セイラー・ボブ・アダムソン(1928~)はオーストラリアに在住の霊的教師と言われている。
若い頃は生活の為に水兵になり、こころを痛めて除隊し、羊毛刈りや船仕事で生計を立てるうちに、海の荒くれ仲間に合わせてアル中になってしまった。
周りの人々の気遣いや自助努力を通じてアル中から脱すると同時に、霊的な求道心が頭をもたげ、インドでの瞑想や修行をしたという。
そして、師であるニサルガダッタ・マハラジに会って、この世界での波乱に満ちた放蕩の旅は終わりをつげ、自らの存在の中心に帰還した。
それ以来は、今まで30年の間、意識としてのシンプルで当り前の教え「ただ、それだけ」を語り続けている。
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以下は、「ただそれだけ」 カリヤニ・ローリー著(高木悠鼓訳)からの抜粋である。
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(ONLY THAT p100)
誰がその質問をしているのか?
質問者: この質問を取り上げていただけるかどうか、不安なのですが。
ボブ: どのような質問ですか?
質問者: 「わたしとは誰か?」 です。
ボブ: ほう。 あなたはこれまでに自分が誰か、発見したことがありますか?
質問者: ありません。
ボブ: 「わたしとは誰か?」 を尋ねる代わりに、「わたしとは誰か」?という質問をしているのは誰か・・、
「わたしとは誰か?」を尋ねているこの質問者は誰なのか、と自分自身に尋ねてください。
質問者: うーん・・。
ボブ: あなたはそこから何を理解しますか?
質問者:それは心、思考、ということですかね。
ボブ: なるほど。心ないし思考が質問者というわけですね。では、心ないし思考が・・、その質問を尋ねている者は誰か、・・と尋ねているわけですか?
心ないし思考が質問者である、と。それでいいですか?
ボブ: さて、質問は何でしたっけ?
質問者: 「私とは誰か?」です。
ボブ: それは何ですか?
質問者: 一つの思考です。・・・
ボブ: ええ、それは観念、思考ですね。ということは、質問者と質問は、 ともにひとつの思考ないし観念で、質問者=質問そのもの、ということになります。
それらの間に、何の違いもありません。ですから、もし質問者がいなくなれば、質問もあり得ないのです。
質問者や質問が存在しなければ、そのときあなたはどうなりますか。
・・・
ボブ: 質問も質問者も存在しないとき、あなたはどうなりますか?
質問者: なにもない、・・でしょうね。
ボブ: あなたは思考の持ち主、観念の担い手です。
質問者と質問を削除したとき、そこにあるのは、あるがままの裸の意識です。
・・・あなたは 「私とは誰か?」 を発見したのです。
何年も何年もその質問を心の中で問い続けて行き詰まる代わりに、
質問者が質問そのものだということを理解してください。
人々はこころ以前の存在状態について語り、そこに到達しようとしてあらゆる種類の奇妙なことをやります。
質問者は、質問それ自身に他ならないのです。
それらは互いに相殺し合います。
つまり、質問がなければ、質問者は存在しません。
その瞬間、あなたは心以前に存在しており、思考を超えているのです。
思考を超えていれば、あなたは思考以前にいるはずです。
それはそのくらいシンプルです。
質問者: わかりやすい表現です。私たちは思考や質問の担い手であるとおっしゃいましたが、
こうした思考や観念や質問が消えれば、その担い手も存在せず、そのとき、私たちはただ存在しているのですね。
ただの存在意識のみがあり、
それは起こっているすべての物事、すべての現象に先立つものです。とはいえ、その現象もまた「それ」なのですね。
・・・
ボブ: あらゆる現象は、詳しく見ていくことによって、あなたを故郷へと導いてくれるでしょう。
・・・・・以上p100-104 抜粋
様々な物や現象を、物や現象としてーー認識ーーするのは「思考」「観念」であるということだ。
認識という働きを「思考」といい、・・思考の記憶された集合を「観念」というならば、
「思考」や「観念」は、物や現象を観察し、それをそれと<認識する働き>の部分であり、物や現象自体ではないことがわかるだろう。
<物>が<物>を・・認識しているという考えが「唯物的」観念である。
正当さも論理性もどこにもない、ただの見てくれのみの平面的観念である。
それは認識をする当の自らの意識を、対象<物>に自己同化しているのだ。
認識・・・それ自体は肉眼視できない<働き>であり、物ではない。
また、認識の働きがなければ、物や現象は起きることは無い。
その逆ではないのだ。
あらゆるすべて、宇宙全体の<自己認識>の働きを称して、神、創造主ともいう。
またその認識を生じる元を 「素の意識」・・「普遍意識」ともいう。
それはまさに 「空(くう」 としか言いようがない。
それをすでに意識的存在である人間は誰でも気づくことが出来る。
存在諸世界に生起し続けるあらゆる事物や現象や、それをそれとして観察・認識するための「思考」や「観念」をも超えたところに、
いつも、今までもいたのが・・・わたし・・である。
今在る・・・。
ありとあらゆる全てを生じるところの、謂わば 「空(くう)」は、確かに見逃しやすい自己自身の・ふるさと・ともいえるだろう。
なにか問題があるのだろうか?
いいや、何もありはしない。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
お久しぶりです。
なんと・・・そうでしたか、ご報告いただきまして、
本当に有難うございます。
コメント文を拝見していると、どこか、
彼のマスターの、修羅場を通り越した後の・・・本来の愛らしさというか、
また、何がどうあろうと絶対に頽れない、
本来ごく普通にどこにでもあるべき・・・
「愛」が感じられます。
あなたも、自らの意図で・・・それを授かったのですね。
有難うございます。