イエスの羊

 「それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。
 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:24-28)

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 さくじつ(というよりここ数日)の続き。

 「もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください」。
 つまり彼らは、自分の目の前にいる人がキリストであるとは、はなから思っていない。
 思っていたら、そんな事はいわずにただひたすら拝むだろう。
 そんな彼らにイエスは仰る。
 「しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます」。

 世には、イエスの羊か、そうでないかの2種類しかいない。
 これは、他の福音書でのたとえ話にも見られる、厳然たる事実だ。
(たとえばマタイ13:24-30 毒麦の例え)。
 ではなぜ、イエスはこの連中に、なおも話し続けるのだろうか。
 それは、この連中の中にすら、「実はイエスの羊なのだが今は到底信じることができない」という人々がいるからだ。
 それでイエスは、どの人をも拒まない。
 自身がイエスの羊だと発見すると、「いのち」を得る。
 常にイエスの庇護の下にいるという安息感がある。

 世には、イエスの羊か、そうでないかの2種類しかいない。
 ただ、自身がどちら側か、ということは、予め分かる類のものではない。
 それでイエスは、今日も聖書を通して分け隔てなく語り続ける。

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