見えない目

 「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
……
 カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」
 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。」(マタイ11:16-17,24-25)

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 マタイ福音書は、二箇所、イエスが人々を責める箇所がある。
 うち一箇所が、この11章。
(もう一箇所は、23章。)
 ここではイエスは、群衆を前に人々(というか街々)を責めておられる。
 何をお責めなのだろう。
 無理解さだ。
 「目の見えなさ」と言ってもいい。

 キリストが来られて、そのキリストによって「盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返」る(5節)。
 それを間近に見ているのに、今ここにいるのは待望していたキリストだ、ということが全く見えていない。
 あまりの無理解さに、イエスもいらだつのだろう。
 私たち人間とまったくおんなじであることの、とても良い証拠だ。

 イエスがカペナウムでおこなった癒しや悪霊追い出しについては、マタイ福音書では8-9章に多く載っている。
 貧しい漁村のこのカペナウムは、あのソドムよりも罪が重い、そうイエスはいう。
 あの姦淫の街ソドムは、イエスの奇跡を全く知らない。
 だが、それと違ってカペナウムはイエスの奇跡の数々を知っている。
 知っている上で、イエスが誰だか分からず、見えない。

 「カペナウムの頃」から2000年を経た現在、聖書というものがこんなにも流通している。
 こんなにも流通していることを、ありがたくおもっている。
 その聖書に収められている福音書でのイエスの言動を読んで、イエスが「どのように」見えるだろうか。
 生活を大幅に向上させて下さるお方に見えるだろうか。
 治らない自分の病を、根源治療してくれる方に見えるだろうか。
 それとも、「キリストに」見えているだろうか。
 では、キリストとはどのような存在かは、見えているだろうか…。

 義眼のような「見えない目」。
 これが「はっきり見える目」になるというのが、いのちであり神の国だ。
 そういうことは、いくらでも起こる。下の聖句にもある。

 「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(マタイ19:24)

 「らくだが針の穴を通る」くらいに簡単なのだ。
(しかし、このたとえは実に巧みだ。)
 「金持ちの救い」のほうがずっと難しい、そのくらいたやすいことだ。
 これが福音だと思う。
 ひとえに、イエスの十字架と復活という「道付け」のお陰だ。


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