我々の「体」にはそれぞれはっきりした<姿形>(かたち)があるし、重さも容積もある。
「こころ」はどうかと言えば、物体や身体のような、いわゆる3次元的な容積があるとは言えない。
しかしながら体もこころも、それらを知ることが出来るのは、要はそれらを対象として認識することによるのである。
体の形を認識するのは五感であり、それは当たり前であるわけだが、 こころ自体を認識せよと言っても当初はなかなかピンとこない。
それは こころ・・の形が、体のような3次元的物体形で現われていないからである。
確かにこころは肉眼で物質的な形態に見えるものではない。
逆に言えば、眼に見えないからこそ<こころ>の働きというのは、3次元的ではないということでもある。
五感の知覚は主に物体を認識する為にあるものであり、逆にこころ自体の認識については、五感以上の高い意識レベルに自らの認識を上昇・拡大させることが必要なのである。
しかしながらそれは、見えないものを盲信することではなく、より広範囲に真実を探求する<魂>の意向を意味するものと言えようか。
またこころを見るということは、・・・こころの働きを意識する・・・ということであり、肉眼や触感のような与えられた知覚を超えた働きに気付くという事でもある。
これは言わば魂の経験レベルの、1つの大きなステップアップ、飛躍を意味しているのだ。
こころによって方向付けされる自己の運命、あるいは経験を自らで方向づけることであり、自らの方向指示器、あるいはガイドを獲得したとも言えるだろう。
それまでは他者や社会の中で埋没した有様のままで、右往左往することになるし、
環境や社会がどうなるかによって、それに巻き込まれることで数々の不幸や不都合を経験をする羽目になると信じることで、
外の世界の改革や革命が常に必要と思ってきたわけである。
だからこそ変化や変遷が起きてきたわけであるが、かつてそれによって多くの人々に平安が訪れたことはないのである。
あの人が駄目ならこの人だとか・・・そんなことの繰り返しなのだ。
まさに、「こころ・・・ここにあらず」・・・・であったからなのだ。
それに違わないだろう?
・・・・
こころ、精神・・・・まあ・・在るのはわかるが、形がない・・わけで、 実はこころは・・・ある表現をすれば、所謂ところの<高次元>に属するものと言えなくもない。
高次元とは、少なくともこの3次元を超えている存在形態を意味するだろうし、 また、想念は物理次元を超えて伝わることがわかっている。
ここで言う「次元」とは、宇宙の展開する多次元構造等の事ではなく、それらを認識することの可能な、人間の意識レベル・認識レベルとでも言えるかもしれない。
言わば、高い次元とは、より広く・深く・精妙に認識することが出来る意識の働きのレベル・・・とも言えるだろうか。
またそうであるからこそ、実のところ想念は我々の認識しているところの世界観、あるいはそれを構成している<時間・空間>をも超えているのだ。
また気付けるごとく、時間空間を超えているが故にこそ・・・、この時間・空間へ関与あるいはその生成が可能となる。
想いやこころが人生を形造る、あるいは環境や現象を形造ると言われるのは、
意識の働きである「想念」が、
その情報・イメージによって潜在的なエネルギーを顕在化させ、
それが表現されること、物体化、現象化を促す・・ということを示すのである。
これは自分の環境生成や成果の有る無しにも大いに関わるし、あるいはもっと極端な引き寄せ現象や、念による現象化、あるいはテレパシーやシンクロ二シティーと言われる不可思議な体験にも当てはまるのである。
あなたは・・・このことに気づいていただろうか。
そう、 汝が信じるごとくに・・・汝になる。
まさにそういうことを言っている。
科学的な解釈においては、
未だ相対論的四次元時空を超えるもの、端的に言えば光より早い粒子があるとかないとかの物理科学上の話があるが、
それは多分電磁波的観測機器の範囲の話であり・・・あくまでも現象を観察する「意識」そのものを除外して扱っているということであれば、
方向が正しそうに見えて、実は還元論的時空の辺境をどうどうめぐりしているようなものであろう。
このような機械的宇宙、あるいは還元論的宇宙、すなわち意識の介在しないとされる世界認識レベルが、3次元世界と呼ばれる認識レベルのことである。
観察すること、あるいは想いという、ある意味でどこか「主観的」と言われる方向こそが、この世界の共通認識である、物理的四次元時空に<直交>している高次元軸なのだと言って良いだろう。
時空を超える次元のものを時空内に探しても、多分それは影のようにしか見えないはずである。
素粒子の挙動が人の観測によって異なってくるという量子論の結論は、決して例えの話ではなく、観測する高次の意識方向に、時空を超えてあるところの<次元軸>を暗示しているのだ。
意識的存在である人間は創造に参加している・・という意味はここにある。
・・・・
逆に、想念・感情すなわちこころが3次元的でないからこそ、こころというものが見えないとされつつ、今までは物や容、重さの方にばかりに気を取られてきたということだ。
物も、銭も、家も、地位も、権力も眼に見え、聞こえるような実体としての形態や力であると考えてその獲得に腐心してきたのだろう。
たとえ程度問題はあっても、世の中の流れはそういうことになっているはずである。
それを称して、3次元世界、あるいは3次元的世界観と言ってきたのだ。
・・・
いつも自分自身の回りにある創造の原点である「こころ」が見えないような文明であり、かつまたそういう風に仕向ける何かがあったわけである。
そういう風にマインドコントロールされてきたのだとも言えようし、またそのような外からの操作に気づいてきたわけである。
気付かぬ間の無意識における、苦痛と搾取をともなった保護支配のようなものかもしれないし、あるいは気づけば、余計な御世話以外の何物でもないわけである。
今その分岐点にあることは、様々な情報からも伺い知ることが出来るはずである。
人類の意識進化の分岐点である。
・・・
端的に言えば、こころは肉眼で<見る>のでなく、意識すること、意識で直接知ること、要は意識で直接<観る>と言われる所以なのである。
またある意味で「こころ」とは・・・全包容的意識、あるいは全体意識の個別的な働きとしての魂が、高次元から地上を観察する・あるいは認識するためのツールのようなものでもあるだろう。
様々な歴史上の魂の教師、霊的指導者等と言われる存在達が、物質でなく精神を大切にし、その昇華を幾度となくその生涯を通じてアナウンスしてきたこと、
こころを平安に保ち、あるいはその中で障害物となる過ぎたる物欲や生存欲を静める修養を勧めて来たのは明確な理由があったのである。
いわゆるところの高次元からの働き、意識の意図をこの次元に写像として結実させる創造原理の方に気付くように促してきたのである。
より高次の次元は、物からでなく・・・それぞれのこころ、即ち意識上の認識を通して現われる。
意識・・(意図) ~エネルギー ~現象化(物) という流れのままであり、決してその逆ではない。
真の教師達は、「認識」によって顕れた結果、物や現象のほうではなく、それを生みだす「認識」そのものに注視するように促してきたのだとも言えようか。
観ることは、観察、あるいは認識することであり、その行為によって現象が現われるとも言えるわけであり、
また我々はこの世界に在るが決してそれに属していないという意味は、
意識ある存在は、より高い次元の因たる者であり、現われた現象この世界の方には属していないと言う意味である。
なるほど、こころの働きというのは、世界を造り上げるところの人間の認識力の働きであるからして、どうしても、こころあるいは精神を第一にせよということになるのだ。
しかしながら、見えないものの話であるからして、
存在していても見えないもの、触れないもの、すなわち所謂(いわゆる)高次元にはなかなか気づけないかもしれない。
高次元は、そういう形態世界自体ではなく、それを生じさせるところの意識レベルのことなのである。
そういう意識レベルの生命達が集まれば、必然、その写像として展開される現象世界はより高次の有り方を呈するのである。
そういう世界は、いわゆる宇宙に無数とあるわけであり、かつてイエスが言ったされる 「天には沢山の住まいがある・・・・」 ということなのだ。
昨今の宇宙人等の話も、どこか物質科学的なものに特化しているようだし、攻めてくるの攻めないのと言うような、恐怖と期待の入り混じった、なるほどながらの他者依存的な3次元的意識レベルを示しているようだ。
この地球ワールドもその中の1つの家のようなものであり、今またその様相をより高次あるいはより高い周波数帯とも言えるレベルに変えようとしているのは、
あなたやわたし達がつねに向上しようとしている本来の魂意識の有り方と全く変わりがないのだ。
宇宙というのはそういう進展を楽しんでいる意識、およびその個性化された意識達の遊び場のようなものと気楽に考える方が理にかなっているのである。
唯物論、還元論、あるいは手前勝手な唯心論はそのどちらも正当でなく、
全包容的意識の有り方に、あるいは宇宙・大自然の有り方を観察しつつ、調和を維持しながら、それぞれの自己の想念を実り豊かな創造につなげてゆくことが本来の道なのだ。
しつこいようだが、
3次元的世界観を超えてさらに自由度の高い在り方に移行するには、いわゆるところのこの物質的3次元に直行する<軸>としての意識の働き、<こころ>の統御が当然ながら必要なのである。
確かに、すぐここに、すぐそこに、あるいは自己がそれそのものであっても、まともに近過ぎるがゆえになかなか気づけないかもしれないし、
様々な想いや観念が「こころ」というレンズに付着しているのもなかなか観てとれない段階がある。
確かに、こころというレンズに汚れがあれば、まともな像は結べるはずもない。
物事はシンプルである。
それはまさに、心の中に占有されている様々な常識観念・固定観念という、歪んだ認識形態の影の浄化が求められる所以である。
今わたし達は、自らのこころを浄化しなければならないはずである。
そして、それが出来るのはそれぞれのあなたでしかなく、
昨今急増しているやに見える外の世界の騒ぎや、愚か者の演技や、偏向された嘘八百の情報の類を浄化する必要はないのだ。
自由意思の原則は他者を拘束しないのである。
外の世界を変えようとする、もっともらしいお為ごかしの最後の<罠>に騙されてはいけない。
自らが変えるのは常に自らであり、結果として投影されるのが世界である。
それぞれのわたし現実・リアリティとは、
どこかの大勢の他者の動めきのほうでなく、
それぞれの自己の想いの周囲に投影される写像のほうにある。
今はもう、
外からの付着物で満ちた自分のこころを清め、
自らのより良き想いをそのこころに満たすという時期に来ている。
例えば、最も簡単な修養方法は一点集中である。
普段の当たり前の生活の中で、
自らのこころの動きに気づいていること、
そしてまた、あなたにとって信じられる範囲で、
最も好ましいイメージを・・忘れずに、こころで固持してみるべきである。
それを忘れないだけで、いつでもどこでも可能であるが、
・・・・さてどうなるか、自ら実験せずば理解が出来ないはずだ。
科学的な態度とは、確かに・・・実証で確認することではなかったろうか。
「時間」とはその為にあるようなものだろう。
・・・・
時間空間を超えた次元に属するところの想念は、常にそれぞれのあなたから湧き出していることを忘れないことである。
無理に他者に合わせたあげくの、干からびた収穫に嘆く愚はもうやめにしよう。
象徴的な言い方かもしれないが、
本当に・・・・、
それぞれのこころの容(かたち)あるいは王国はそれぞれの内に在る。
またそれは<それぞれ>と言っても、バラバラ別個等ではなく、道は1つにつながっており、その真なる、内なる王国には、あなたやわたし達、全ての存在達がいることに気付くだろう。
・・・
一は 即ち 多なり
多は 即ち ひとつなり。

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。