気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

さらばエゴの時代

2012-06-03 09:13:38 | 覚醒意識

一体「なぜわたしは生きているのだろうか」等という問いかけをしたことが誰でもあるに違いない。

 

若い頃、青年時代などは特に、人生に関する、形而上的とも言える疑問や問いかけをしたことがあるはずである。

 

人間とは何か?

 

人生とは何か?

 

ある意味で、社会の流れに流されていない若い時代には、そのような人生上の根本的な問いかけをするものであるが、

 

いつの間にか、一見もっともそうな、先に生きていた大人達の創り上げてきた世界、実際には混乱した世界に自己投入せざるを得なくなり、

 

多くの人々が、目先の忙しさや競争に埋没し、四苦八苦しながら人生をおくることになるのが常であったろうか。

 

大勢の人々のあーでもない、こーでもないという混乱した価値観の中で右往左往し、あれが良いとかこれは悪いとか、あれがメジャーだ、これが流行だとか、それはマイナーで悲惨だとか・・。

 

我々はある意味で、収入を上げるために、より生活を安定させるために、あれやこれや獲得しながらも、

 

様々な価値観念という、潮の渦巻く集合意識の海の上を必死で航海している航海士ようなものである。

 

人々は、そういう混乱した社会の渦の中で右往左往しながら、あるいは貝のような自己保身に徹しながら人生を送ってきたのかもしれない。

 

それはあたかも、いままでのこういう世界が当たり前であり、当然のこととされているからこそのことであったはずである。

 

それが常識であり、それが当然であるという風に何処か、いつか教わったような漠然とした信念を持っていたに違いない。

 

あなたはどうだろうか。

 

・・・・ 

更に言えば、

 

かれらが偉いとか、奴らは闇だとか、あいつらはダメだとか、こちらが強いとか、あちらは弱いとか、そういう造られた生存競争の只中にあっては、

 

当然のように、生存の確保の為に人を出し抜き、嘘を言い、あるいは真実を言わないことで責任を回避しようとする者たちも現われてくるし、

 

まるで風見鶏のように、外の世界に従いながら、実は内面の精神を棄損しながらも、そのような世間という濁流のごとき観念の流れの中を、必死で泳いで生きる者も現われてくる。

 

特に昨今では嘘と真の混ざり合ったメディアによって流される政治、経済、世界情勢等の報道等によって、

 

その渦の中で必死になって踊っているエリート達の姿がバレばれとなって現われている。

 

まるで伏魔殿のステージで踊り狂う、色気も面白げもない踊り子さん達のようである。

 

それらを観て笑いながら、怒りながら、陰で罵倒しながら、それを楽しんでいる者も今では大勢いることだろう。

 

あなたが世界を俯瞰しているならば、それに気づいていることだろう。

 

その彼らとは、奴らとは、自己保身に特化した、いわゆる物質偏重的な文明の象徴なのである。

 

世界のトップに立って政治・経済等のお芝居を演じている者達は、決してエリートあるいは偉い者たちというわけではなく、

 

自己保身をテーマとした物質偏重理念の哀れな体現者なのである。

 

例えば、

 

国家、社会の為と称しつつ、危ない原発の利権にしがみつき、あるいは利権の周囲に流れされる、貨幣という「最初はおいしい猛毒」で生計を立てようとする者たち、

 

あるいは、国家経営が赤字になったその原因を白日のもとに曝さずに、さらにその理由なき、説明なき赤字の穴埋めを、更に庶民に肩代わりさせようとする政治家達・・、

 

また世界においては、リーダーシップをそれなりに実施している為政者の国を異端の宗教や悪の独裁と罵り、

 

逆にそこから反発を受ければ、それをこれ幸いに理由付として悪漢イメージをメディアで流し続け、どこか愚かな民衆に口実を植え付けた段階で、その権利も何もないよその国に空爆を加えることを正当化するようなどこかのエリート達・・、

 

次から次へと悪や問題を自ら創り上げては、あろうことか大勢の第三者の犠牲の上でそれを解決するというパフォーマンスを繰り返しながら、実のところは物質的な富を簒奪するという話である。

 

・・・おバカにもほどがあるのだ。

 

余計な御世話かもしれないが、一体ぜんたい何の為に、この世界に生れてきたのだろう。

 

そういう者達は、本当に、地位や名誉や物質的富に普遍的な価値を見出しているのだろうか?

 

・・・

  

いやいや逆に、そういう演技をしてくれているために、そのおバカさ加減がわかろうというものである。

 

しかしながら、何百万の命を奪う行為をしておきながら、それを口で泡を飛ばしつつ正当化に努め、表面は平然としていることに彼らの霊的無知と、その精一杯の姿に深い哀れさを感じないではいられないではないか。

 

・・・ここまで晒されれば、観衆である者たちは、もう十分に理解が出来ることだ。

 

この世界で眠りこけた魂たちは、その不快感に嫌々ながらも目覚めることだろう。

 

あまりのやり過ぎとその不快感に目が覚めて、地球の大勢の人々がブーイングを始めたのかもしれない。

 

単に魂の目覚めの為のやり過ぎ・・・そういうことかもしれない。

 

何事にも意味があるものなのだ。

 

 

現代社会というものを俯瞰すれば、 

 

人々がどこか崇め奉っているお偉い者たちは、民衆を保護し、多くの人々の為の仕事、いわゆる公的な仕事をしているはずのところが実はそうではなく、

 

公の福祉、生活向上・・それを建前として、あるいは錦の御旗に立てつつ、

 

公(こう)ではなく私(し)の生活向上、地位の確保、利権による利益の奪取を潜在的な主目的としてしまっているようではないか。

 

そこに積極的な悪意は感じないものの、ズルズルと致し方なくという形で落ち込んできたようであるし、

 

結局は、滅私奉公どころではなく、どこか滅公奉私になり下がってしまったのだろう。

 

そう、それは

 

「自分が生きるためには他を犠牲にしても致し方ない」という、見えない支配的な観念でいつの間にかからめ捕られているということだ。

 

それが集団的な価値観念という「檻」というものである。

 

・・難しい話でも何でもない。

 

それは、実際何かと言えば 「行き過ぎた自己存続」 の観念である。

 

その自己存続へのあくなき執着とは、自己が肉体であるという唯物的観念から来ていることは明明白白であろう。

 

・・・

 

執着した自己の現われ様を<エゴ>という。

 

エゴとは、常識という虚栄の観念で投影された、偽物の<自我像>である。

 

またエゴとは、自己存続に特化した「こころ」のことである。

 

ある意味で、今まではこのような「エゴ」の文明であったと言えるかもしれない。

 

世界を見ている心ある人々は、そのエゴ的文明の終わりを予感していることだろう。

 

いや、それは予感ではなく、既に終わってしまったことなのである。

 

意識的に気付く人々が多くなるに従い、それは一般共通現実となるものだ。

 

また、時系列という流れで生起する結果としての現象は必然的に生じてくるものであり、またそれら様々な崩壊現象に一喜一憂すべきではないだろう。

 

それら去りゆく一時代の幻燈映像に、執着も憤りも恨みも持ってはならないはずである。

 

どんな物事にも意味があり、深く大きな意識のなせる技であればこそ、それに感謝を忘れてはならないはずである。

 

それ見ている、観ているところの、あなたや私たち自身を忘れてはなるまい。

 

変わるのは外ではなく、内面の意識であり、内面の変化に応じて当たり前のように外たる映し絵が変わってゆくだけなのである。

 

内なる面と、その現われである外の面との相関関係は、

 

自らの人生体験を通じて営むべきはずの

 

「自己観察」を経なければ決して実感できるものではないはずだ。

 

単なる霊的、あるいはスピリチュアルな知識だけでは、浅い理解で終始するかもしれないし、ただただ、より良き外の変化を待ち望んでも、いつもどこか期待外れであることがわかるかもしれない。

 

目に映ずるところのこの大宇宙は外に展開された無限大の現象であるが、現象の背後には必ず現象と不可分一体となった現因、あるいは法則があることは理解出来るはずである。

 

わたしとは何か? 

 

意識ある人間の問いかけは、

 

まさにその宇宙という全体存在の、

 

今、在りて有ることへの問いかけと不可分一体なのである

 

翻って、

今の大いなる変容の時代を生きているそれぞれの<わたし>とは何か?

 

あなたや私たちは、どうありたいのか?

 

いつも、いつの時も、どこにいても、それが全てなのである。

 

世界は意識と意図で紡ぎだされているのだ。

 

難しい話はどこにもない。

 

・・・

愛こそが、言葉に出さずとも当たり前の感覚であり、

 

共感こそが、理論でなくフィーリングで実感できることであり、

 

真実こそが、顔をそむける必要のない知恵となり、

 

人生こそが、深い感謝と喜びの連続した体験学習であり、

 

人々こそは、根源から出てきたところの兄弟姉妹同士なのであり、

 

それらこそが、歪んだ観念という物差しを外したところにある、

 

真なる「常識」である。

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。 

 


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