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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

人間すなわち神の自己同化

2012-05-20 10:17:42 | 覚醒意識

人間は今、最も根本的なところから考え直さなければならない時期に来ているようである。

 

気付けば、もうそんなに時間が残されていないような、そんな切迫感を感じないではいられない。

 

人類はずいぶんと惰眠をむさぼってきたのかもしれない。

 

そろそろ目覚める時期にあることだけはまず確かであろう。

 

あなたはどう感じるだろうか。

 

・・・ 

全ての社会的、経済的なことも含め、その大元にある、

 

「人間とは何か」というテーマに関して、

 

古い価値観からの大きな転換が必要な時期にきていると考えられる。

 

・・・

我々は気付かない間に、人間とは何か?という問いかけと、それに対するその時々の回答や考えにそった形で、社会を造っていることに気づいているだろうか。

 

意識的か無意識的かに関わらず、人類の総合された価値観念、集合意識によって今までの文明・文化が創られていることに気付けるだろうか。

 

今までの、「人間とは何か?」というテーマに対する人類の平均的な自己認識とはどういうものだったのかは、もうすでに理解可能であろう。

 

平均的な自己感、自己認識とは、・・簡単に言えば、

--人間とは社会的動物である。

--あるいは有機的な肉体存在である。

--あるいは思推する理知的動物である。

・・・というような自己認識ではなかろうか。違うだろうか。

 

いかにも教科書的でもあるし、常識的でもあるし、誰でも違和感がないかもしれない。

 

また、誰に話しても変な目で見られることはないに違いない。

 

実は、これはどこか旧態以前たる唯物史観的な観念から来ているのであるが、それになかなか気づけないかもしれない。

 

要は、人間とは物質レベルの存在でしかない・・という「思考」である。

・・・

それが当たり前、という潜在的観念であるとも言えるのだが、それが「観念」であるということに気付くことはもう出来るはずである。

 

科学的な解釈とは言いつつも、それは「解釈」であり、人間の観念、思考でしかないというパラドクスに気付けるだろう。

  

人間とは、自己を定義すること、即ち「自己認識する」ことが可能な存在そのものであり、それを可能にするのは、思考・認識の働きである。

 

認識は「思考」あるいは「そう想うこと」 によっているはずであるが、その想いの中に既に唯物的な観念が入っていたということである。

 

これが正しいのでこれを信じなさい・・という思考を素直に受け入れるのが教育であると思ってきたわけである。

 

「思考」は肉体と異なる形態のものであり、それが自由自在であることは理解可能であるが、いつの間にか、自分が肉体でしかない・・と感じるような思考・刷り込みが入っていたということである。

 

また思考、想念は「頭脳」の中で生じていると<考える>ことで、思考そのものも結局は物質的生産物でしかない・・という漠然とした理解を得ていたわけである。

 

デカルトやカントのように、思推する働き自体の特異性に気付いた存在もいたが、

 

歴史上進んできた人体の科学的な解釈によって?、

 

思考は脳内の神経細胞間のインパルスによって生じているとされているし、

 

そうであればこそ、

 

「思考」も肉体・頭脳によっているからには、やはり人間は肉体存在である・・

と考えてきたのかもしれない。

 

しかしながら、多分デカルトはそんなことは言っていないだろう。

 

・・・・

 

人間は肉体的存在でしかない・・?

 

本当にそうだろうか?

 

・・・ここが肝心なところである。

 

まず、肉体に関して普通に思推してみるとどうなるだろう。

 

---- 

最近の物理学的、あるいは量子力学的解釈では、「物質」は波動で出来ているとされている。

 

ミクロの一定レベルでは、電子などの粒子性と波動性の2面性が観測されるものの、粒子性すなわち個体的な塊も、波動の局所的な集中を言っているにすぎず、根本的には物質なるものは「波動」と考えられるわけである。

 

様々な種類の原子核も電磁波というものを放出して別の原子核に変移するわけであり、

 

これは、波動の重合、塊が、波動を放出して別の波動の重合形態に遷移するという解釈が出来るのである。

 

核汚染に関わる放射性物質も、原子核が電磁波を放散しながらエネルギーを放出し、別の原子核に遷移することを意味している。

 

これは、局所に集中した「波動」が部分的に放出されることで、別の局所的集中形態に遷移することを言っている。

・・・・

 

すなわち肉体を構成する物質なるものは、電磁波を代表とする波動の様々な重合、集合と解釈するのが自然なのである。

 

我々は原子核レベルの知覚生活は行っていないものの、そもそもの基本は波動の中で生きているということである。

 

見ることは光という波動の検知であり、聞くということは音波の検知であり、味覚、触覚は異なる物質・粒子の間の振動の検知ということだ。

 

人間の肉体の構成についての大元の解釈を言えば、それはつまるところ波動であるということである。

 

すなわち、我々の肉体はつまるところ、「波動」であると<解釈>できるのだ。

・・・

 

ここまで、若干科学的な物言いで、長々と述べてきたわけであるが、

 

自分が肉体であるとか、その肉体が物質であるとか、物質が粒子であるとか、元は波動であるとかは関係がない。

  

証拠があるとか数式で表せるとか、そういうことは実は関係がない。

 

・・・ 

 

そう、

 

ふと気づけば、

 

それが科学的であろうと、宗教的であろうと、何であろうと、

 

人間は自分が肉体そのものであると漠然と思いつつ、

 

実のところは、科学的観測、すなわち観察という行為によって、

 

人間の肉体の・・解釈をしている・・存在であるともいえるだろう。

 

つまり、人間は人間の肉体そのものを<対象>として認識しているということである。

 

つまり、

 

物質や肉体は、わたしの・・・「観察対象」であるということである。

 

人間がいわゆる唯物的な思考によって<自分は肉体である>と、漠然と信じ込んでいたわけであるが、

 

それはつまり、

 

自己  「観察対象」そのものに、自分自身を<自己同化>していたということなのだ。

 

人間は<自己認識>という働きそのものによって、その時々の自分を漠然と規定していることに気付けるだろう。

 

それが世間的常識や歴史上の観念推移での刷り込みであろうとなかろうと、

 

それをそうだと認識してきたことには違いがないのだ。

 

   I am that I AM.

 

   わたしは「・・・・」であるところの存在である。

 

「・・・・」のところに、今までは例えば、<動物>や<肉体>、あるいは<深刻>、<貧しさ>・・・等などを「代入」してきたのだと言えるかもしれない。

 

自分がそうだと信じ込んでいれば、まさにそれを造り出すということだ。

 

進化とは、自己認識・・すなわち「・・・」が次第に拡大してゆくことである。

 

自己を認識することは、即ちまた、

 

無限という名の宇宙というものを創造しつつ、変化しつつ、あらゆることを知ろうとする全体、あるいは究極の一、あるいは永遠不滅な意識、神なる創造意識と同質であることに気付けるだろうか。

 

そうだとすれば、

 

一体ぜんたい何が問題なのか?

 

何を恐れることがあるのか?

 

何を深刻に考えているのか?

 

今やるべきは、多分・・・まず、

 

こころの底から大笑いすることである。

 

そう、

 

笑っているものは・・・いわゆるところの神なのだ。

 

あるいはそれは、

 

人間に自己同化しているいわゆる創造主の笑いと感じないだろうか?

 

実のところは、宇宙、存在諸世界は驚天動地の<嬉しさ・楽しさ>のために・・・そこに在るのだ。

 

 

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セイラー・ボブの教え(3) 認識はエゴを超える

2012-03-10 11:04:35 | 覚醒意識

ONLY that(ただそれだけ:カリヤニ・ローリー著 ナチュラルスピリット刊) p139~

ーーーーーーーーーーーー

 

質問者: 自分は何かを得るだろう、と私は心のどこかで思っているようです。何かを得たいと思っているのは<誰>なのでしょうか?

 

ボブ: あらゆることは、例の自己中心すなわちエゴに関係しています。そこからよいとか悪いとか、快適と不快が判断されます。

あなたは以前あることを経験しました。それで、その記憶を思い出して、あれはあまり良いことではなかったから、今度も同じことになるだろうとか言います。

 

物事をその瞬間において新鮮に見るかわりに、自分自身について抱いているイメージと照らし合わせるのです。

 

それは常にそのイメージと関係しています。つまり、関係性が私たちの問題なのです。

 

すべての問題は、人間関係の問題と言ってもいいでしょう。たとえば恋愛関係にある人がいつも、争いなどの問題を抱えているのは当然のことです。本当はどんな関係もないのですーーーーただ自然にくっつき、自然に生活を共にし、あるいは自然に別れるーーーそれが自然な成り行きです。

 

私たちがそれを問題にするのは、自分が願うイメージと比較するからです。

 

それが離れはじめる時、私たちはどうするでしょうか?私たちはそれが離れていってほしくないと願っていない物事が生じたとき、何が起きるでしょうか?

 

私たちはそれに離れていってほしくないと思い、それが離れることに抵抗し、それにしがみつこうとします。

 

あるいは何か自分が願っていない物事が生じたとき、何が起きるでしょうか?

 

私たちはそれを排除したいと思います。それで私たちは何をするでしょうか?再び私たちはそれに抵抗します。抵抗は葛藤であり、葛藤は病気です。

 

私たちが不幸で、心理的苦しみに束縛されているのも当然です。

 

そもそもなぜ私たちは不幸な思考を抱いているのでしょうか?

 

そもそもなぜ私たちは怒りの思考や恐れの思考を抱いているのでしょうか?

 

つまり、それはすべて例の自己中心ないしエゴとの関係の問題なのです。

 

その抵抗に目を向け、その抵抗を認識してください。

 

---それがあなたにできるすべてです。

 

その認識の中で、自分がそれをどこから認識しているか見てください。

 

あなたはそれを対極的な場から認識しているはずです。もし完全に抵抗しているなら、あなたはそれに気づきません。

 

完全に怒っているとき、あなたは怒りに気づきません。

 

なぜなら、あなたは完全にその中に埋没しているからです。

 

しかし抵抗の認識は、非抵抗の観点からのものです。

 

その瞬間、あなたはそこから出ています。

 

そして習慣からそのパターンがまた生じてきたとしても、再びそれを認識してください。

 

あなたがそれを味わい始めると、もはや、向こうに何かが進行していて、それに責任がある一人の私がいるという間違った信念にとわられ続けることはなくなります。

 

その信念が見抜かれるとき、あなたは二度と再びそれを信じることができません。たとえ習慣が湧き起こり、その信念にまた少しの間とらわれるとしても、その認識が繰り返しあれば、その信念はやがてすっかり消え去ることでしょう。

 

私たちはこの思考やあの思考に働きかける必要はないのです。

 

なぜなら、まさに思考に働きかけることそのものが、何らかの実体が自分を完璧にしようとする試みなのですから。

 

それは不可能なことです。

 

なぜなら、

 

あなたの本質はすでに完璧そのもので、

 

二番目のない一なるもの、純粋な知性エネルギーだからです。

 

 

・・・・・・以上、抜粋。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

我々の問題という問題、悩みという悩みは、ほとんど全てが人間関係からきているはずだ。

 

理想的な人間関係を求めてはいても、ほとんどのその時の相手・・なる者が期待通りでなく、あまつさえ、自分に不快や苦痛を与えてしまう場合があると感じているかもしれない。

 

どうしてこうなんだろう?

 

なぜなんだろう?

 

妻は、夫は、子供は、親は、上司は、近所の人は、会社は、学校は・・・

 

どうしてこうなんだろう?

 

・・・と、どこか心の底のほうで思っているのではないだろうか。

 

自分にひきかえ、世界は薄汚く、無知の人々ばかりで、経済は苦しく、厳しく、

 

何をするにもストレスに満ちている・・・

 

・・と、こころある人はきっとどこかで悩んでいるに違いない。

 

表面は社会性を保つために何事も無いように装っていながらも、

 

この世界の歪みを多くの人が感じているに違いない。

 

そうして、その為に・・・

 

あなたは幸せを感じることが出来ないと、思っているのではないだろうか。

 

しかし、それは

 

他者が、外の世界が、自分にとって都合良くないからこその悩みではないのか?

  

社会が自分にとって優しくないからこその悩みではないのか?

 

そう・・・、その想いは決して正当ではなく、それは依存と期待と、それと裏腹にある失望というものからきているだけのことである。

 

どうしてそうも他者に期待をかけるのか?

 

どうしてそうも他者に依存したいと思うのか?・・・

 

それは、

 

自らが不安で孤独であるという恐怖心からではないのか?

 

一体誰が、人間は肉体人間、バラバラの個人であり、エゴは当然で、それゆえ軋轢や争いが普通のことであると吹聴しているのだろうか。

 

また、どうして大勢のあなたは、それが正しいと信じ込んでいるのだろうか?

 

そういう「思考」を、あなたは自らで吟味したことがあるのだろうか?

 

多くの人々は、他者依存の観念の揺りかごで眠りながら、不快感と苦痛を嘆いているのではないか。

 

もういい加減に目を覚まさなければならないはずだ。

 

外の世界は、あなたの回りの世界は、こころが現われた結果であり、

 

その結果に対して、不平や不満で嘆くことのまっことの愚かさに気づけるはずである。

 

あなたは<あなた>でしかない。

 

いつの間にか押し着せられた、重い思考や観念を自らで脱ぎ捨てる時である。

 

比較や競争や支配や依存という、完全に間違った人間関係の罠から抜け出さなければならないのだ。

 

この世界での生存・体験時間の間、生れてから死ぬまで、

 

常に、わたしはわたしであり、

 

常に、あなたはあなたである。

 

 

その為には、

 

自らの思考、感情という押し着せられたこころの条件反射を、自分自身で認識する必要があるのだ。

 

そうして、自分のこころの反応を、観る位置に自らが上がることである。

 

それが<そう>であった・・という自己認識によってこそ、虚偽観念の檻が消え去るのだ。

 

外に現われたものは、あなたの内面にある・・気づかぬ心の歪みの<映し絵>にすぎないことがわかるはずである。

 

この時空世界に、このような自らのこころを見える人々が増えるに従い、

 

歪みによって右往左往するような、激しく移り変わる混乱に満ちた意味不明の世界の有様が、

 

本来自然の、あるがままを映し出すことになる。

 

 

 

「観自在」  とは、

 

自らの有様を、自らのこころの反応を、自らの観念を、

 

<自ら>で観ることができる<次元>に上昇することを意味するのだ。

 

すべての人間関係を作りあげる思考や感情を、自らで認識し、それらの諸反応の中に、

 

この世界での、魂の磨かれる仕組みを汲み取ることが出来るならば、

 

それは即ち、

 

「観自在菩薩」 である <あなた>に気づくことである。

 

そうして、

 

あなたは、本来何者でもない、そして何者でもあることが出来る、無限の意識である<あなた>に気づけるはずである。

 

、・在る・・ことによって・・・その全てがわかるだろうか。

 

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セイラー・ボブの教え(2)エゴは作り話

2012-02-26 10:07:51 | 覚醒意識

(以下は、「ただそれだけ」 カリヤニ・ローリー著(高木悠鼓訳)からの抜粋である。これ以上にないようなシンプルな言葉で、わたしとは何かを説明していることに驚くべき英知を感じないではいられない。)

 

私たちの問題は、二歳か二歳半頃に身につけた一個の分離した実体、すなわち「自分」という考えから起こります。

あなたは、「自分」とか「私」という言葉に対して何かできるでしょうか?

それについてできることはあまりありません。

 

そこで、私たちは、出来事、経験、条件付け・・・・自分に起こった物事・・・・を加えるのです。

そこに信念のエネルギーが入り込み、それは見かけ上、具体的なものになり、それが現実に存在しているように思えてきます。

それがとかエゴとか呼ばれているものです。

それは、自分自身はこうだと信じるための参照点となります。

 

何かを見て、私はそれを好きになります。それを好きになるとは知るはずもありませんでした。

まあ、それが以前に起こったことであれば、私はその過去のイメージと結びつけて、「これはいいな」というのでしょう。

やがて、その「良いこと」が過ぎ去ろうとします。

でも、私はそうなってほしくありません。

そのとき、何が起こるでしょうか?

私がそれらを本当に好きなとき、わたしは何をするでしょうか?

わたしはそれらが去るのに抵抗しようとします。抵抗とは何でしょうか?

抵抗は葛藤であり、病気です。(dis-ease:安らかではない)

もし葛藤の中にいれば、あなたは不安です・・・・こころ安らかではありません。

それが病気です。

 

もし何かが起こって、私がそれを好きでなければ、私は再びこの記憶の自分を参照します。

それを好きでないとき、私は何をするでしょうか?

私はそれを押しやり、取り除こうとします。またもや、抵抗、葛藤、病気です。

 

自然界においては、正反対のものからなるペアが常に作用していて、そうした作用なしでは、どんな二元性もありません。

これらの正反対のものは互いに対立するものではありません。

相反する立場はなにもないのです。

もし今が春なら、まもなく夏がやってきます。

春は「夏であったらなあ」とは言いません。

それは自然に、何の対立もなく動いていきます。

満潮は引き潮と戦いません。嵐がやって来て、色々なものを吹き飛ばします。

しばらくすると嵐は静まり、自然は徐々に自らを更新していきます。

正反対のペアはたえずそこにありますが、何の対立もありません。

 

私たちに関しては、正反対のペアは常に対立します。

なぜなら、私たちは物事を、こうあるべきだと自分が考えたり、信じたりしている心のイメージにたえず関連づけたり、照らし合わせたりしているからです。

・・・・つまり、私たちは物事をあるがままにしておかずに、物事が、こうあるべきだと自分が考えるやり方に従うことを望むのです。

ですから、私たちが抱える問題はすべて、実際は関係性の問題、すなわち何と関係するかという問題なのです。

・・・・それは、過去の出来事や経験にもとずく架空のイメージだということを理解するとき、人はみずから落ち込んでいる罠に気づくのです。

 

このことは、偉大な宗教的伝統の中でも言われています。

問題は、利己心、自己中心性、自己意思です。

あなたはこのエゴを昇華し、破壊しなければいけないと教えられます。

あなたはそれについてあらゆる種類のことを行ない、そうしたの中で、なにが起こるでしょうか。

あなたはそれに対して何をしているのでしょうか。?

それは、エゴがエゴに対して戦っているのです。

 

それを注意深く見れば、エゴとは作り話だとわかるでしょう。

それは決して存在したことはありませんでした。

それは決して存在することができないでしょう。

 ・・・

そのことは、今ここで、実にシンプルに指摘することができます。

誰もが今ここで見ています。あなたはまったく努力なく見ています。見ることが進行しています。

また誰もが聞いています。見ることが起こっていて、聞くことが起こっています。

自分自身に尋ねてください。

「私の目が私に見るように言っているのだろうか?」と。

 

さて、わたしの目は、「ボブ、ほらこれをを見ろ、あれを見ろ」とは言っていません。

目を通じて起こっているのですが、それが思考によって「私は見る」「私はあれを見る」と翻訳されているのです。

聞くことが耳を通じて起こっています。

耳は、私に、「私が聞く」とは言いません。

再びそれは思考によって、「私が聞く」と翻訳されるのです。

ですから、、目は「私は見る」とは言わず、耳は「私は聞く」とは言わないのに、思考が湧き起ってそれを翻訳します。

  

では次のことを自分に尋ねてください。---

「私は見る」という思考は、実際に見ることができるのか?

注意して観察してください。

そうすれば、思考が見ているのではないことをあなたは理解することでしょう。

「私は聞く」という思考が、実際聞くことが出来るでしょうか?

思考が行うのはだた翻訳することだけです。

このエゴとは考えられたもので、見たり、聞いたり、気づいたりするパワーを持っていないのです。

 

・・・

このように、虚構のエゴとは、私たちが長年束縛されてきた一つの思考なのです。

 

エゴとは、選択ができ、自分の意志を持っており、たまには悪運に見舞われることもある一つの実体である、という信念は、ただの思考にすぎません。

 

それが作り話であると気づくとき、いったい何が起きるでしょうか?

自然に生きることが、今までとにかくやってきたように続いていくのではありませんか?

それがあなたを呼吸させています。

それが、あなたの心臓を鼓動させています。

それが、あなたの髪の毛や爪を成長させ、

食べ物を消化し、細胞を新陳代謝させ、考えること、感じること、感情、あらゆることが、まったく努力なく起こることを可能にしています。

 

もし、こうした身体機構が「自分」とは関係のないものだとすれば、そのときなにが問題ですか?

もしそれはもっと違ったふうであるべきだ、と考える一個の実体と関連づけられないかぎり、良い悪いは問題ですか?

そのことは、問題がもう起こらないという意味ではありません。もちろん問題は起こるでしょう。

なぜなら。自然の中では、正反対のペアがたえず機能しているからです。

でも問題が現われてきても、それらはそのあるがままに見られるのです。

 

物事を固定的に捉えない意識があれば、問題は動いていきます。

私たちがしがみついたり、執着したりするとき、問題はそこに留まり続けます。

抵抗が続いているため、それは自由に動けないのです。

 

私たちの抱える問題のすべては、一個の分離した実体が存在するという信念から生れる、というのはそういうわけです。

それが決して実在するものではなかったことに気づけば、物事はただそういうふうに起こってきたのだと理解できるでしょう。

 

ーーーー以上「前記文献P127ー131」

 

エゴまたは自我といわれる、それぞれが独自でバラバラであると感じている自己アイデンティティとは、まさに思考と記憶によって出来あがっている。

 

肉体にある眼、耳、感触などの知覚の窓が、個人個人別個であると観ている・・その思考や観念と、 そのような観念フィールドで行われるあらたな体験と想いによって、さらに、自らを個別の存在であるとダメを押しながら社会で成長してきたと言うことである。

 

外に、あるように見える世界に、無理やり自らを同化させてきたということでもある。

 

確かに、・・・つらくないはずがないではないか。

  

我々が、世界で最も大切にしているところのものは「自分」というものだろうか。

 

何を差し置いても、利他や奉仕を考えるにしても、「自分」というものをまず第一に考えているはずだ。

 

個人とは、自由と民主主義でも保証されている・・とか、確かにそうであろう。

 

しかしながら、そういう個我を推奨することの先にあるのは、

 

これこそ絶対に正しい、当り前だ、当然だと思い、そして固執し、個人我という<砦>を築き上げることである。

 

その個人個人の砦が重合、離散しつつ様々な社会、世界模様を変化させるが、個人という砦であるがために決して調和することはないはずだ。

 

それが進化だ、人生だと言わんばかりの極めつけの自己主張までのぼせ上がり、極端にはガチンコ主張同士がスパークして破裂すると言われてもいる。

 

世に言われるアルマゲドンなどという歪みきった伝統的思考は、個々人のエゴ同士で作りあげた一大虚構文明の崩壊を意味しているのが良くわかるだろう。

 

冷たいエゴ同士が権利と自由を保障され、競争のなかで何か素晴らしいものが生れるという 歪みきった<思考>のなれの果てである。

 

歪みきった思考に自分を合わせて、その為にこそ怖れ、おののき、右往左往することの自作自演の愚かさに、もう自分自身で気付かなければならないのではないか。

 

それが言わば西洋的近代文明の正体であり、その一見合理的と見える科学思考から得られる、あるいは製造技術的な成果による、唯物史観的な物質の多様性の毒酒に、あなたも私達も悪酔いしていたかのようである。

 

しかしながら、

 

・・・・その長かったエゴの集合せる虚構の宴(うたげ)は、今もう終わりを迎えている。

 

その虚構の宴に参加していたのは、思考でできた「架空」のエゴ体であったのだが、それゆえにこそ、エゴという鬱屈とした思考で醸造された毒酒をも味わうことが出来たとも言えるだろうか。

 

嗚呼、なんという魂の学習場であることだろうか!

 

しかしながら時は過ぎ、魂たちを包む夜明けの光が差し込み始めた、今。

 

我々は、もう長い長い転生の夢から目覚めなければならない時期にある。

 

あなたは、もう気づいていることだろう。

 

 

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セイラー・ボブの教え(1) あなたは誰か?

2012-02-16 09:31:19 | 覚醒意識

セイラー・ボブ・アダムソン(1928~)はオーストラリアに在住の霊的教師と言われている。

 

若い頃は生活の為に水兵になり、こころを痛めて除隊し、羊毛刈りや船仕事で生計を立てるうちに、海の荒くれ仲間に合わせてアル中になってしまった。

 

周りの人々の気遣いや自助努力を通じてアル中から脱すると同時に、霊的な求道心が頭をもたげ、インドでの瞑想や修行をしたという。

 

そして、師であるニサルガダッタ・マハラジに会って、この世界での波乱に満ちた放蕩の旅は終わりをつげ、自らの存在の中心に帰還した。

 

それ以来は、今まで30年の間、意識としてのシンプルで当り前の教え「ただ、それだけ」を語り続けている。

 

・・・・・

以下は、「ただそれだけ」 カリヤニ・ローリー著(高木悠鼓訳)からの抜粋である。

 

・・・・

(ONLY THAT p100)

 

誰がその質問をしているのか?

 

質問者: この質問を取り上げていただけるかどうか、不安なのですが。

 

ボブ: どのような質問ですか?

 

質問者: 「わたしとは誰か?」 です。

 

ボブ: ほう。 あなたはこれまでに自分が誰か、発見したことがありますか?

 

質問者: ありません。

 

ボブ: 「わたしとは誰か?」 を尋ねる代わりに、「わたしとは誰か」?という質問をしているのは誰か・・、

 

「わたしとは誰か?」を尋ねているこの質問者は誰なのか、と自分自身に尋ねてください。

 

質問者: うーん・・。

 

ボブ: あなたはそこから何を理解しますか?

 

質問者:それは心、思考、ということですかね。

 

ボブ: なるほど。心ないし思考が質問者というわけですね。では、心ないし思考が・・、その質問を尋ねている者は誰か、・・と尋ねているわけですか?

 

心ないし思考が質問者である、と。それでいいですか?

 

ボブ: さて、質問は何でしたっけ?

 

質問者: 「私とは誰か?」です。

 

ボブ: それは何ですか?

 

質問者: 一つの思考です。・・・

 

ボブ: ええ、それは観念、思考ですね。ということは、質問者と質問は、 ともにひとつの思考ないし観念で、質問者=質問そのもの、ということになります。

 

それらの間に、何の違いもありません。ですから、もし質問者がいなくなれば、質問もあり得ないのです。

 

質問者や質問が存在しなければ、そのときあなたはどうなりますか。

 

・・・ 

 

ボブ: 質問も質問者も存在しないとき、あなたはどうなりますか?

 

質問者: なにもない、・・でしょうね。

 

ボブ: あなたは思考の持ち主、観念の担い手です。

 質問者と質問を削除したとき、そこにあるのは、あるがままの裸の意識です。

 

・・・あなたは 「私とは誰か?」 を発見したのです。

 

何年も何年もその質問を心の中で問い続けて行き詰まる代わりに、

 

質問者が質問そのものだということを理解してください。

 

人々はこころ以前の存在状態について語り、そこに到達しようとしてあらゆる種類の奇妙なことをやります。

 

質問者は、質問それ自身に他ならないのです。

 

それらは互いに相殺し合います。 

 

つまり、質問がなければ、質問者は存在しません。 

 

その瞬間、あなたは心以前に存在しており、思考を超えているのです。

 

思考を超えていれば、あなたは思考以前にいるはずです。

 

それはそのくらいシンプルです。

 

質問者: わかりやすい表現です。私たちは思考や質問の担い手であるとおっしゃいましたが、

こうした思考や観念や質問が消えれば、その担い手も存在せず、そのとき、私たちはただ存在しているのですね。

 

ただの存在意識のみがあり、

それは起こっているすべての物事、すべての現象に先立つものです。とはいえ、その現象もまた「それ」なのですね。

・・・

ボブ: あらゆる現象は、詳しく見ていくことによって、あなたを故郷へと導いてくれるでしょう。

 

・・・・・以上p100-104 抜粋

 

様々な物や現象を、物や現象としてーー認識ーーするのは「思考」「観念」であるということだ。

 

認識という働きを「思考」といい、・・思考の記憶された集合を「観念」というならば、

 

「思考」や「観念」は、物や現象を観察し、それをそれと<認識する働き>の部分であり、物や現象自体ではないことがわかるだろう。

 

<物>が<物>を・・認識しているという考えが「唯物的」観念である。

 

正当さも論理性もどこにもない、ただの見てくれのみの平面的観念である。

 

それは認識をする当の自らの意識を、対象<物>に自己同化しているのだ。

  

認識・・・それ自体は肉眼視できない<働き>であり、物ではない。

 

また、認識の働きがなければ、物や現象は起きることは無い。

 

その逆ではないのだ。

 

あらゆるすべて、宇宙全体の<自己認識>の働きを称して、神、創造主ともいう。

 

またその認識を生じる元を  「素の意識」・・「普遍意識」ともいう。

 

それはまさに 「空(くう」 としか言いようがない。

 

それをすでに意識的存在である人間は誰でも気づくことが出来る。

 

存在諸世界に生起し続けるあらゆる事物や現象や、それをそれとして観察・認識するための「思考」や「観念」をも超えたところに、

 

いつも、今までもいたのが・・・わたし・・である。

 

今在る・・・。

 

ありとあらゆる全てを生じるところの、謂わば 「空(くう)」は、確かに見逃しやすい自己自身の・ふるさと・ともいえるだろう。

 

なにか問題があるのだろうか?

 

いいや、何もありはしない。

 

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愛すべき故郷

2012-01-01 10:41:31 | 覚醒意識

人は皆、無限の意識の1つの表現形態である。

 

あなたもわたしも皆そうである。

 

あらゆる全ての存在は、その自覚の程度を楽しみながらも、

 

いわゆる進化の道を歩くことを楽しみながらも、

 

大いなる「ひとつ」から生じ、それぞれが大いなる「多」を実現している魂意識なのである。

 

大勢の人間達、大勢の動物たち、大勢の植物たち、大勢の鉱物たち、

 

無限の空(くう)に存在している惑星たち、恒星たち、銀河たち、銀河団たち・・・

 

それはすべて奇跡ともいえる「ひとつ」から出て来ているのだ。

 

様々な物質顕現を通じ、

 

様々な種類を通じ、

 

様々な形態を通じ、

 

様々な生命を通じ、

 

様々な個別意識を通じ、

 

様々な集合意識を通じ、

 

無限の方向、無限の角度、無限の層を通じて、

 

その自らの奇跡の喜びを表現しているのだ。

 

・・・

 

ある高名な哲学者は 「なぜ、無ではなく、有なのか?」 と思ったそうだ。

 

何もなければ、苦も楽も・・・何も無かったはずだし・・

 

何もなければ、無知も愚かさも・・・何も体験しないでよかったはずだし、

 

何もなければ、善も悪も、そこから生じる辛い感情もなかったはずだが、

  

・・・なぜ、全てが有るのか、我々がなぜ在るのか?

 

・・・なぜ今ここに人々はいるのか?

 

そう、

 

高名な哲学者でなくとも、あなたもわたし達もいつか考え、感じたことがあるだろう。

 

・・・・

 

なぜ、私は有るのか、大勢のあなたは有るのか?

 

それは、

 

なぜなら、

 

たった<ひとつ>として生じて在るもの、

 

<わたし>という自己認識を生じるもの、

 

自らに自らで気づいているもの、

 

根源とも神とも、全てのすべてといわれるもの、あるいは究極の一なるものは、

  

自らの<愛>に気づいているからだ

 

それはあたかも、

 

無限たる自らの姿をどうしても見たいという想いであり、

 

その美しさ、姿、形、を様々に表現したいという想いであり、

 

その根底にあるのは、自らを<愛>しているという、

 

自らが<愛>であるという真実なのだ。

 

それはまた、あたかも人の仕草と同じでようであるともいえるだろうか。

 

嫌いな自分は、鏡に映さないはずではないか。

 

自分が惨めだと思えば、姿かたちなど見たいとも思わないだろう。

 

・・・・

 

しかしながら、

 

それを単なる自己愛と言うなかれ。

 

一なるものが自らを愛するということは、

 

全てが全てを愛するということである。

 

その愛によってこそ、 

 

今我々は・・、自らの意識を有する大勢のわたし達は、

 

ここに、あそこに、どこにも存在しているではないか。

 

あらゆる物質顕現、非物質顕現、

 

たとえ、その全てが「変化」をその旨とするバーチャルな姿であろうとも、

 

マクロの無限大、ミクロの無限小であろうとも、

 

世界として、それは知覚され、認識され、体験され続けている。

 

人間とは、それを感じ、悟り、見極めることが出来る存在のことである。

 

あなたもわたし達もその仲間たちであるということだ。

 

この次元のあらゆるものを観て聴いて感じる存在、

 

更に高次の次元の波動である様々な「想い」を抱くことが出来る存在、

 

その知覚も自覚も、そして意識の広がる過程も、

 

様々なプロセスや成長を体験することが出来る存在、

 

それが人間である。

 

それがわたしであり、

 

そしてあなたである。

 

我々は、今ここに身を置いていることを体験していたとしても、

 

たとえこの世界が正と邪の観念に犯されていたとしても、

 

たとえこの世界が無知と不浄に染まっていたとしても、

 

それこそは一時のほんのあだ花であることを知っているのだ。

 

それすらも許されることこそは、

 

愛とは全てを許し、全てを愛(め)で、全てを慈しんでいるということであり、

 

それに気づくことこそ、<愛>の賜物なのである。

 

全てを愛でる・・意識、

 

これでもかというほどの多くの人間たちの<意識>による想いや行為を、

 

たとえ小さくとも、時には忘却に眠っていようとも、

 

いつか、そして<今>こそ・・それに気づき、

 

それを嬉しさと、信念と、勇気と、我慢強さを合わせながら、

 

顕してゆくこと、

 

それが人間の役目である。

 

それが出来るフィールドこそが世界であり、地球生命圏であり、宇宙である。

 

そしてこの世界を含む大いなる宇宙とは、大いなる我々の故郷なのである。

 

全てのものは、どこにいても何をしていても、

 

常に<愛>を感じているはずである。

 

存在していること自体が、その証拠ではないのか。

 

たとえ身近にあるちっちゃなことでも、無限に大きいものであっても、

 

全てが愛であることには変わりがない。

 

あなたやわたし達の行うべきことは、

 

こころを静謐に置くように心がけ、

 

様々な雑多な想念を超え、

 

今の意識の及ぶ範囲から、ほんとうに・・みじかな所からでも、

 

実は偏在しているところの<愛>を、

 

自らで発見してゆくことではないだろうか。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

2012年  元旦