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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

真我は内に在り

2011-10-30 16:06:39 | 覚醒意識

俗に言う生まれ変わりというものに既に気付いている人も多いだろう。

 

あなたという、あるいは私という存在形態は、何もこの世界、この時代のものだけではないということである。

 

一般には他生に渡る様々な体験や想いは、DNAや潜在意識、あるいは魂意識等と言われる部分に記憶されているようである。

 

DNAは身体の設計図でもあり、その設計図は、祖先という幾多の身体の使用者の想いや体験が昇華されて記憶され、仕上げられてきたものと考えることもできる。

また、いわゆる「魂」がこの次元世界の「身体」への意識の投影・転写・あるいは「誕生」のおりには他生、あるいは多次元レベルでの記憶も加わることになっているようである。

 

多分それは、今はジャンクDNAと言われる意味不明の領域にあるはずである。

 

ここに書かれた言語?は現状での3次元的な観念フィールド、あるいは思考ツールではなかなか解読・構築等ができないかもしれないが、そのうち可能となるはずである。

 

それは、我々の生命観が、より大きな生命観に移行した段階で、自然に解けるような仕組みでもあるだろう。

 

またその解読・構築は、化学的な手法によらず、直接我々の意識レベルからのアクセスによって行うことができるのではないだろうか。

 

  

一般にも言われて久しい「潜在意識」とは、「普段の意識」の集合した大きな意識といえるだろう。ある面では過去の「記憶」の集合とも感じるかもしれない。

 

ちょうど車の車輪が「地面」と1点で接していながら、1点にから1点に連続して動いて進むように、

 

常に1点でありながら、まさにそれによって円を描いているように、我々の「今の意識」も実はより大きな、膨大なる、あるいは壮大なる「意識」の部分であるということだ。

 

それに気づきだした人々も増えているが、ただ多くの人々は、車輪、あるいは大円、または更に大きな円環とでも言うべき、より大きな<わたし>になかなか気づけないようでもある。

 

それは何故なのかと言えば、

 

いわゆる意識が外の世界にくぎ付けになっている・・、あるいはこの世界の現われの方に、即ち現象のほうにその1点たる意識をフォーカスさせているからだ。

 

つまり現象世界のみを追いかけているということである。

 

映画を観ていること自体に夢中になってそれに自己同化し、それを観ている当の本体を忘れてしまっているということである。

 

この世界は、大いなる自己アイデンティティを忘れる、その忘れ方が激しいような仕組みの世界であり、ある意味では、それを称して「次元降下」というらしい。 

 

・・・・・・

 

みじかなところで考えてみると、

 

1つの人生においても、生れて以来の知覚、思考、感情という創造物は潜在意識にしっかり記憶されていることは、誰にも理解できるだろう。

 

普段は忘れている幼い時代の記憶が、何かのきっかけで、あるいは眠っている時などには、強烈なイメージや感情として出て来ては驚くこともあるはずだ。

 

幼い時のあなたは、まさに子供であり、今のような人格も記憶ももってはいなかったが、しかし、それも<あなた>に違いない・・・という感覚があるだろう。

 

例えば、小学校のころのあなたは、今のように成人し、今のような体格、今のような性格、今のような感情の癖など持ち合わせていなかったはずだが、しかしその時の自分も今の自分も<あなた>であると間違いなく感じるはずである。

 

年かっこうも趣味趣向も、年齢も違うのにも関わらず、あなたは<あなた>だという感覚が続いているはずだ。

 

このように、普段は気付いていないだけで、今の意識を含む更に大きな意識・記憶があるというのは当たり前のことなのだ。

 

またそのどれもが自分であるというアイデンティティ感覚・<わたし>という感覚だけは間違いなく実感していることだろう。

 

このように、意識の主体としての<わたし>の現われ自体は変化し続ける・・ということだけはいえる・・<わたし>とは、そんな存在だと考えることもできるはずである。

 

其の意味を称して 「I am that ・・I am 」 と言う。

 

わたしは<私であると>想うところの存在である・・ということだ。

 

わたしとは、肉体である・・・とは言えないのだが、またそう想うこともできる。

 

そう想いこめば、またそのような存在フィールドを体験することになる。

 

多分今までは、世界の多くの人々がそのような観念でもって人生を送っていた時代であったとも言えるだろう。

 

生れて死ぬまでが<わたし>であると思いこんで、あるいは思い込まされてきたともいえるかもしれない。

 

良くいわれる3次元世界はそういう体験世界のことであったのだろう。

 

しかしながら、外の世界ではなく、心機一転して自分の意識を掘り下げてゆく過程においては、そのような一般的な3次元的な観念の枠をはるかに超えた<わたし>に関する記憶やイメージ、既知感などに出くわすことになるだろう。

 

それらを単なる「無意識レベルでの想像」と考える方が心理学的合理性に合っていると思える場合もあるものの、

 

どう考えてみたとしても、今までのこの人生での記憶以外のタイプの記憶のようなものも確かにある・・ということを受け入れる方が、合理的あるいは妥当である場合も多いのである。

 

つまり、自分の中には、この人生での記憶だけでなく、さらには幾多の転生での記憶もあるということの事実を受け入れた方が自然だということにもなってくる。

 

何事も古い枠でこじつけて説明することが、実は逆に科学的合理性に合っていないことに気付かなければならないのだ。 

 

現在では、退行催眠やリーディングという手法があり、そこに出てくるものはいわゆる自己の内面深くにあるより大きな生命としての<わたし>の情報ということが言えるだろう。

 

確かに、その手法の施行者や本人の意識のフィルタによって微妙にその情報も変調されることもあるために、はっきりとわからないケースもあるものの、明らかに今の世界以外の話としか考えられないような体験・感情を再現することがわかっている。

 

また私などのように、夢や半覚醒の微妙な意識の狭間での断片的情報取得とその体系化によっても可能だし、

 

あるいは人生の中での事変にからむ臨死体験なども、より大きな<わたし>への強烈な気づきを得ることになる。

 

あるいは古来からの手法のように徹底的な内観によって自己を掘り下げることもできる。

 

・・・・

 

要は、私たちという意識的存在は、一過性の単なる有機動物などではないということ。

 

そして意識的存在は、この世界という時空を超えた存在であるということである。

 

またその遥か先は、とてつもない存在である<一なる全体>に繋がっていることもわかるのだ。

 

それも<わたし>なのである。

 

・・・

  

何かにつけ忙しく動き回ることがどこか美徳とされる時代では、動き回ることによる生成物のみを後生大事に扱ってきた。

 

その最たるものが物質的富の蓄積なのだろうか。

 

目先の物にこころを奪われ、必要以上に集積・蓄積しなければ生きてゆけないなどという強迫観念がいつの間にか支配的になったようである。

 

我々は、世界の様々な出来事の解釈、多くの人々の様々な種類の固定観念のほうに、注意を集中させ過ぎていたのだ。

 

それを観ている、体験している、そして今・生きてある<わたし>の方に、その意識の焦点を合わせなかったのではないだろうか。

 

ある意味では、

 

物質主体、物質的富を追い求める今までの時代こそ、それぞれの<わたし>達にとって、実に「暗い」時代だったのである。

 

あなたとは何か。

 

わたしとは何か。

 

この世界で行うべきはずの究極のテーマは自己の探求であったのだ。

 

また、この問いかけをするには、自らの内面と言われる方にその意識を向けなければならないし、またそうすることによって、鏡としての外の世界の在り方もよく見えてくるのだ。

 

まず、内面から生じる様々な想いそして感情を、それそのものになり切ることなく、あるいは自己投入することなく、観察するポジションを確立しなければならない。

 

自己の自己たる所以は、その刹那的な肉体だけにあるわけでもない。

 

それを通じて、様々に湧き出でるところの想いや感情・・「想念」、すなわちこころ、あるいはマインドを観察する、あるいは観照することが極めて大切だということだ。

  

まず心を静めるには、それになり切らず、それをそれとして知覚すること、即ち観ていることが大切である。

 

それは自己とは、肉体でもなくまたこころでもないことに気づくためだ。

 

どこか遠くに行かずとも、今の普段の当り前の生活のなかで、自らの内面を注視することである。

 

そうすれば、乱れたこころの水面は次第に静かになり、磨かれた鏡のように澄み渡り、本来の<わたし>すなわち<真我>が観えて来るだろう。

 

今は時間空間を遠く離れたと感じている・・<あなた>を観ている元の本体、あるいは真なる、あるいは大いなる<あなた>に気づいてゆくことになる。

 

時間や空間等は有って無きものである。

 

実に、人生という日々の与えられた生活こそは、大いなるあなたへ帰還するための、極めて貴重な探求の場なのだ。

 

大いなるあなたは、間違いなく<あなた>の中に在るのだ。

 

あなたも私たちも、

  

それを再び探し出す旅を今ここで行っているのだ。

 

それこそがこの3次元世界という体験ワールドの醍醐味である。

 

 

 

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あなたは何か?

2011-09-20 07:28:40 | 覚醒意識

探求者とは自分自身を探している人だ

 

 「私は誰か?」以外のすべての質問を放棄しなさい

 

結局、あなたが確信できる唯一の事実とは

 

あなたは在るということだけだ

 

「私は在る」は確かだ

 

「私はこれだ」は確かではない

 

真実のあなたとは何なのか

 

それを見いだすために努めなさい

 

 

あなたが何なのかを知るために 

 

あなたが何ではないかを知りなさい

 

あなたでないものをすべて発見しなさい

 

身体、感情、思考、時間、空間、あれやこれ・・・

 

具象であれ、抽象であれ

 

あなたに知覚できるものはあなたではない

 

知覚するという行為そのものが

 

あなたの知覚するものが

 

あなたではないことを示している

 

 

マインドのレベルにおいては

 

あなたは否定的言語によってしか描写できない

 

ということをより明確に理解するほど

 

あなたの探求はより早く終焉を迎える

 

そしてあなたが無限の存在であることを悟るのだ

 

(シュリー・ニサルガダッタ・マハラジ)

・・・・・・・

 

 

古今東西の多くの覚者は、その限られた言葉の表現は様々に異なっていても、皆同じメッセージを発してきた。

 

学問にも無縁で、インドの片田舎に生まれたマハラジは、煙草の行商人をして家族を養う生活をしていたといわれている。どこにでもいる人、それも地位も何も持たない無学の人だったようだ。

 

ある時、友人を通じて出合った師(グル)の「あなたは至高の存在である」という言葉を信じ、唯一の真実である「私は在る」に意識を集中する訓練と、それを持続する静かな熱意を通じて36歳で覚醒したと言われている。

 

覚醒とは、古来からいわれる「悟り」とも言えるかもしれない。

 

また、

 

覚醒とは、自らに目覚め、自らの本来の無限性につながることだとも言えるだろう。

 

あるいは「常にそうであったこと」に気づくことだろう。

 

これは他人事でなく、例外なく、あなたもわたしも、そうなのである。

  

 

マハラジの話は、少し間違えば、よくある宗教の世界に足を取られてしまいそうな、どこにでもあるものであるが、

 

マハラジの魂自体が既に熟しており、真っ当な出会いと、真っ当なこころと、真っ当な行為によって3年の修業によって覚醒したと言われている。

 

修行は苦行でも、瞑想でも、マントラ、読経でもなく、「わたしは在る」という今の瞬間の唯一の感覚に意識をフォーカスしたのだった。

 

現実生活のために、一般には身体に悪いと言われる煙草の行商をし、生活や家族の世話をやきながら、

 

本来誰でもこの次元世界で通るべき、覚醒・悟りの道をいともたやすく通りぬけてみせ、その見本を示したところに、まさに見事と言わざるを得ないような偉大さがあるではないか。

 

マハラジという個別化した意識は、この混濁した世界に自らを投入し、多分、大いなる援けを受けながら、予定通りに、本来の大いなる意識に立ち帰ることを、見事成し遂げたという事が言えるだろう。

  

「わたし」を探す旅は、どこか遠くに行くことでも、未来の時間に旅することでもない。

 

ましてや世界を作り変えることで見つかるものではない。

 

すべては常に、「今」あなた自身に在るのだ。

 

古来から残る珠玉の言葉、

  

「汝自身を知れ」 に対する素直な反応、

 

「わたし」は何か?

 

ここに、大いなる本来のあなたへ帰還するための扉があるのだ。

 

「あなた」は、

 

あなたという身体、思考、感情、時間・空間認識という小さな<覗き穴>から、この次元世界を観ているところの、

 

本来、大いなる無限の存在であるということに気づくだろうか。

 

わたしが「無限」である等とは、まともに考えれば、眼もくらむようなものであるが、事実は小説よりも奇なりである。

 

I am that <I am>

 

常に自らを、自らたらしめるところの存在が「あなた」である。

 

より自由でより自在なのが、もっとも容易なあなたの本来の姿であり、

 

より楽しく、より嬉しいのが、もっとも容易なあなたの本来の姿である。

 

自らの観念の縛りを、自らで吹き飛ばせ!

 

苦しみというこころのおもちゃは、もう不要なのだ。

 

恐れという身の傘も、もう要らないのだ。

 

・・・

それを自らで宣言し、それを具象化させよ。

 

人の顔色を伺うような依存心や、世間の嘘騒ぎから抜け出す時である。

 

I am that <I am>

 

他によらず、

常に自らを、

自らたらしめるところの存在が「あなた」である!

  

Photo

 

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すべては「ひとつ」という意味 (2)

2011-09-12 08:09:04 | 覚醒意識

そこに物がある、現象が起きているということは、必ず意識の働きがあるということである。

 

何事も、認めなければ現われてこないということでもある。

 

そこに何か現われているから、それが認知されるのだ・・・というのが、今までの当たり前の常識であるが、

 

これは物が先に有る、意識が物質、すなわち局在した時空によって縛られているような、いわゆる3次元的な不自由な認識なのだ。

 

その物、物質の、究極の形態を探求する量子論では、(人の)「観測」というものが素粒子の場所や運動量の在り方を決定すると言われている。

 

これは「観測」すなわち「知覚、認識」という(人の)意識的な作用によって、その観測対象が規定されるという意味であろう。

 

簡単に言えば、意識的知覚、観測することによって物の存在を確認できるという当たり前の経験的事実と繋がっているのだ。

 

すなわち、

現われる  →  観る

ではなく、

    →  現われる

が本当の有り方なのだ。

 

観る、見るとは、・・・意図し、それを意識する、あるいはフォーカスする、意識の焦点をあてる・・ことである。

 

量子論的なミクロの世界の法則、我々の身体レベルの大きさのマクロの世界では、それは通用しないだろう・・という観念があるが、それこそ物質量、空間量で物事を決めようとする「3次元的束縛」を示している。

まさに、そう決め込んでいる・・からこそそうなのだ。 

 

あなたは、既に気づいていただろうか?

 

知覚は観測を通して、物質の有り方を瞬間創造しているのだ。

 

今までは、結果を見ている・・と思っていただろう。

 

見るとは、観るであり、その作用によって、逆に結果を「現象化」しているのだ。

 

知覚・・とは受動的なものでなく、ある意味で「サイコロを振る」ような行為なのだ。

 

サイコロは振られて、その1から6の間の数字という結果を出すだろう。

 

振るまでは、何も起きてはいない。

 

観るまでは何も存在していない。

 

ここには実に、驚天動地のパラダイムシフトがあると気づけるか。

 

まずこころを希望どおりに変えよ」 という、ある意味で執拗な精神的教訓は、とんでもない事実を示している。

 

 

身の回り、社会に有るすべての物は、すべて人間が考え、知覚した範囲で造られたものであるということであり、それは人類共通の範囲の知覚・認識という意識の作用によって創出されたものである・・ということだ。

・・・

 

産業・技術に馴染んだ人々も、

 

素材となる物質、物が先に有り、それを加工して製品に仕上げていると普通に考えているはずであるが、

 

もっと根本的に言えば、

 

社会のあらゆるものは、人間の知覚・認知という「意識の働」きによって、そのものが創造されていくということなのだ。

 

これが3次元であろうと多次元であろうと、存在の根本的なあり方である。

 

意識的存在である人間は、創造者のミニチュアなのだという事である。

 

いまだそれに気づいてもいなかった「自らを忘れた・創造者」を演じていたのだ。

 

・・・・

我々の見ることのできるこの世界、あるいは地球上にあるすべての景色、それを構成している様々な物質形態は、それがたとえ大きかろうと少なかろうと、人間の意識の働きによって存在している・・ということである。

 

地球である、素(もと)の大自然は、「地球という大きな意識」の知覚作用によってそこに出現しているのであり、その地球の意識と、人間の意識が交差・共鳴することで大自然の中の人工物が生じているとも言えるだろう。

 

なぜならば、量子力学的な観点から言っても、そこに大自然という変化を続ける諸現象があることは「意識」が介在しているということであり、

 

地球にある大自然という極めて多様性のある形態は、「地球という大きな意識」の働きによると言わざるを得ないからである。

 

おとぎ話的に聞こえるかもしれないが、宇宙のなかの多くの1つであるこの地球も巨大であるが「個別化した意識」であり、

 

ガイアともいわれる巨大な意識の、自らの自己認識によって大自然が生まれ様々な生態系を創り上げつつ、調和に満ちた多様な変化を、そのガイア自体が体験しているのであり、

 

さらに高度に創造を高めるべく、人間という多くの魂を受け入れ、誘致して「共同創造」をしているという事である。

 

大勢の我々の意識と、大きなフィールドである地球の意識が交差することで様々な共同創造を行っているということが、今の我々と我々の周囲、またその集成である存在世界の真の有り方である。

 

なぜぞうなのか?

 

共同創造は、それが ただ「嬉しく」そして「楽しい」 からなのである。

・・・・

 

そこに物がある、現象が起きているということは、必ず意識の働きがあるということである。

 

我々の世界とは、大勢の人々が同じように知覚していることで、それが「共通現実」という既成事実になり変っているだけのことなのだ。

 

従って、大勢の人々のなかに在るあなたの意識が、大勢の平均的と言われる集合意識に完全に共鳴している場合は、その平均的な意識によってあなたも規定されてしまうことになるのだ。

 

もし、あなたが外からの常識や、権威という静かな指令にとらわれている間は、

 

良きにつけ悪しきにつけ、集合意識というものの描き出す「共通現実」という立体映画の中に幽閉されていることを意味している。

 

自らを自らで、今解き放つ時である。

 

<I am that I am>

 

わたしは本来何者でもなく、わたしがそう信じ込むことで、何者にもなることが出来る存在である。

 

それを理解するには、<わたし>がわたしを観察することによって、わたしの今において、一体何が創造されているのかに気付くことなのだ。

 

<あなた>はいつもころころ変化している、あなた自身に気づくはずであり、

 

そういう現象としてあなたに気づいている<あなた>に還ることになる。

 

それは宇宙意識と言われる、多を統合する一なる意識と言えるだろう。

 

どこにいようと、いつであろうと、常にそこに「道」がある。

 

この宇宙全ては、大いなる神なる、一なるもの、根源なるものが観ている意識的世界であり、その中の<一部とみえるもの>も、<全て>の現われなのだ。

 

自らの内面、想念の流れ、感情の噴出・・それらを自らで観察することができるならば、

 

その向こうに在る、現象の在り方を生みだす根源、

 

表現の土台であり、結果の源であり、多を生じる一なるもの、

 

それ、そのものである「あなた」を発見するだろう。

 

空(くう)は全てを含み、全ての可能性をそれ自体であるところの一なる在り方と言えるだろう。

 

空は1個2個でカウントできない次元のことであり、従って<ひとつ>としか言いようがない。

 

そこでは、大勢のあなたも、大勢のわたしも、

 

ただ <ひとつ> であることがわかるだろう。

 

またただ<ひとつ>は、常に瞬間瞬間<多>として現われるのだ。

  

あなたもわたし達も、その無数の「多」の1つ1つにフォーカスしているだけの、もとは「ひとつ」の わ・た・し なのである

 

 

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すべては「ひとつ」という意味 (1)

2011-09-04 09:50:29 | 覚醒意識

あなたは、「あなたは・・あなただ・・」と感じているだろう。

 

人は皆、「わたしは・・・わたしだ・・」と感じているはずだ。

 

時折忘れていても、すぐにそこには還ってこれるはずだ。

 

それは、自分自身への「意識的な気づき」である。

 

誰にでもある普遍的な 「わたし」 への気づきである。

 

 

大きくは宇宙が顕現するための、いわば神の目覚め、神の自らへの気づきと同じあり方である。

 

考えられる限り無限大のこの顕現されていると見える宇宙も、それを観る者があってこそ顕現している。

 

そうだ。

 

観察物が先ではなく、それを認知、知覚するところの「観察する意識」が先なのである。

 

意識 ~ エネルギー ~ 顕現(物質形態)  であるということ。

 

高名な宇宙物理学的思索であるビックバン理論も、素粒子論的要素を含めて、一段と高い理論に統合されることだろう。

 

宇宙は単に凝縮されたエネルギーの大爆発、あるいは爆発的時空間の拡大ではないだろう。

 

それを観るものがまず存在しなくてはならない。

 

それを観るものは・・・

 

もともと何者ないでもない存在でなければならない・・・

 

言葉では、無限・・・としか言いようがないもの。

 

一なるもの・・神・・創造主・・  言い方は何でも良いだろう。

 

そして・・もう一つだけ言わなければならないのは、

 

それは、今は遠い感があるかもしれない・・・・

 

あなた」  なのでもある!

  

 

そこに「物・対象」があっても、「知覚」が無ければ、存在は認知されない。

 

いや、「それ」が意識に浮かぶそれまでは、そこには何も存在しないのだ。

 

 

 

例えば地球人類すべてが、知らないもの、見えないもの、知覚しえないものは、その世界においては 「存在しない」 と同義である。

 

誰かが新たに発見しそれを大勢の人々が認識して初めて、その存在が明らかになる。

 

後でならば、もともとあったのに気付かなかっただけだと言うだろう。

 

しかしながらそれを認識するそれまでは、何も存在していないと同義である。

 

後になって、「あー存在していたのだった」 とは思っても、

 

それは、知覚認識された、・・後で言う事であり、

 

知覚認識されない間は、当該する対象は存在などしていないのだ。

 

あなたの世界にある無限に様々な物事も、あなたが見ようとしない限り、そこには 「存在しない」のである

 

見ようとしない状況を称して霊的に眠っていると言う。

  

しかしながら、あなたは他者を信じることで、その他者の言う事を自己で咀嚼し、同じような認識をもつことで、他者を介して、あなたには存在しなかったものを存在域に新たに持ち来たらすこともできるのだ。

 

良くも悪くも、このことが行われているのが現実ではないか?

 

洗脳もマインドコントロールもそして支配も、これをネガティブに利用しているだけなのだ。

 

しかしながら、今はもうポジティブに利用する時に至ったのだ。

 

これを集合意識の目覚め、夜明けと言ってもいいだろうか。

 

未だ暗いままだが、確実に夜は明けたのだ。

 

盲信でも依存でもない意識のスタンスにおいて、他者と信じあうことによる、知覚の拡大、認識の増大、意識レベルの拡張は、集合意識の集合意識たる所以の働きであり、なぜ人間が主に集団で生きるのかを示す本来的な意味を示すものだろう。

 

植物・動物も含め、個は個としてありながら、集合意識というあり方を通じて、飛躍的な進化、あるいは発見を促す為の基本的なあり方なのである。

現象世界での重合と離反は、無限の周波数帯域を有する、大いなる意識の波動の共鳴や反発であり、その無限の組み合わせによって様々な創造が行われる。

 

そうして全ての全てが波動として、あるいは情報として、あるいは思考や感情としても・・「ひとつ」に繋がっているのである。

 

この在り方は、高次の意識レベル、魂レベルでも同じことであり、あなたの「魂」と呼ばれる部分・・・それだけで無限の可能性を包含している、謂わば「個としての創造主」も、

 

すなわち、

転生の主体でもある、魂としての「あなた」も、更に広大な集合意識を構成しているのだ。

 

言い換えれば、

 

今の我々の個人としての生命形態、すなわち物質次元の存在形態を含む、

 

さらに高次の存在形態である「魂」のレベルにおいても、集合意識を構成していると言えるのである。

 

簡単に言えば、魂レベルでも、個々別々の様相を呈しながらも、一段と広い集合形態を有する、魂の集合意識があるということである。

 

R・モンローやヘミシンク等においては、そのいわゆる魂の集合のことを、I there  (そちらのわたし) と言っている。

  

霊的な方面からは、守護霊、スピリチュアルガイド、守護天使、魂の霊団、・・などと呼ばれている。

 

あなたの肉体存在としての個は、人類という集合意識を構成しているように、言われるところの高次元での魂も、決して単独ではないということである。

 

もっと単純に言えば、好き嫌いは別として肉体同士に多くの仲間がいるように、「魂」レベルでも、更に広大な次元範囲での仲間、或いは兄弟・姉妹がいるということである。

 

これをさらに単純に言えば、数限りない転生、前世の記憶体などは、あなたの魂レベルでの兄弟姉妹ともいえるだろう。

 

兄弟・姉妹、・・・なるほど、私たちもあなたもある場合は、男であり、また女であったわけだ。

多くの人々は、未だこの外の世界に自分の視野を縛られ、無限に繋がっている内面に気づけぬ分だけ、「自分とは何か?」というテーマを忘れている状態かもしれない。

 

あなたとは何か?

 

性急なその答えではなく、

 

・・・あなたとは何か?というテーマ自体

 

「あなた」は思いだしただろうか。

 

・・・・・

(つづく)

 

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こころの羅針盤

2011-08-18 06:39:01 | 覚醒意識

こころとは

 

身体的、社会的環境から受ける、人間内面の反応と考えているかもしれない。

 

例えば、

 

誰かにされたことが不快であれば、それによってあいつは嫌な奴だとこころで思う。

 

実生活で自分に好都合なことがあれば、嬉しいと思う。

 

誰が見ても悪いことをしているような人達を見れば、怒りのこころが生じる。

 

何かにつけて反感を示す相手には、嫌悪の気持をもつ経験はだれにもある。

 

・・・・

 

人々の中にいるということは、様々な人々の想いと言葉と行いのまっただ中にいるために、

その様々な影響によって常に自分の「こころ」が反応し、それによって動かされることになってしまう場合があるだろう。

 

つまり、いままでの常識的通念では、集団という外から来る出来事、行為、現象によって、人のこころに反応が起きるものだ・・・と受け止められているだろうか。

 

あなたの内面のこころは、外からの影響によって不可抗力的に揺り動かされる。

 

そう信じ込んでいただろうか。

 

こころとは、自分のものでありながら、自分ではどうしようもない、か弱い受け皿、あるいは波風で騒ぐ張りつめた池のようなものだったかもしれない。

 

まさにそうであるがゆえに、出来るだけ良い人々に、良い環境に取り巻かれていたいと感じ、その為に人間関係、社会関係をうまく調整しようとしてきたのだ。

 

様々な約束事、契約、複雑な法律、律法などもその為のものであったろう。

 

また色々な文明の利器、お金、社会での地位と称賛も、すべて、出来るだけ良い立場で、出来るだけ快適な環境にいたいという、大勢の人々の欲求であったわけである。

 

・・・

人々の作る様々な社会、国家の根底にあるのは、・・・

 

「集団とは皆か弱いこころをもった人々の集まりである。」

・・・・という誤解である。

 

すなわち、自分の「内面」、あるいは「こころ」が、外の世界からの影響、あるいは「外力」によって動かされてしまう・・という「恐れ」なのである。

  

それは、あなたのこころが、あなた自らで扱う事が出来るものではなく、あたかもパブロフの犬のように、単に外からの刺激に反応するだけのものとする、大いなる誤解の刷り込みがあるのではないか。

 

外からの刺激に応じた「反応をするこころ」とは、

 

例えば、

 

誰かに何かを言われて、すぐに憤激したりすること。

 

利害関係のある相手の態度に戦々恐々とすること。

 

嬉しい刺激をもらえる人々だけを周りに置こうとすること。

 

不都合なことに対して怒り、その怒りを相手に向けること。

 

自分に好都合なものだけを必死で集めようとすること。

 

他人に無条件に従い、密かに自分の利益を享受しようとすること。

 

・・・・

これらのどこにでもある人々の反応、行動は、すなわち、

自分の「こころ」をかき乱されてると思うが故に、自分を必死で守ろうとすることを示しているのだ。

 

偉そうな政治家だろうと、余裕も見せびらかす富豪だろうと、道を歩いている普通のおじさん、おばさんであろうと、飾りや虚勢があるなしに関わらず同じことである。

 

一見誰でも行っていることではあるが、ここには絶対的に、気づくべきことがある。

 

そう、

 

あなたの心はあなた自身の統御するものでなく、外からの影響で蹂躙されたり、追いたてられたり、波風を立てられたりするような、極めてか弱いものだと・・・信じているということだ。

 

・・・・

 

この刷り込みパターンが、一体どこから来るかと言えば、

 

まずその多くは、この世界に生まれおちた時の、あるいは幼児のころの、

この次元世界の洗礼ともいうべき、荒々しい環境からの影響が多いかもしれない。

 

幼児期に大なり小なり受けるところの、この世界における荒々しい波動は、まず、親、家庭、周囲の環境によって起きてくる。

 

必然、赤子や幼児は、大人の悲しみ、憂い、憤り、疲れ・・・そのような様々な波動を身に受けながら育つことにもなる。

 

赤子や幼児は、物理的にほとんど何も出来ない、か弱い存在でありながら、

また自意識で何かのカルマ的な所業を創れるわけもない状態に置かれながら、

 

生れた周囲の環境から、ある時期は善悪取り交ぜて、家庭や社会から怒涛のような影響を受ける場合もあるのだ。

 

それらが歓迎すべからざる体験の記憶が、いわゆる幼児期のトラウマというものであろう。

 

この世界においては、大なり小なり誰にもあるものであり、

 

その歪み自体を潜在意識に刻印しているがゆえに、

 

またそれを表面では忘れているがゆえに、

 

大人になった場合の無意識の行動に現われてくるものである。

 

その中にあるもので、最も大きな歪みは何かの不都合に対する「恐怖」であろう。

 

落下の恐怖、怒声の恐怖、肉体棄損の恐怖、弱いものに加わる暴力への恐怖、わけのわからない幼い集団でのいじめの恐怖のような、

 

粗野で下卑な人間社会の歪みが、程度の差はあるものの、

 

誰のこころにも刻み込まれているだろう。

誰しもこの世界が理想形でないことは判るはずであるし、

 

表面は取り繕っているような人々の群れにあっても、

 

社会という集合の中には、残念ながら様々な無知、汚濁、歪みがあるものだ。

 

・・・・・

 

我々はそれを自らで洗い出す必要があるのだ。

 

外の汚れたあり方を、誰それの愚かなあり方を、細かく抽出して批判し、誰かや何かを洗おうとするのではなく、

 

汚濁に見える・・・そのあなたの見方を、考え方、捉え方を転換するのだ。

 

外の何が、誰がどうであれ、「あなたはあなたである」という根本的な真理、あるいは本当の事実に気づく時なのだ。

 

こころの歪みと体験記憶は違う質のものであり、

 

歪みは解消されるためのものであり、

 

体験記憶は魂に刻み込むものである。

 

記憶は体験から得られた英知であり、こころの歪みは英知への理解の不十分さを示しているのだ。

 

こころの歪みは、暗いエネルギーとして感情や行動に無意識に出てくるものであり、それを歪みとして気付かない限り、何度でも無意識に表面に出てこようとする。

 

ぜんまい仕掛けのおもちゃは、その歪みエネルギーがある間は、その動きをとめることはないようなものだ。

 

例えば、誰かの服が汚れている、異臭を放っていると自らで気づかなければ、何時まで経っても洗う気にはならないように、

 

あなたの魂の周囲に湧き出している「こころの汚れ」を、それと気づけない間は、心そのものが浄化されないことになる。

 

歪みや汚れは、それに気づいてもらうための切なる「表現形態」なのだ。

 

いわゆるネガティブと言われるこころの持ち方も、それから逃げて真反対のピジティブに逃げ込んで解消されるものではない。

 

またネガティブな歪みを「攻撃」しても、何の意味もない。

 

こころの歪みは、攻撃しても解消できるものではなく、

 

なおさらその歪みを増やすような愚かなヒロイズムのようなものである。

 

歪みはこころのパターンとして、

 

わたし達に、それを開放するように促し続ける・・・、

 

逆の意味での気づきのための恩寵でありながら、

 

それに十分気づいてはいなかったかもしれない。

 

霊的な知識のある人は、それをカルマと言って眉をひそめる場合もあるだろう。

 

しかしながら、

 

その繰り返す歓迎されないカルマは、

 

どうしようもないものではなく、

 

ただ単にこころの歪みの解放を促すためにある仕組みであることを、

 

勇気をもって気づかなければならない。

 

カルマとは、歪みなど本来ない・・・ことを繰り返し繰り返し気付かせようとする、謂わば愛すべき宇宙の法である。

・・・

宇宙の、あるいは存在世界の、あるいは人生での様々な反応は、あなた自体があればこそであり、主役はあなた自身であることに簡単に気づけるだろう。

 

何をしても、何をしなくても、どうあっても、どうなくても、

 

「あなた」がいなければ、あなたの世界は展開などしていないのだ。

 

わたしは・・・有る! 確かに・・今・有る。

 

・・その実感、感覚、を意識しよう。

 

生れたときから無意識レベルを通過しながらも、次第に自らを取り戻してきた人生のプロセスは、全てに意味があることなのだ。

 

 ・・・

人生の押し寄せる波が、あなたにとって荒過ぎると嘆くより、

 

それに立ち向かうべくお膳立てされた、ひのき舞台に感謝しようか。

 

ここまでの舞台を用意し続ける、大いなるものの、切なる思いに感謝しようか。

  

人生の荒波が、心地よい、さざ波になるように、あなた自身という航海船を、感謝でもって大きくすればいいだけのことだ。

 

感謝とは、受け入れるこころの度量のことであり、

 

受け入れられるその分だけ、あなたは嫌でもさらに大きくなるのが真実である。

 

人生とは「わたし」が更に大きくなる為の、雄々しき試練のことである。

 

それに立ち向かい、

 

ある時は、砕け散る荒波がもたらす、涙を頬を伝わせればいい!

 

一時のこころの苦痛が、一体どうしたというのか?

 

押し寄せる荒波は、あなたのこころを歪ませるためにあるものではなく、

 

あなたを小さく、か弱く、誰かに頼らせるためにあるのではなく、

 

その真逆でああることに、どうか気づいてほしい。

 

あなたが吹きすさぶ風の中にあっても、必ず耐えることができると信じるならば、

 

強風はその役目をやっと終えることが出来ることを知ってほしい。

 

吹きすさぶ荒々しい世の風も、

 

大きく成長したあなたにとっては、

 

本当に、本当に心地よい、

 

春のそよ風にもなるのだ。

 

この荒いと言われる世界において、

 

何百何千億という数知れぬ、先達の魂たちの歩いてきた道が、

 

あなたに歩めぬはずもないのだ。

 

 

あなたもわたし達も、

 

その為に・・・ここにいるのだ!!

 

こころ騒がず、こころ凍らせず、こころを温め、こころを光らせるのは、

 

他の誰でもない・・・、それぞれの大いなる「あなた」のやることである。

 

こころのコンパスを、静かに保ち、進むべき航路を常に忘れるな。

 

そうすれば、すぐに大いなる輝ける大陸が現われてくるのだ。

 

・・・

 

決して他ではなく・・・自らを信じること、確信をもつことだ。

 

それぞれの「わたし」自身が全ての源泉である。

 

この世界とは、大いなる試練と愛を学ぶための、

 

母なる大海原であることに、

 

あなたも、

 

今はもう気づいていることだろう。

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。