律法と十字架

 「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。
 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」(ローマ7:4-7)

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 昨年9月8日に、「神の完全なる秩序」という記事を書いた。
 内容が稚拙なので、引用もしなければリンクも張らない。
 書いた事というのは律法についてであって、この神の完全な世界をあこがれ見ても、それらを守り通せる人など誰一人いない、それゆえすべての人が罪を犯しているのである、というようなことだ。
 「姦淫してはならない。」
 イエスが山上の説教で仰った厳格な解釈を施すならば、これ一つすら全く守ることができない。

 この律法に照らし出されて自らの内に罪を見いだし、その人は死ぬ。
 そしてイエスの十字架と軌を一にしてよみがえって罪から解放されて「いのち」を授かる。
(「死者の中からよみがえった方と結ばれて」。)

 「いのち」を授かって、「キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです」、つまり律法への無力さを肌身で知ることとなる。
 律法自体は不変で、とこしえまで存在するものだ。
 だが、律法にあこがれ、または律法遵守を止めることができるようになる。
 ただこれも、自分から止めることができるという類のものではない。キーは十字架だ。

 「律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。」、これは「死ぬ」前の話なのだが、律法がネガティブなものというわけではない。寧ろ「死のために実を結」べば結ぶほど、「よみがえるための死」に近づいてゆく。十字架を背負ってゴルゴダの丘を登るあたりであろうか。

 「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。」
 上に書いたように、死んで罪( sin )から解放されたのであれば、「十字架の死」への印籠を渡してくれた律法は空気のような存在になる。
(「律法に対しては死んでいるのです。」)
 そうすると、「いのち」へのとっかかりを与えてくれる律法はやはり良きもの、素晴らしきものであるから、それが「罪」かと聴けば「絶対にそんなことはありません」と瞬時に答える。


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