こころとは人間の主観的な働きと理解されている。
こころ、それは思考であり感情、そしてその記憶であると言えようか。
思考は内的イメージであり、例えば記号や数式や言語を使った論理的な思考と言われるものも、すでに良く知った固定イメージを組み合わせて行われる「想像」あるいは内的イメージと考えても良いだろう。
思考とは、言わばイメージ及びその組み合わせの事であり、よく知っている組み合わせを既知の概念と言い、古い記憶に無いものを未知の概念という。
思考は、いわゆる「頭に浮かぶイメージ」のことであろう。
人が「今何かを考えている・・・」という時には、何か有効なイメージを探していることを示している、そうしてふと、腑に落ちるようなイメージがやってくると、理解したとか、あるいは何かを決めることが出来る意識状態になったとか思うのである。
また「感情」は体の五感を中心とした<思考への反応>である。
<好き・嫌い>は自己にとって都合が良いとか悪いとかいう反応であり、
<恐れ>はその中で明らかに自己にとって都合が悪いと感じる強い反応である。
自己にとって都合が良いとか悪いとかの反応は、自己の存続と維持にとって都合が良いとか悪いという肉体レベでの反応基準と、
所定の概念、既成の観念の存続と維持にとって都合が良いとか悪いとかという思考レベルでの反応基準があるだろう。
感情・・・、それは即ち、身体機能の存続と維持、あるいは既成の概念、観念の存続と維持からくる心的反応とも言えるかもしれない。
人々の多くの感情は、このような自己の不都合・好都合をベースにした無意識的な反応によっているはずである。
宗教や国同士の争いも、自己存続、教義や信条での好都合・不都合から起きるものであり、言わば「感情」の問題であることがわかるはずだ。
それらは暴走した幼児的な「感情」なのである。
なるほど、<感情>は論理的に順次生起するものではない。
つまり感情は、思考、イメージの組み合わせによって起きる心的直接「反応」と考えるべきなのだ。
例えば、「怒り」・・・は思考でなく、思考によって起きる・・・つまりそう・・「感情」である。
・・・
ひるがえって、
人間の最も重要なテーマは何だと言えば、
あなたもわたし達も、誰も皆例外なく、
この思考と感情・・つまり「こころ」を自己制御することなのである。
その為の大勢の人が世界にいるし、あるいはまた社会というものがあるのだ。
短絡的に考えるような、金もうけや立身出世や支配や権威の生成の為ではない。
・・・
思考と感情というものがしっかり制御されないならば、様々な人間関係のトラブルや不都合が起きることは誰でも理解できるだろうし、
それらによって不幸や障害が起きてくるのは誰でもわかるはずではないか。
それぞれのこころが自らで制御出来ずして、外のシステムによって自己が自己を制御出来るわけもない。
外のシステムによる制御を、すなわち支配と呼ぶ。
仕組みが悪い、世間が悪いと叫んでいる者も常にいるのが世の中の常であるが、・・・・外が変われば自分も変わるなど、それはまるで、籠の中に閉じ込められて自転する輪を回し続けるはつかネズミを、可哀そうだと言って快適な住居に無理やり住まわせるようなものである。
ネズミがネズミであれば、どこに住もうと何も変わりはしない。
人間がオウム返しのような感情の反応に従うこと、条件づけされた機械的反応しかできない「パブロフの犬」のようであるならば、
それは自らが人間の「自由意思」を放棄したも同然であり、結局は外的刺激の奴隷になって右往左往することになるのは、火を見るよりも明らかである。
・・・・
実に、今までの人類の歴史はまさに<こころ>によって、気付かぬ間にもてあそばれるようなものであったと言えるだろう。
こころを制御できないために、争いが絶えず、
こころを制御できないがために、人心に安寧が訪れない。
それは決して金や食物や公的サービスが足りないためではないし、
法的システムが不備だからではない。
あるいは不特定の他者が極悪だからでもないのだ。
・・・
こころが認識しそれを認めなければ、認識の対象となる存在などあり得るわけもないのであるが、
どうしても自分以外に自己の不幸や幸福の原因を求める風潮が絶えないようである。
こころはマインドとも呼ばれ、人間の思考や感情、行動、表現の根幹にあるものであり、
人々の「こころ」が自分勝手に反応し、行動を指示している・・ことに終始している有様に気付くことが、人類の次へのステップにとって絶対避けて通れないテーマである。
なぜならば、こころという創造エネルギーを理解せずして、より良き環境は造れるはずもないからだ。
現象を切り貼りするような物的機械、ブルドーザや重機、爆撃機などで創れるはずもないではないか。
・・・
古来からある内観、内省、あるいは瞑想はその為の・・・、魂の眼ざめあるいは霊的覚醒の為の、宇宙的、あるいは普遍的ともいえる修練の1つなのである。
またその修練を通じてこそ、外界という鏡を見つつも、それを映し出す原因であるところの自己意識の有り方を習熟してゆくことが出来るのだ。
気付かず知らずではあったかもしれないが、そういう魂の学びの体系の中にあって、昨今急増しているように見える外の世界、国々、社会、人々の混乱状況は、
確かにそういう魂にとっての学びの1つの卒業ポイントなのだ。
我々は、それを越えることが可能な自己、それぞれの本来の自己自身を思いだす、あるいはより高い自己を認識する必要があるのだ。
外の世界の動きや騒ぎに決してこころ奪われず、
あるいは血縁の関係、子供や親や親類などの過ぎたる執着を解き、
物欲や権力欲、過ぎたる性欲や自己生存欲に振り回されず、
それぞれがここに生きてあることの原点に、戻らなければならないはずだ。
それは確かに、いつでもどこでも可能であったことである。
・・・・
自らの意識の焦点を、自らに向けることである。
与えられた日々の時間・空間を使って、
自分のこころを観る修練をしなけらばならない。
観るのは・・・・
他人のこころに従った他人の言動や外の世界の方ではなく、
それに反応する自分の<こころ>であり、
その内面反応やイメージの様々に湧き出す様を、
そのまま観ることが重要なのだ。
つまり意識の働き自体に 気づいているということ である。
静かに一定の時間を瞑目しても良いし、普段の生活の中であっても、
自分のこころの反応を、それに没入して終わらせず、その反応自体を、それをそれとして観るということである。
例えば、ある怒りが湧き起るような状況であれば、怒っている自分のこころに気づいている・・ということだ。
悲しみに沈んでいるとしたら、その悲しみに震えている有様に・・・、気づいているスタンスを持つことである。
こころの動きに自己投入してしまえば、そこは闇となり、
逆に、自己投入している有様・・そのものを観ることが出来るならば、
それは・・・高次の自己の眼ざめ、あるいは本来の自己を思いだすことを意味するのである。
それは日常の生活における自己観察でも、あるいは身体が休息している間の<夢>や、あるいはそれを越えた意識レベルでの体験でも同じことである。
夢も・・・膨大な意識からの有意味な情報の取得等をも表しており、夢夢おろそかにしてはならない。
夢が夢であることに気付けるような、いわゆる明晰夢と言われるものも、様々な内面の情報に意識的に気付けることを示しており、
さらに大きな本来の意識的自己に拡大つつあることを示している。
・・・
要は出来得る限り 「意識的であること」 である。
没我・・とは、わたし・・が・・何かに自己投入し我を忘れている無意識的・意識であり、またそれはこの地球の人類の平均的な意識レベルでもあったと言えようか。
・・・・・
無意識や条件反応に陥らず、
最も身近である意味困難とも言えるところの、自分自身のこころの観察が出来るならば、
こころの中にある様々な歪み、あるいは今生だけでなく、他生に渡って蓄積された記憶の中にある、カルマという歪みも観ることになるはずだ。
カルマという歪みも、それらを対象として認識し、それを昇華することで、無意識の中にある「解かれるべき歪み」は解消されることになる。
自らのこころを観る修練は、それが修練というのが適当かどうかは別にしても、意識の拡大過程にある魂にとって、宇宙的・普遍的な<道>のようなものである。
いまはある種の大きな学習サイクルのターニングポイントのステージであり、
その魂の謂わば学習の道が2つに分かれつつあり、
再び迷宮の時空につながる、幻想で出来た自己制御不能の迷い道に入り込んで惰眠をさらに貪るか、
あるいは、「こころ」という制御された馬車に自ら乗ることによって、時空を駆け抜けるようなより自由度の大きい<大道>を歩くか、
何がどうというわけでもないけれども、
それはそれぞれの魂の目覚めとその程度に従った<選択>と、
そして意識的な行動、探求と修練によるのである。
その為にこそ、どうということも無い、<今>という当たり前の日々がある。
感謝すべきこと、あるいは
こころすべきは・・・それである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
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