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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

体と心と魂と (1)肉体はミクロコスモス

2012-09-27 08:24:37 | 覚醒意識

人間には体がある。

 

誰にとっても間違いないことだろう。

 

3次元的な身体を肉体とも呼んで良いだろう。

 

それは多分・・普段人々が今「自分である」と感じているものである。

 

その肉体に備わる眼、耳、舌、鼻、そして皮膚上の感覚によって外の世界というものを感じている。

 

なるほど、肉体が無ければこの世界は味わうことが出来ない。

 

またその肉体は、様々な内臓器官、神経組織、骨格、筋肉等で出来ており、それ自体は完全なる調和で維持されている。

 

あなたやわたしが普通に元気であるということは、あるいはどこにも苦痛が無いということは、肉体の機関が本来の「素のままの調和」にあるということである。

 

しかしながらその調和を具現している肉体は、数十兆の細胞で構成されており、またその細胞は数えきれないほどの分子で構成されている。

 

その分子はさらにミクロの原子で構成されており、それらを数え合わせると、・・いや数えること等出来るわけもない。

 

このように肉体を構成する微小要素の数も、それは有限のようにも感じるが、しかし決して数えることなど出来るものではないだろう。

 

それらは有限にして無限、無限にして有限・・とでも言うほかなく、それはまるで我々の眼前に展開してその姿を見せている・・大宇宙のようである。

 

 

言うならば、あなたやわたし達の今纏っている肉体そのものも、ミクロの方向における「無限」を顕しているのだ。

 

身体がミクロコスモスとも言われるのは、何も例えや詩の世界の言い方ではなく、まさしく実体そのものなのだと言えようか。

 

無限とは何も容積、大きさだけの話ではない。

 

我々は、まさに眼前に展開せる宇宙と同じく、無限という名の身体を持っているのである。

 

その無限の構成要素からなる身体自体も、我々の意図や手で汗水流して、意識して造り上げているわけではなく、大自然の摂理の中において、人間の営みの中で、ある意味でオートマチックに精妙で複雑な生体機構として出現してくるわけである。

 

生れてくる赤子も、それは人間が意図してその身体を造るわけもないことは母体の経験者ならば頭で考えずとも理解できるはずである。

 

 

あなたの肉体そのものも、無限数の分子、原子、クオーク等と呼ばれるもので完全なる調和によって維持されている。

 

そして、その完全なる調和は・・・意図せず、計らず、欲せずとも、そこにあるがままなのだ。

 

・・・

我々は、生かされていながら、生きている・・・・こと、

 

有限とも見える・・実は無限の中にいる・・・こと、

 

・・・・に気付けるはずである。

 

問題は、

 

我々の表面の「こころ」がそのようなことに何も気付かず、肉体表面のことや重さや調子の良い悪い、あるいは見てくれが良いとか悪いとか、ごく薄っぺらの観察のみに終始していることである。

 

また多くの人々が、肉体に必要とされる食物を確保するために、あるいは肉体そのものを安楽に維持するためだけにその意識を向けており、あるいは向けさせられており、

 

その肉体自体が、大自然の摂理の中で、無限数の構成要素の完全なる調和で維持されていることの「本質」のほうに気付かないことなのである。

 

自分だけで生きているという観念、分離した有機的物体であるとする自己感、目先の範囲だけに特化した狭い自画像のことを「エゴ」という。

 

そのエゴを個人の尊厳と結びつけ、個人の尊厳をことさら主張しなければ生きてゆけないとする思想は、一体どこから来たのだろうか?

 

あまつさえ他人の物もあわよくば競争で手に入れることをしなければ生きてゆけないとする思いこみは、一体どこから来たのだろうか?

 

いいや、その根拠はどこにもあるわけも無く、

 

ただ単に、自己による思慮と研鑽を経ずして、他者の浮ついた思考、観念に流されているということ、そのものでしかない。

 

確かに、大勢がそのようなエゴでうごめいている流れの中にあって、その中で生きてゆくことは、ひと工夫もふた工夫も必要なわけであるが、それも魂にとって必要な学びであることが解るはずである。

 

その流れを超克する道が修養、研鑽、あるいは意識進化の道である。 

 

いずれにしても、生かされているということ自体に気付かず、我欲で生きていると考えている集団に終始するならば、

 

我欲で生きていると信じている者たち同士が衝突し、破裂し、挙句は崩壊してゆくことは、なにも黙示録の預言者ならずとも予見が出来るであろう。

 

・・・

我々がそれを多分自分だと・・いつのころからか思っているところの肉体・・、

 

またその肉体は、我々の「こころ」の在り方をも反映させるように働いており、

 

どのようなこころが調和に沿ったものか、あるいはどのような想いが不調和を生じて病をもたらすかの、謂わば学習教材にもなっていることに気付けるだろうか。

 

健康であった人が何らかの病にかかってしまう場合は、何らかのこころの歪みが根底にあることを示しているし、またその歪みを解放するように促しているのである。

 

あらゆる病気が外来の何らかの物質による反応によって生じるものだと考えること自体、肉体とこころの相関関係に気付いていないことを示している。

 

肉体は、すなわちこの世界における五感を中心とした基点あるいは体験ベースでありながら、こころを反映させ、それによりフィードバックを掛けて本来持続して有るべき姿を維持しようとする機能を有している。

 

それが本来の自己保存本能、自己保存機能であり、この世界の肉体の役目なのだ。

 

そうして、その肉体に宿るところの魂という実体の、十分なる経験・体験をサポートしているのである。

 

その肉体自体も我々の意識しないところで、その複雑で精妙な構造を生みだし維持していることに想いを向ける必要があるし、

 

本当にそれに気付くならば、それに感謝する想いが湧いてくるはずである。

 

身体はあなたやわたし達の無意識のこころの歪みを受けながらも、言わばもっとも身近な盟友として、荒い世界の人生行路において、終始あなたやわたし達を支え続けているのである。

 

個人だけという観念、個人我というイメージは造られて流布された低次の自己観念である。

 

そんなことよりも何よりも、

 

人の本当の意味での現実、あなたとあなたの「肉体」、あなたの「こころ」に気づき、これを深く意識する必要があるのだ。

 

我々がこの世界で生きていることは、

 

あらゆるもの全てがあってこそ出来ることなのである。

 

そしてあらゆるものは、今までも、これからも、そして今も、

 

ダイナミックで無限にして完全なる調和そのものなのである。

 

それをそうと観るまでに至らない人類の歪んだ集合的、近視眼的観念こそが、

 

1人1人で克服されるべき唯一の幻想である。

 

自らが依って立ち、それを考え、その体験や経験自体をすることのできる、

 

我々のもっとも身近な身体は、

 

本来それをどうのこうのとする必要もない、

 

象徴的に言われるところの、しかしながら現実の・・「神の宮」なのである。

 

それぞれの人達が、それぞれで自らを深く省みれば、それがわかるはずなのだ。

 

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選択は常に<われ>にあり

2012-09-17 09:25:00 | 覚醒意識

人間の意識の進化拡大においてどうしても通過しなければならないことは、自らの「想念」のパワーへの気付きである。

 

想念がパワーと言ったのは、それは文字通り「力」となり、すなわち現象化の原動力、エネルギーに転換されるということである。

 

この人間の「想念」、心の中のイメージや感情そのものが眼には見えないからといって、何でもない情報のようなものであるという短絡的な「思考」こそが、長い間の人類の「足かせ」になってきたのである。

 

今までの人類の不幸や悲惨さは社会制度や富の不足にあるわけではない。

 

ただひとつ・・・・あなたやわたし達の「想い」の中にあるイメージ、それを青写真やプログラムあるいは形を現わす雛型といっても良いだろうものが、

 

あなたやわたし達の「今の状況」をそのまま反映させているのだということを悟る必要があるのだ。

 

「それはまあ、そういうこともあるかも・・・」というようなもの、あるいはたまにあるような事などではなく、すべてがそうであるということである。

 

人は往々にして自分の人生や環境に不満や不安等があれば、ことさらそれを無視しつつ、何か何処かの他者や社会や、あるいはこの世界の制度などに責任を転嫁しようとする傾向があるものだ。

 

常に原因となる創造者としての自分自身が・・・そこにいないありさまは、

 

それはまさに自分自身では未だ歩けないような霊的幼児性を示していると言えるのではないか。

 

なるほど、今はそういう段階を経験している魂存在達が増えてきており、かつまたそれを巧妙に煽る政治屋、かわら版屋達も増えているようである。実は彼らもおなじ役どころに従っているのだ。

 

表現はよろしくないが、そういう扇動的なお為ごかしの政治主導は、未だわけのわからぬ他者依存の子羊達の集団をまことしやかな宣伝やイメージで操り、別の子羊集団に問題点をけし掛けつつ、そこで生じるところの、無理解と無知が故の歪んだエネルギーの衝突と軋轢を自らの利益に転嫁しようとする行為なのである。

 

今世界中で騒ぎが増大していると見える現象の元は、20世紀に蓄積された世界的経済的富が、リーマンショックを象徴とするデリバティブやハイリスクな金融博打の崩壊によって失われた為の金欠症状が故だけではなく、

 

あるいは商品市場の価格上昇による食糧・エネルギーの入手性の棄損と飢えへの恐怖感の為だけでなく、

 

それはある意味で、金銭・貨幣を象徴とする物質的繁栄への飽くなき歪んだ欲望のはけ口が、今まではそれを生みだしてきた大多数の民衆自体の、なけなしの富の奪取にとうとう向かってきたということなのだ。

 

いつの間にか国家経済の収支そのものが債権によって売り買いされる現状も、あるいはそれに対処すると称される民衆からの徴収増加も、あるいは中東地域の革命による秩序や倫理の荒廃も、お金の為に兵器と人々の命を変換するようなおバカ極まりない戦争も、

 

その全てが、自由と民主的であるはずの、一般大衆の為だと・・・称しているではないか。

 

呆れてものが言えないほど、我々という民衆はおバカにされていたということでもある。

 

実にそれは想念レベルでの他者依存が故なのだ。

 

・・・・違うだろうか?

 

要は、あなたの為に何か良きことをしてくれる・・・そんな、星の王子様やあしながおじさんは、どこにもいなかったということである。

 

なぜならば、・・・・

 

それぞれの・・・あなたやわたし達が「それ」なのだから。

 

 

・・・・

昨今急に世界で拡大した民衆のデモや革命騒ぎ、宗教間の血なまぐさい争いを、単純に世界が良くなる為の改革だと感じている人々は、未だその裏にある「想念」の歪みを知らないのかもしれない。

 

外に革命や改革を起こさなければならないという政治屋プロパガンダは、民衆の無知をそのままにしつつ、それを票に結びつける為の操作手段なのである。

 

「そうそう、悪いのはあなたではなく、制度や他の国やあるいは極悪の支配層なのだ。この問題が消えなければあなたは幸せにならない、・・わたしがそれを何とかしようではないか。・・・・・」

 

大衆の無責任転嫁を機敏に感じとって、そういう風に思いこんでいる人々の代弁をしているのである。

・・・

 

この世界での経験において、外の世界と自分の内面のギャップを目の当たりにした段階に来た時に、

 

往々にして、決して自分は悪くない、悪いのは他人のほうである・・・というような、認識をいつもすり抜けるところの他者への責任転嫁で終わってしまうことが多いのではないだろうか。

 

そうした場合には結果的に、さらに大きな問題点となって還ってくることになるだろう。

 

想念とは思考や感情であり、それが人間世界の創造の唯一のまた無限の力となっているからには、あなたやわたし達はその自覚の程度に応じた創造者なのである。

 

意識的か無意識的かに関わらず、認識によりまず知的なイメージ体を造り上げ、それを固持することで時間を通じて現象化させているのだ。

 

人の人生や生活あるいは人格、性格等が社会、親や世間や上司や管理者や、あるいはどこかの支配者等が決めているなどという「観念」に染まっているならば、未だ自らの創造者としての自覚が無い段階と言えるだろう。

 

何を偉そうに・・と感じるかもしれないが、

  

たとえどのような環境、状況においても、結局は 「全て」は 自分で決めているということを理解している人は、いわゆる意識進化の階段を1つ登った人だと言えるのである。

 

自己創造は、それが、たとえどのような環境、シチュエーションにおいても適応されるのである。

 

その人の意識はその人にしかないわけであり、何をどう思い、どう自覚し、どう表現し、どう行動するかの最終決定者は、常に「自分」なのである。

 

人が言うから、親が言うから、多くの前例があるから、世間の人がそういう風にしているから・・・・等というのは単なる自己の観察情報であり、

 

故に 「それ」 が、あなたの行動、思考を<決定している>わけではないのだ。

 

選んでいるのは全て、最終決定は全て<自分>であることが理解出来るだろうか。

 

そう、・・・全ては、それぞれの<わたし>が決定をしているのである。

 

無意識的に決めている人は、往々にして外の世界の思考の流れに染まって流され、逆に意識的に決めている人は流れを自在に泳ぎつつ、場合によって生じるところの汚濁の奔流にも流されることはない。

 

今までの世界では、物質的な富や繁栄が自らの幸せに結びつくとというような観念が世界に支配的になり、それが故にその物質の元である地球という資源が貪られてきたのだが、

 

それが限度であることを、こころある者は以前から気付いていたはずだし、

 

加速された世界の物質獲得競争の慣性によって、今はとうに限度が超えてしまったのが現状なのだ。

 

今はもうその時を過ぎていることにあなたは気付くだろうか。

 

そういう意味では、人類意識の卒業時期に入っているともいえるだろう。

 

しかしながら、あなたはもう準備していることだろう。

 

次第に大きくなった気象異変や地殻の動きの増大あるいは前代未聞の地震等も、あなたやわたし達人類に仕返しをしようとしているのではなく、

 

盲目的な物質繁栄追求だけの遊びはもう終わりだと告げているのである。

 

やけくそになって原子核でこの3次元舞台を全て壊してしまうこともあり得ないし、

 

地球という「多次元世界」は完全調和の意識体であり、それは決して崩壊することを選択しない。

 

物質表面次元だけに意識を向けて、そこでの肉体生存だけの為にあくせくして来た人類の想念形態はもうすでに時空で飽和してしまい、ある意味で相転換をしているとも言えるだろう。

 

そう、今はもう人間社会の原型である人々の想念を、それぞれで入れ替える時期にあるということだ。

 

人の人たる所以は、その想念にある。

 

また人のゆく道は自らが提示するところの想念が造るのだ。

 

どのような時、どのような場所、どのような時代、どのような集団の中にあろうとも、

 

全において、何をどう考え、どういう状況を得るのか、

 

すべて、選択するは・・・・<われ>にあり。

 

・・・・

 

いままで何度も陥ってしまった・・「それは理想だよ、現実は違う・・・」等という、尤もらしい常識の隠れ蓑を装った、投網のような想念の形にもう捉われてはならない。

 

あなたやわたしが見ている、経験している世界の中には、

 

それぞれのあなたや、わたしが  それぞれ ひとり  いるだけなのだ。

 

意識を持ったわたし・・・これは誰でも気付ける・・・根本的なことである。

 

今・・・内面から生じるところの本来の静謐、安心、平安、豊かさを、

 

明確に、それぞれのこころの中に掲げ続けるのだ。

 

新しき想念を掲げること、その信念の持続は力となって、それぞれの一人一人のあなたの回りに生じてくる。

 

それぞれのあなたの回りが、次第に集合して本当の新しき大きな舞台が現われずにはおれない、

 

それが法則なのである。

 

気付いて、認識して、認めてそれを自らに表現することでしか、

 

・・・・それは顕れない。

 

いばら道も花道も、決めるのは常に・・・<われ>にあり。

 

この世界での舞台演技は、すべて自分で決める者達によって創出されており、まさにそれを知ることにこそ意義がある。

 

あなたのことを・・・一体だれが決めてくれるというのだろうか?

 

自らの撒いた種は自らが刈り取るのである。

 

決して他者ではない。

 

そしてまた、自己の有り方を決めてゆくあなた自身の「想い」を観ることを経ずして、その自らの想いを制御できるだろうか。

 

いいや、それは決して出来ない相談だろう。

 

それは絶対的に必要な魂意識の、いわゆるところの進化・拡大のステップなのである。

 

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魂たちの学び舎

2012-08-26 09:23:56 | 覚醒意識

あなたは例えばこの世界を、今どう観じているだろうか。

  

ところで、

 

あなたやわたし達が魂であるならば、まさに永遠に属するところの魂にとって、

 

いったい全体、学ぶことが必要なのか?という風に感じるかもしれない。

 

いわゆる神や根源意識なる「それ」は、全てを知り、全てで在り、全てを為し得るのであれば、どうして今更「学ぶ」あるいは「進化」等ということがあるだろうと、いぶかしむかも知れない。

 

全知、全能、遍在のものが、例えばどうしてわざわざ個別の種にその身をやつし、自らを窮屈な土の中に投じてのちに、無意識の意識から成長を始め、再び日の当たる世界で目を覚ますようなことをするのだろうか。

 

例えばこの世界に生れてくるようなこと、

 

どうして何もわからず、何も知らぬ無垢な赤ん坊に生れ、そして分けもわからずその所作の行き着く結果もわからぬ大勢の人々の中で、ある時は叩かれある時は揉まれる経験をしたいと思うのだろうか。

 

どうしてわざわざ無明なる世界で、光を求めて動き回る人々で満ちた、このような世界に生れてくることを体験しようとするのだろうか。

 

理知的な人であればあるほど、

 

この世界の明らかに愚かな有様に気付きつつ、どこか厭世的な気分になりながら、さっさと滅んでしまえば良いのにとも考えることもあるだろう。

 

どうしてこんな歪(いびつ)で、それこそ生きにくい世界が存在しているのだろうかと悩む時もあるだろう。

 

しかしながら思うかもしれない、・・・・確かにそれには意味がある・・と。

 

・・・・

そうやって、どんな意味があるのだろう?と意識的に、あるいは無意識的に思案しつつも、目先の生活に追われているようなものなのだが、

 

そうした自らの生活に追われ追われて人生を経てゆくことで、この世界が嫌々ながらも病みつきになる魂たちが多く出ることになるのが常であったようだ。

 

嫌なのに・・病みつきになる・・とは一体どういうことかと言えば、

 

重い身体を持ち、混乱した思考に周りを囲まれ、ざわめく外の人々の慣習に内面から縛られることで、無知と不自由さの中に埋没するということだ。

 

人々の乱雑に発するところの思考と行為の中に埋没するということだ。

 

極限された集団思考によって、いわゆる3次元と4次元の間で閉じ込められつつ、まさに浮いては沈むような生と死の繰り返しを演じることになる。

 

これはすなわち、光の僅かにしか届かない地のなかに自らで「種」を撒くということなのである。

 

そうして無知がゆえに行ってしまうような、自らの愚かな行為によるカルマの反動をも繰り返し受けながら、幾多の生を生きては死に、それでも次第にようやくその行為と結果の関係が理解されてくるようになる。

 

まさに、そういう世界では『人生』とは、何十回、何百回の『生』と同義なのである。

 

いわゆるムーの時代あり、アトランティスの時代あり、エジプト、ペルシャの時代あり、・・・

古代中国の時代あり、名もなき幾多の砂漠や山岳の民の時代あり・・・

あるいは生と死の狭間の時代あり・・・・・。

 

実のところは、こうして我々魂たちは時間空間を超えて、自由自在にあらゆる時代あらゆる文化文明を体験をしているのだが、多くはそれに気づいていないということでもある。

 

あなたはどうだろうか。

 

なるほど、無知・無明から始めるが故に、この地の世界を卒業するための人生など1度きりで収まるものではないのだが、あろうことかその無知なるがゆえに、人生は1度きりだその都度考えていることが多いのである。

 

しかしながら、カルマで生成される幾多の人生を繰り返しつつ、その繰り返し自体の御蔭でその幾多の人生を経てきた自分に、いつかどこかで苦笑しながら気付くことになるだろう。

 

次から次へとこの世界に希望しつつやってくる無数の魂たちの、楽しくも・陥ってしまったところの、相変わらずの無知と無明の思考の群れに遭遇しつづけ、やっとのことでそれに『飽きる』ときがやってくる。

 

なるほど、この世界での無知なる自己の有り方にもどこかに意味があるとしていたからこその幾多の生であったわけなのだが、

 

そこには実はどんな意味も無かったという気付きに至る瞬間である。

 

どんな意味も無いとはどういうことだろうか?

 

それは意味や意義を最初に求めるような思考や観念に依らず、否応なしの幾多の経験・体験を経て初めて醸成されるものということである。

 

魂の学びとは、思考によらず、観念によらず、

 

まさにそれは経験を経なければ醸し出すことが出来ないことなのだ。 

 

またそれは撒かれた種が、暗い土の中の養分を吸収しつつ、ようやく陽光輝く光の世界に這い上がってくるようなものなのだ。

 

地球という学び舎はそういう特殊なところであるともいえるだろう。

 

なるほど、不自由な身体と極限された混乱した思考に満ちた世界であったこの地、地球は大きな、土・地の球体世界である。

 

その有限球体の地は、魂たちにとっては実に得難い学び舎なのだ。

  

時間空間を遥かに超えた魂存在が、わざわざ狭い時間空間に捉われるような、極めて特殊な経験をすることが出来る<場>とも言えようか。

 

その為にこそ、赤子のような無知から始めなければならないわけである。

 

赤子は無知や無力であるがゆえに可愛く、そのあどけない笑顔のなかに穏やかであるが無限の可能性を感じさせるはずである。

 

あなた方もわたしもそうやってきただろう。

 

私は誰?  ここはどこ? さえも思い至らぬ状態から始めるわけである。

 

そうしていつか、

  

わたしとは何か?

どこから来て、どこに行くのか?

今、何をすべきなのか?

 

 ・・・という疑問符が生じてくる意識に至るのだ。

 

それは、意識せざる『意識』から、

 

意識せる『意識』へと変移を遂げたということでもあり、

 

あるいは夢遊のような無責任で無自覚な、あなたまかせの無意識から、

 

わたしは常にわたし』であるという自覚的な意識に至ったということだ。

 

多分あなた達もそうだろう。

 

自らが撒いた種、あろうことか自己の一部をこの地に自らで投げ入れて、

そこに意識を持ち来たり、その自らの地を這うような苦楽と静と動の体験と経験を通じて、

 

再び自由自在な<われ>を思いだすような、全くあり得ないような学びが行われてきたのだ。

・・・

 

そういう生々しい学舎である地球を安易に「悲しみの星」と言うなかれ。

 

なかなか気付かぬ人類という幼子の群れを長く受け入れることは、

 

まさに母なる大地にしか出来ないことである。

  

地球、それはまさしく幼き魂達の為の、あり得ないほどの愛に満ちた学び舎にほかならないのだ。

 

学び舎における何もかも、

 

物も財産も、名誉も権威も、肉欲も、情も、嫌悪も、憎しみも・・・・・・

 

ただ、一時(いっとき)の学習教材なのである。

 

そしてそれらに対するこだわりと執着も、元々は持っていなかったものである。

 

人は皆本来、自由自在の高みを謳歌するまでに至った魂の同胞(はらから)なのだということに、あなたも気付けることだろう。

 

この世界には幼子は実に大勢いたとしても、憎むべき奴らや他者などいるわけも無く、

 

宇宙においても、さらに大きな世界であっても、ただ有るのは、

 

それぞれの視点の、そして様々な段階での<われ>または<わたし>なのである。

そうして、

 

この荒い荒い、物だ金だと言われる世界においてこそ、

 

執着も偏執もなく、ただ淡々と生きたことがあるとするならば、

 

嗚呼、それは何という得難い経験となることだろう。

 

 

 

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さらばエゴの時代

2012-06-03 09:13:38 | 覚醒意識

一体「なぜわたしは生きているのだろうか」等という問いかけをしたことが誰でもあるに違いない。

 

若い頃、青年時代などは特に、人生に関する、形而上的とも言える疑問や問いかけをしたことがあるはずである。

 

人間とは何か?

 

人生とは何か?

 

ある意味で、社会の流れに流されていない若い時代には、そのような人生上の根本的な問いかけをするものであるが、

 

いつの間にか、一見もっともそうな、先に生きていた大人達の創り上げてきた世界、実際には混乱した世界に自己投入せざるを得なくなり、

 

多くの人々が、目先の忙しさや競争に埋没し、四苦八苦しながら人生をおくることになるのが常であったろうか。

 

大勢の人々のあーでもない、こーでもないという混乱した価値観の中で右往左往し、あれが良いとかこれは悪いとか、あれがメジャーだ、これが流行だとか、それはマイナーで悲惨だとか・・。

 

我々はある意味で、収入を上げるために、より生活を安定させるために、あれやこれや獲得しながらも、

 

様々な価値観念という、潮の渦巻く集合意識の海の上を必死で航海している航海士ようなものである。

 

人々は、そういう混乱した社会の渦の中で右往左往しながら、あるいは貝のような自己保身に徹しながら人生を送ってきたのかもしれない。

 

それはあたかも、いままでのこういう世界が当たり前であり、当然のこととされているからこそのことであったはずである。

 

それが常識であり、それが当然であるという風に何処か、いつか教わったような漠然とした信念を持っていたに違いない。

 

あなたはどうだろうか。

 

・・・・ 

更に言えば、

 

かれらが偉いとか、奴らは闇だとか、あいつらはダメだとか、こちらが強いとか、あちらは弱いとか、そういう造られた生存競争の只中にあっては、

 

当然のように、生存の確保の為に人を出し抜き、嘘を言い、あるいは真実を言わないことで責任を回避しようとする者たちも現われてくるし、

 

まるで風見鶏のように、外の世界に従いながら、実は内面の精神を棄損しながらも、そのような世間という濁流のごとき観念の流れの中を、必死で泳いで生きる者も現われてくる。

 

特に昨今では嘘と真の混ざり合ったメディアによって流される政治、経済、世界情勢等の報道等によって、

 

その渦の中で必死になって踊っているエリート達の姿がバレばれとなって現われている。

 

まるで伏魔殿のステージで踊り狂う、色気も面白げもない踊り子さん達のようである。

 

それらを観て笑いながら、怒りながら、陰で罵倒しながら、それを楽しんでいる者も今では大勢いることだろう。

 

あなたが世界を俯瞰しているならば、それに気づいていることだろう。

 

その彼らとは、奴らとは、自己保身に特化した、いわゆる物質偏重的な文明の象徴なのである。

 

世界のトップに立って政治・経済等のお芝居を演じている者達は、決してエリートあるいは偉い者たちというわけではなく、

 

自己保身をテーマとした物質偏重理念の哀れな体現者なのである。

 

例えば、

 

国家、社会の為と称しつつ、危ない原発の利権にしがみつき、あるいは利権の周囲に流れされる、貨幣という「最初はおいしい猛毒」で生計を立てようとする者たち、

 

あるいは、国家経営が赤字になったその原因を白日のもとに曝さずに、さらにその理由なき、説明なき赤字の穴埋めを、更に庶民に肩代わりさせようとする政治家達・・、

 

また世界においては、リーダーシップをそれなりに実施している為政者の国を異端の宗教や悪の独裁と罵り、

 

逆にそこから反発を受ければ、それをこれ幸いに理由付として悪漢イメージをメディアで流し続け、どこか愚かな民衆に口実を植え付けた段階で、その権利も何もないよその国に空爆を加えることを正当化するようなどこかのエリート達・・、

 

次から次へと悪や問題を自ら創り上げては、あろうことか大勢の第三者の犠牲の上でそれを解決するというパフォーマンスを繰り返しながら、実のところは物質的な富を簒奪するという話である。

 

・・・おバカにもほどがあるのだ。

 

余計な御世話かもしれないが、一体ぜんたい何の為に、この世界に生れてきたのだろう。

 

そういう者達は、本当に、地位や名誉や物質的富に普遍的な価値を見出しているのだろうか?

 

・・・

  

いやいや逆に、そういう演技をしてくれているために、そのおバカさ加減がわかろうというものである。

 

しかしながら、何百万の命を奪う行為をしておきながら、それを口で泡を飛ばしつつ正当化に努め、表面は平然としていることに彼らの霊的無知と、その精一杯の姿に深い哀れさを感じないではいられないではないか。

 

・・・ここまで晒されれば、観衆である者たちは、もう十分に理解が出来ることだ。

 

この世界で眠りこけた魂たちは、その不快感に嫌々ながらも目覚めることだろう。

 

あまりのやり過ぎとその不快感に目が覚めて、地球の大勢の人々がブーイングを始めたのかもしれない。

 

単に魂の目覚めの為のやり過ぎ・・・そういうことかもしれない。

 

何事にも意味があるものなのだ。

 

 

現代社会というものを俯瞰すれば、 

 

人々がどこか崇め奉っているお偉い者たちは、民衆を保護し、多くの人々の為の仕事、いわゆる公的な仕事をしているはずのところが実はそうではなく、

 

公の福祉、生活向上・・それを建前として、あるいは錦の御旗に立てつつ、

 

公(こう)ではなく私(し)の生活向上、地位の確保、利権による利益の奪取を潜在的な主目的としてしまっているようではないか。

 

そこに積極的な悪意は感じないものの、ズルズルと致し方なくという形で落ち込んできたようであるし、

 

結局は、滅私奉公どころではなく、どこか滅公奉私になり下がってしまったのだろう。

 

そう、それは

 

「自分が生きるためには他を犠牲にしても致し方ない」という、見えない支配的な観念でいつの間にかからめ捕られているということだ。

 

それが集団的な価値観念という「檻」というものである。

 

・・難しい話でも何でもない。

 

それは、実際何かと言えば 「行き過ぎた自己存続」 の観念である。

 

その自己存続へのあくなき執着とは、自己が肉体であるという唯物的観念から来ていることは明明白白であろう。

 

・・・

 

執着した自己の現われ様を<エゴ>という。

 

エゴとは、常識という虚栄の観念で投影された、偽物の<自我像>である。

 

またエゴとは、自己存続に特化した「こころ」のことである。

 

ある意味で、今まではこのような「エゴ」の文明であったと言えるかもしれない。

 

世界を見ている心ある人々は、そのエゴ的文明の終わりを予感していることだろう。

 

いや、それは予感ではなく、既に終わってしまったことなのである。

 

意識的に気付く人々が多くなるに従い、それは一般共通現実となるものだ。

 

また、時系列という流れで生起する結果としての現象は必然的に生じてくるものであり、またそれら様々な崩壊現象に一喜一憂すべきではないだろう。

 

それら去りゆく一時代の幻燈映像に、執着も憤りも恨みも持ってはならないはずである。

 

どんな物事にも意味があり、深く大きな意識のなせる技であればこそ、それに感謝を忘れてはならないはずである。

 

それ見ている、観ているところの、あなたや私たち自身を忘れてはなるまい。

 

変わるのは外ではなく、内面の意識であり、内面の変化に応じて当たり前のように外たる映し絵が変わってゆくだけなのである。

 

内なる面と、その現われである外の面との相関関係は、

 

自らの人生体験を通じて営むべきはずの

 

「自己観察」を経なければ決して実感できるものではないはずだ。

 

単なる霊的、あるいはスピリチュアルな知識だけでは、浅い理解で終始するかもしれないし、ただただ、より良き外の変化を待ち望んでも、いつもどこか期待外れであることがわかるかもしれない。

 

目に映ずるところのこの大宇宙は外に展開された無限大の現象であるが、現象の背後には必ず現象と不可分一体となった現因、あるいは法則があることは理解出来るはずである。

 

わたしとは何か? 

 

意識ある人間の問いかけは、

 

まさにその宇宙という全体存在の、

 

今、在りて有ることへの問いかけと不可分一体なのである

 

翻って、

今の大いなる変容の時代を生きているそれぞれの<わたし>とは何か?

 

あなたや私たちは、どうありたいのか?

 

いつも、いつの時も、どこにいても、それが全てなのである。

 

世界は意識と意図で紡ぎだされているのだ。

 

難しい話はどこにもない。

 

・・・

愛こそが、言葉に出さずとも当たり前の感覚であり、

 

共感こそが、理論でなくフィーリングで実感できることであり、

 

真実こそが、顔をそむける必要のない知恵となり、

 

人生こそが、深い感謝と喜びの連続した体験学習であり、

 

人々こそは、根源から出てきたところの兄弟姉妹同士なのであり、

 

それらこそが、歪んだ観念という物差しを外したところにある、

 

真なる「常識」である。

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。 

 


意識進化

2012-05-27 11:54:22 | 覚醒意識

人間は歴史において世界を<何とかしたい>と常に考えてきたわけであるが、

 

その理由は、改善されるべきは自分等ではなく、外の不完全な世界の方だと考えてきたからだろうか。

 

それは多分、外の世界が変われば、自分達も変われるのだという思考である。

 

環境が変わらなければ、人間は変われない・・・本当にそう信じ込んできたのだろうか。

 

環境、外の条件、物質レベルの物事に完全に依存している者、すなわち・・人間・・・・どこかそういう観念があったわけであろう。

 

それを突き詰めれば、

 

人間とは生物的肉体であり、それ以上の何者でもないという「認識」が故であったことだろう。

 

・・・確かに現状の肉体は物質レベルの諸物に依存している。

 

しかしながら、生物的肉体を含め、鉱物、植物、動物等あらゆる存在形態はこの地球という大きな存在の中の身体組織のようなものであり、

 

その地球の身体組織の一部を一時借り受けつつ、その世界における言わば体験学習をしているというのが真実なのである。

 

天と地と人という舞台設定において、自らを思い出す体験をしているもの、

 

言わば体験学習をしているそれを・・「魂」と言う。

 

どんなものにでも自己同化してその存在形態を体験できるところの「魂」の本来の身体というべきものは、その意識を体現したもの・・すなわち「意識体」ということになるだろうか。

 

意識体とは、魂意識の体現するボディーという意味であり、その選択するボディーのなかには、この地球上での肉体形態もまた存在するということである。

 

そう、そのようにして個別化した神としての体験用ボディーの1つが、この地球上の身体・肉体なのだ。

 

確かにそれは体験の為の仮の衣服のようなものである。

 

・・・・

 

どこかやはり宗教的なイメージがあるものの、あらゆる全ての根源を「神」とすれば、

  

いわゆる神は顕現する宇宙を、各次元、あるいは「各所」から観察するために、局所からの観察眼、あるいは「部分としての自己認識」をも用意しているということも言えるだろうか。

 

部分としての神の自己認識・・・それは神の個別化とも言うべきものだ。

  

まさに神々とはそういう存在であろう。

 

全体を認識する・・・、あるいは全体を観察するには、

 

一なる神の有り方すなわち、全体をそのもの全体として認識することのほかに、

 

個々の意識を有する人間のごとく、小さな小さな部分から全体を認識するやり方もあるということである。

 

小さな部分でありながら、全体を含む存在形態・・・

 

それは今現前するわたしであり、あなたなのである。

 

それこそが、人間は神の子、仏の子などと象徴的に言われる所以である。

 

それ自体に何も問題などありはしまい。

 

・・・・

 

しかしながら、それも全ては宇宙の自己認識にほかならず、

 

実のところは、あらゆる全てが神だということなのだ。

 

目覚めているあなた、そしてわたし達は、今、

 

人間という<部分>から、天・地・人を含む<全体>を俯瞰している立ち位置にあるわけだが、

 

その、部分から覗きつつ、世界を観ているものは当然ながら実は本源、根源、あるいは神なのである。

 

言わば神は、全体そのものであるが故に、その全体を別の視点である、「無限」にある「1小部分」からも観察していると言えるかもしれない。

 

宇宙、存在諸世界にあまねく存在する意識的存在、あるいは人間、あるいは生命は、悠久の進化途上にあると言われるが、

 

その意味は、自己という意識、自己認識を有するようになった生命体は、

 

部分から全体にその観察範囲、気づきの範囲を拡大してゆく途上にあるということであり、

 

それは神自らの無限に生じた部分からの自己観想、自己観察と言えるだろう。

 

それは大勢の神が参加した、言わば壮大な遊びとも言えるかもしれない。

 

「一」が無限に現われ、それは「多」となって、分化あるいは次元降下し、

 

そこから意識が目覚め、あるいは芽生え、あたかも子供が成長するかのように、自らの顕現である大いなる宇宙・存在諸形態を観察する目を獲得しつつ、

 

体験経験を通じて、次第に大いなる自己への認識に至りながら、

 

<一>から分化した無数の<多>が次元上昇して、ユニティすなわち<一>となる。

 

それを意識進化と言っているのだろう。

 

時間も空間も、他の星の世界も、あるいは多次元世界も並行世界も、その為の様々な舞台設定のようなものであろうか。

  

存在諸世界のあらゆる生命形態、あるいは我々の認識レベルから言うところのあらゆる物質・非物質レベルの顕現形態も、

 

一なる神の、自らの分化した者たちであり、すなわち、一なる神の「分け御魂」なのである。

 

この時空における、我々の肉体・身体は、

 

実に地球という、これまた巨大な意識体の舞台設定、物質顕現の一部の借り受けのようなものなのだ。

 

そういう意味でも、確かに肉体は、<わたし>自体ではないし、肉体は<あなた>自体でもない。

 

確かに実際我々は、何も所有してなどいないし、また本来特殊な何者でもないし、全ては仮のもの、借り物ということだ。

 

一体ぜんたい、何に執着することがあろうか。

 

与えられた魂の為の人生を、

 

その時その時で、最も大切なものを感じる方向に歩き続け、

 

真摯に、そして精一杯生きてゆくことだけで良いはずである。

 

最も大切なものを感じる方向に歩き続ければ、

 

やがて確実に道が見えてくる。

 

・・・

   

何も難しい話でもない。

 

高等数学も不要であろう。

 

どんな競争も必要なわけもない。

 

お金を貯めこむこと等どんな関係もない。

 

一時の虚栄の地位や名誉がどんな役に立つのか。

 

生存の為の必死の形相など、全くお門違いだろう。

 

誰か、何か、外へ依存するようなことも何か違うことだろう。

 

それが日常的であっても、たとえ宇宙的なことであっても・・。

 

 

それらへの執着は意味がないどころか、いわゆるカルマを生み出す要因となる。

 

また、カルマをオドロオドロしくとらえる必要も無く、それは、ただそれに気付くまでの試行錯誤のプロセス、あるいは起き上がりこぼしのような不屈・不動をその旨とした恩寵の仕組みなのである。

 

また気付けば、それすらも、もうどうでも良いことではないだろうか。

 

意識の進化とは、

  

拡大しつづける自己、すなわち神の分け御魂としての自らの再発見であり、

 

嬉しくて、面白くて、楽しき存在であること・・・自体がその道にある証である。

 

 

自分を発見してゆくことの面白さ・楽しさは、

 

夜の暮れるのも忘れ、泥んこになって遊んだ、あの疲れ知らずの

 

子供の時代に既に体験し、そして知っていることである。

 

 

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