人間は今、最も根本的なところから考え直さなければならない時期に来ているようである。
気付けば、もうそんなに時間が残されていないような、そんな切迫感を感じないではいられない。
人類はずいぶんと惰眠をむさぼってきたのかもしれない。
そろそろ目覚める時期にあることだけはまず確かであろう。
あなたはどう感じるだろうか。
・・・
全ての社会的、経済的なことも含め、その大元にある、
「人間とは何か」というテーマに関して、
古い価値観からの大きな転換が必要な時期にきていると考えられる。
・・・
我々は気付かない間に、人間とは何か?という問いかけと、それに対するその時々の回答や考えにそった形で、社会を造っていることに気づいているだろうか。
意識的か無意識的かに関わらず、人類の総合された価値観念、集合意識によって今までの文明・文化が創られていることに気付けるだろうか。
今までの、「人間とは何か?」というテーマに対する人類の平均的な自己認識とはどういうものだったのかは、もうすでに理解可能であろう。
平均的な自己感、自己認識とは、・・簡単に言えば、
--人間とは社会的動物である。
--あるいは有機的な肉体存在である。
--あるいは思推する理知的動物である。
・・・というような自己認識ではなかろうか。違うだろうか。
いかにも教科書的でもあるし、常識的でもあるし、誰でも違和感がないかもしれない。
また、誰に話しても変な目で見られることはないに違いない。
実は、これはどこか旧態以前たる唯物史観的な観念から来ているのであるが、それになかなか気づけないかもしれない。
要は、人間とは物質レベルの存在でしかない・・という「思考」である。
・・・
それが当たり前、という潜在的観念であるとも言えるのだが、それが「観念」であるということに気付くことはもう出来るはずである。
科学的な解釈とは言いつつも、それは「解釈」であり、人間の観念、思考でしかないというパラドクスに気付けるだろう。
人間とは、自己を定義すること、即ち「自己認識する」ことが可能な存在そのものであり、それを可能にするのは、思考・認識の働きである。
認識は「思考」あるいは「そう想うこと」 によっているはずであるが、その想いの中に既に唯物的な観念が入っていたということである。
これが正しいのでこれを信じなさい・・という思考を素直に受け入れるのが教育であると思ってきたわけである。
「思考」は肉体と異なる形態のものであり、それが自由自在であることは理解可能であるが、いつの間にか、自分が肉体でしかない・・と感じるような思考・刷り込みが入っていたということである。
また思考、想念は「頭脳」の中で生じていると<考える>ことで、思考そのものも結局は物質的生産物でしかない・・という漠然とした理解を得ていたわけである。
デカルトやカントのように、思推する働き自体の特異性に気付いた存在もいたが、
歴史上進んできた人体の科学的な解釈によって?、
思考は脳内の神経細胞間のインパルスによって生じているとされているし、
そうであればこそ、
「思考」も肉体・頭脳によっているからには、やはり人間は肉体存在である・・
と考えてきたのかもしれない。
しかしながら、多分デカルトはそんなことは言っていないだろう。
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人間は肉体的存在でしかない・・?
本当にそうだろうか?
・・・ここが肝心なところである。
まず、肉体に関して普通に思推してみるとどうなるだろう。
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最近の物理学的、あるいは量子力学的解釈では、「物質」は波動で出来ているとされている。
ミクロの一定レベルでは、電子などの粒子性と波動性の2面性が観測されるものの、粒子性すなわち個体的な塊も、波動の局所的な集中を言っているにすぎず、根本的には物質なるものは「波動」と考えられるわけである。
様々な種類の原子核も電磁波というものを放出して別の原子核に変移するわけであり、
これは、波動の重合、塊が、波動を放出して別の波動の重合形態に遷移するという解釈が出来るのである。
核汚染に関わる放射性物質も、原子核が電磁波を放散しながらエネルギーを放出し、別の原子核に遷移することを意味している。
これは、局所に集中した「波動」が部分的に放出されることで、別の局所的集中形態に遷移することを言っている。
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すなわち肉体を構成する物質なるものは、電磁波を代表とする波動の様々な重合、集合と解釈するのが自然なのである。
我々は原子核レベルの知覚生活は行っていないものの、そもそもの基本は波動の中で生きているということである。
見ることは光という波動の検知であり、聞くということは音波の検知であり、味覚、触覚は異なる物質・粒子の間の振動の検知ということだ。
人間の肉体の構成についての大元の解釈を言えば、それはつまるところ波動であるということである。
すなわち、我々の肉体はつまるところ、「波動」であると<解釈>できるのだ。
・・・
ここまで、若干科学的な物言いで、長々と述べてきたわけであるが、
自分が肉体であるとか、その肉体が物質であるとか、物質が粒子であるとか、元は波動であるとかは関係がない。
証拠があるとか数式で表せるとか、そういうことは実は関係がない。
・・・
そう、
ふと気づけば、
それが科学的であろうと、宗教的であろうと、何であろうと、
人間は自分が肉体そのものであると漠然と思いつつ、
実のところは、科学的観測、すなわち観察という行為によって、
人間の肉体の・・解釈をしている・・存在であるともいえるだろう。
つまり、人間は人間の肉体そのものを<対象>として認識しているということである。
つまり、
物質や肉体は、わたしの・・・「観察対象」であるということである。
人間がいわゆる唯物的な思考によって<自分は肉体である>と、漠然と信じ込んでいたわけであるが、
それはつまり、
自己 の 「観察対象」そのものに、自分自身を<自己同化>していたということなのだ。
人間は<自己認識>という働きそのものによって、その時々の自分を漠然と規定していることに気付けるだろう。
それが世間的常識や歴史上の観念推移での刷り込みであろうとなかろうと、
それをそうだと認識してきたことには違いがないのだ。
I am that I AM.
わたしは「・・・・」であるところの存在である。
「・・・・」のところに、今までは例えば、<動物>や<肉体>、あるいは<深刻>、<貧しさ>・・・等などを「代入」してきたのだと言えるかもしれない。
自分がそうだと信じ込んでいれば、まさにそれを造り出すということだ。
進化とは、自己認識・・すなわち「・・・」が次第に拡大してゆくことである。
自己を認識することは、即ちまた、
無限という名の宇宙というものを創造しつつ、変化しつつ、あらゆることを知ろうとする全体、あるいは究極の一、あるいは永遠不滅な意識、神なる創造意識と同質であることに気付けるだろうか。
そうだとすれば、
一体ぜんたい何が問題なのか?
何を恐れることがあるのか?
何を深刻に考えているのか?
今やるべきは、多分・・・まず、
こころの底から大笑いすることである。
そう、
笑っているものは・・・いわゆるところの神なのだ。
あるいはそれは、
人間に自己同化しているいわゆる創造主の笑いと感じないだろうか?
実のところは、宇宙、存在諸世界は驚天動地の<嬉しさ・楽しさ>のために・・・そこに在るのだ。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。