御父の愛

 「私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。
 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。
 キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。
 だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」(1ヨハネ3:1-6)

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 「御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださった」ことだろうか。
 どのような形の愛だろうか。
 人間と同じ罪深い肉をまとった御子イエスを、この世に遣わして下さったことだ。
 ただ、「キリストには何の罪もありません」、肉を持ちつつも聖なる律法に逆らうことは全くなさらなかった。
 このイエスは十字架に架かって、その肉を処罰する。
 肉を処罰して、そして復活する。
 イエスによる罪の処罰、それを御父が認めて下さったのだ。
 ここに御父の世への愛がある。

 「罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。」というのは、まったくその通りだ。
 ところが肉を持つ人間には、聖なる律法を守り通すことが、どうしてもできない。
 「キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。」
 「罪を取り除く」というと、こびりついた汚れをこそぎ落とすイメージがあるが、私はこれとは異なるイメージを持っている。

 「ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」(ローマ4:6-8)

 罪深い肉を持っているにもかかわらず「罪をおおわれた」、「罪を認めない」。 罪の上に何かきらめくものがコーティングされている、そんなイメージだ。
 ともあれ、キリストが罪の解決のために現れてくださったことには、変わりない。
 罪が解決され、御父からの怒りを逃れて和解が成り立ち、こころ騒がす罪は罪として認知されなくなる。
 御父はどんなにか、素晴らしい愛を与えて下さったことだろうか。

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