『恵み』ということ

 「愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。
 というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。」(ユダ3-4)

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 「恵み」という言葉は、私に言わせれば、非常に誤用されやすい。
 楽しいから「恵み」だとか、料理がおいしかったから「恵み」だとか。
 上の引用聖句の中にも、「私たちの神の恵みを放縦に変えて」とある。
 著しい誤用だ。

 個人的な解釈なのだが、恵みというのは、全く自分の力が及ばないところで、ただ神の御力のみによってなされたことを指すのだと思っている。
 更に言えば、自力をあきらめ委ねてしまったところに神の御力が働く、これを恵みという。
 何よりの恵み、それはイエス・キリストに出会ってそしてイエスをキリストと信じることである。
 自力をあきらめ委ねてしまったところに神の御力が働いた結果だ。
 また、その前段階として、しばしば「恵み」と対置させられる律法、この律法に死ぬ、それも徹底的に死ぬこと、これも神の莫大な恵みだ。
(「律法はつらいから恵みだ」という類の対置は、イエスの十字架をどこかに置き忘れているかのような話だ。)
 恵みというのは、風が吹くようなものだ。
 「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:8)
 だからこそ、行き場も分からない「風」によって「生まれる」というのは、ただ神の御力による「恵み」以外の何物でもない。

 「イエス・キリストを否定する人たち」というのは、そもそも「恵み」を受けていなかったのだ。
 そうすると、彼らが「恵み」と「放縦」とを混同させた上で放縦へと走るのも、自然なことかも知れない。

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