持たねばならない。
空いた時間をテレビなどでごまかすのは、最悪この上ない。
あなたが今幸せでない・・と感じているならば、
まず、何を知っていようと、知らなかろうと、
頭が良かろうと、そうでなかろうと・・
若かろうと年寄りだろうと、
まず、こころを静める必要がある。
こころを静めるということは、
感覚的で都会的な雑多な刺激を避けて、
内面を見つめる時間を持つということだ。
瞑想、内観、禅など・・と難しく考えず、
とにかく・・こころの騒ぎを静める必要がある。
こころの静寂を図ること、
これは絶対といって良い。
不安や義務感などでバタバタ騒いでいるときには、
決して心の平安は得られない。
1日のうちで必ずこころを静かに保つ”実践”が必要である。
電車の中、ひとりの時、トイレの中、風呂に入っているとき、
今は未だ、気付けば時間はいくらでもあるはずだ。
外側世界、雑多な不安ややらせに満ちた五感の世界でなく、
静かに内面に意識を向ける時間をもつことだ。
これを実践するならば、
その程度、ちょうどその程度づつ、
マインドの静寂さを感じられるようになり、
マインドの静けさが意識できるならば、
そこに言葉で言われる真の意味の
「幸せ」があることが実感できるだろうし、
そこに平安の波動を感じるだろう。
うれしいなあ、たのしいなあ・・幸せなんだなあ・・
そういってもいいなあ・・という感覚が、
そんな実感が
自然と、
わき出て来るのである。
それが私たちの周囲の時空間の、
その色合いを次第に変えてゆくことになるだろうし、
さらには、
いつか来る、持続する次なる人生へも引く継がれるだろう。
幸せは内面で感じる・実感するものであり、
文字列を読んで記憶する類のものではない。
これらは知識、学、頭だけでは理解・実感不能である。
実践・実演・・・実存・・・
そう在ること・・以外には・・ない。
そして、
そのための人生ではないのだろうか?
本日も拙い記事をご覧いただきまして、
誠に有難うございました。