救いの種類

 「そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。
 そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。
……
 群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」
 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」(ヨハネ6:11-15,24-27)

---

 群集は、五千人の給食の奇跡に、このように驚いた。
 「この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」。
 イエスこそキリストだ、そう思ったのである。

 彼らは逃げるイエスを執念深く追う。
 しかしそれは、ただパンのためであった。
 彼らにとって救いとは、労せずして好きなだけ食らうことだ。
 しかし最初の人アダムは善悪の知識の実を食べてしまったため、園から追放されたのである。

 イエスが与えようとする救いは、「永遠のいのち」である。
 アダムの肉が有する罪からの解放だ。
 それでイエスは、そのために労せよと仰る。
 例えば聖書を読むとか、そのような類のことである。
 ただ、アダムの肉から解放されても、園に復帰できるわけではない。
 だから、食うために労することは必要だ。
(「食うため」としか思えないと多分しんどいと思うが、「いのち」を頂いた人はそのようなことはないはずだ。)

 何をもって救いとするかが、立場によって異なるものだ。
 勿論救いとはただ一つ、「永遠のいのち」である。

---
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )