新しいアブラハムの子孫

 「さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
 『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」(マタイ3:5-9)

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 さくじつは、ヨハネがもたらした水のバステスマによって主の道がはじまる、というようなことを書いた。
 イエスも、ヨハネから水でバステスマを受けている(マタイ3:13-17)。

 ユダヤ全土から人々がヨルダン川に集まり、ヨハネによる水のバステスマを受けている。
 ところがヨハネは、パリサイ人たちにバステスマを授けることを拒む。
 「『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけ」ないのだ。
 つまり、パリサイ人達は、「信仰の父アブラハム」にならっている(つもり)ということに救いの根拠を求めている。そして、その上にあぐらをかいている。
 ヨハネは言う。「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです」。
 今が正にそのときで、石ころからではないが、イエスという「新しいアブラハムの子孫」、「信仰の始祖」が起こる。
 そのためにこそヨハネは遣わされ、また、上にも書いたがイエスはこのヨハネから水のバステスマを受けた。
 だから「『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言う」ことによる正当性は、もう失われてしまった。
 「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と言われるのも、もっともである。

 ところで、 ヨハネによる水のバステスマを受けたユダヤ全土の人々はその後聖書に出てこないのだが、「主の道」の入り口で安んじてしまったのであろうか。

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