身体はこの世界で造られた非常に精巧に出来たものである。それはダーウインの進化論的な考察でもうかがい知ることが出来るだろう。
種の起源で示される生命種の派生と進化は、この世界の物質的な組織化の系譜を示しており、それはより複雑で繊細な意識の表現体としての必然たる進化を表すものだ。
問題は眼に見え聞こえ、質量や大きさで計れるような、いわゆる3次元的なものだけが観察対象となっているために、形態・物理的な進化しか窺い知ることが出来ていないということだ。
いやそれを超えたところの「こころ」の進化、あるいは魂レベルの進化に関しては、物理学的・医学的・植物的な観察方法では理解が出来ないということを示している。
そう、ここから先は物質レベルの理解・観察方法ではなく、主観的とも揶揄されるところの意識的観察、
すなわちマインド・想念の理解、そして身体・こころを生じせしめているところの魂レベルの自己からの促しが必要ということである。
わたしは誰? ここはどこ?と言うような、自己存在からの根本的な問いかけに気づき、この世界の中にあってもこの世界にまったりと属していない、より大きい普遍的な自己への気づき、あるいは言わば意識的拡大・「視座の上昇」を遂げることが大切なのだ。
この世界にズーム・インして、そして小さな観念で固定してしまった意識的視野を解除し、自在にズームイン・アウトが可能な本来の「魂意識」たる自己に進化、あるいは根源の方向への復帰を果たす必要があるということである。
次元上昇とはそういうことであり、アセンションの意味もそういうことであり、行き詰まり、飽和したこの物質次元世界の有り方の転換や崩壊もそういうことから派生する必然的な変化なのである。
「皆さん・・もう古い在り方は飽和していますよ。勇気を持って脱皮する時ではありませんか?」
ということなのだし、あるいは、
「無限ループに陥った間違いプログラムはもう修正・デバッグの時限ですよ」
という事でもあろう。
・・・・
我々が本来魂、あるいは高次元的存在であるということは、脳波測定やDNA解析だけでは理解が出来ないだろう。
それらは今のところはあくまでも肉体機能から生ずるところの、派生的な微々たる脳の電気的波動や身体設計図の読み取りにすぎず、
本体である魂への大いなる気づきに根本的に貢献するものではない。
魂たる<わたし>の理解は、自らの自らへの観察が必須な事項なのである。
あるいは世界にある様々な虚飾のなかに見え隠れする真実を、自分の感覚で嗅ぎわけることが必須な事項なのである。
一律的な知識の量産を待ちわびるわけにはいかず、
自らの経験あるいは観察を通じて理解されるべきものであるとも言えるだろう。
確かに多くの人間達が、いわゆる高次元的存在である自己に気づいて来るならば、それは合意された現実認識となって誰にも説明可能な科学的理解になるのだが、それを待つことは本末転倒となるだろう。
なぜならば、それぞれの<わたし>のことであり、
まさに他人ごと・・・ではないからだ。
要は「本当の自己とは何か?」・・・をそれぞれの自己が発見する真剣な姿勢が必要であるということであり、
みんな気付かず一律に・・・いつの間にか・・というような無自覚、無意識的、あるいは大量生産的なレベルでのテーマではないということだ。
目覚めはいつも<わたし>・・・と言うのはそういう意味である。
・・・・
最も簡単で根本的な理解の1つは、稀にある臨死体験による当事者の直接的で瞬間的な気づきであろうか。
臨死体験は、世間の人々がその眼をふさいで見ないようにしている、また誰にもある死と言う一線を一時期超えた直接経験であり、おいそれと多くの人々が近づくこともままならない経験でもある。
あるいはヘミシンク等でも有名な「意識」の身体からの離脱経験による直接的な理解であろうか。
あるいは瞑想中の意識におけるある種の直覚知、あるいはリモートビューアーのような時空を超えた知覚の直接的体験も含まれるだろう。
それらは全ては、与えられた理論・観念の中の組み合わせではなく、自らの経験での「直接知」であるということだ。
このような自らの直接体験は、他人から聞くような単なる知・情報ではなく、あからさまな経験から生ずる絶対的な気づきとも言えるだろう。
そういう絶対的ともいえる気づきは、いわゆる「悟り」とも共通している。
それは確かに腑に落ちる・・と言うレベルを遥かに凌駕した真正の経験とその理解なのである。
こういう肉体と、より高次な自己の分離・・という直接的経験は、
あからさまに自己が肉体ではないという真実に遭遇することを意味しており、
そこでは知的理解以上のものを否応なく自覚せざるを得ないのである。
誰がわーわー騒ごうと、それは幻覚だとか、思いこみだとか、脳内ビジョンにすぎないと定義づけようと、そういう一見科学的な見解こそが所謂ところの<主観>にすぎず、
実際の経験に即していない単なる戯言(たわごと)と解るはずである。
確かにこの世の中には、嘘と無知がはびこっている為に、何が正しいのか、何が真実なのかわけがわからぬ状態であり、いきおい政治的、経済的・知的・学的権威と称される人々の意見を聞いてしまう風潮があることだろう。
しかしながらそういう権威筋と称される者達は、ある狭い分野の知識や見識は豊富であるものの、その地位や名誉に安住し、未知なることに対するオープンなこころが閉ざされてしまう傾向があり、真正なる知的好奇心が委縮している場合が多いのだ。
新しいものを全て「とんでも」と称して自らを権威づけ、古い体系に安住する者達も多いし、
また、そういう権威筋からの、所謂大量生産的な開示、ディスクローズ・情報開示・真実の公開を待ちわびていたとしても、逆にそこからは得られないという矛盾に気付けるだろうか。
特に3次元的有り様の飽和点に達した現時点では、そのような他者依存、あるいは日和見の意識の方向の先にあるのは、昔ながらの世界観のような断崖絶壁のようなものかも知れない。
それぞれの意識達が自らの肉体のみに執着し、あるいはマインドの癖に閉じ込められ、本来の自己であるところの魂の無限性に目覚めないならば、
当然のごとく有限の壁やあるいは有限の断崖に至る体験をすることになるのも至極当たり前かも知れないということだ。
確かに、平面次元に出来てしまった世界という「迷路」を抜けるには、上に眼を向け壁を乗り越えるしかないということだ。
あるいは逆に、自己が何かを知ることによって否応なく「迷い道」から抜けることになるのだと言えようか。
・・・
臨死体験者や体脱経験者は世界に相当数いるはずだし、その言説・報告・書籍も相当増えてきたわけだし、
また前世の記憶に関する準アカデミックな報告類も増えている時代である。
それら、混濁の世界にあって、まるで飛び石のごとく設えられた真実の階段こそが、本来のディスクローズなのである。
飽和した時代と共に現われているそういう真実にこそ自らの意識を集中しつつ、
おのれが一体何者か、どこから来てどこに行くのか?
わたしは誰?ここはどこ?・・・
そのような一体どうしてそんな思いが出てくるのかというような疑問、
・・・・
今はもうそれら、生れたときから誰にもある根本的な問いかけの解答を自らで得るべき時期にあるということなのだ。
まるで今までの人類の多くは、オギャーと生れた瞬間から、現実といわれる造られた迷い道、生と死という路肩の狭間の中で汲々としつつ、恐れと無知で舗装された細いループ道を歩いていたとも言えるだろう。
しかしながら、
平面次元でのループ(閉じられた輪)は、次元上昇によって進化する螺旋に変化していることに気付けるならば、
ひょっとしてあなたもわたし達もここにやってきた久遠の生命としての本分を果たした、あるいは直接識ることが出来たと言えるのではなかろうか。
良きかな・・ 良きかな・・ である。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
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