牧者イエス

 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11-15)

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 「羊のためにわたしのいのちを捨てます。」というお言葉が、繰り返される。
 これは、十字架での死のこと。
 受肉したイエスの十字架が、私たちアダムの子らが持つ肉の罪を処分した。
 そのイエスの復活というのは、罪の処分の正当性についての承認。
 それで、このイエスを信じる者は救われる。

 だが、「わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています」とある。
 イエスという牧者が知っておられるのは「わたしのもの」である。
 また、「わたしのもの」はイエスを自分の牧者と分かっている。

 はじめからイエスを信じることのできる者というのは、いない。
 誰一人、いない。
 キリスト教圏であっても、何一つ事情は変わらない。
 ところがあるところで、イエスを信じるに至る人が出てくる。
 多くの場合、その過程において十字架の苦しみを味わうはずだ。
 その苦しみの果てに、まばゆくばかりの一点を見る。
 そのとき、こう思うだろう。「イエスこそ自分の牧者であり、この方は、はじめから自分を知っておられた」。
 これは、そういう認識に至る(悟り)というのではなく、発見に近い。
 昨日まで、ただの本にしか見えなかった聖書が、全く違うものに見えてくる。
 少なからず「発見する人」がいる。
 その人達の牧者は、イエスだ。
 イエスは彼らを、最初からご存じだ。

 「羊のためにわたしのいのちを捨てます」。
 イエスがいのちを捨てたのは、羊たちがいのちを豊かに得るためだ。
 自分がその羊なのだというはっとする発見を、いずれ体験するに違いない。

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