因果律と恵み

 「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
 近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」(ヨハネ9:1-8)

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 シロアムの池で生来の盲目をイエスによって癒された男。彼を便宜上、「シロアム男」と呼ぼう。
 シロアム男は、何故癒されたのだろうか。
 何故イエスの目に掛かったのだろうか。

 シロアム男は、熱心な信心を持っていたとは思えない。
 いくつかの律法を知り、キリストの到来を待っている、そんなごく普通の人々と同様かそれ以下だったのではないだろうか。
 彼は祈ることもせず、生活のために物乞いをしている。

 「○○したから癒された」というのは、シロアム男には全くない。
 強いて言えば、無礼な弟子たちが指さして、「こいつの目が見えないのは罪のためか」とか、これまた無礼なことをイエスに尋ねたこと、これによって、イエスが「神のわざ」をシロアム男に顕された。
 やはり、シロアム男自らの力や意志によってイエスに振り向いていただき癒された訳ではなく、どこまでも、「自分で○○したから癒された」というのはない。
(こういう人々はヨハネ福音書に際だって多い。)

 「神のわざ」とは、このようなものだと思う。
 「神のわざ」、その最たるものである救い(「いのち」)も、全く同様だろう。
 「自分で○○したから救われた」という因果は、まず間違いなく何もない。
 だからこれを恵みという。
 因果律から完全に外れた世界だ。
 神のわざは、ただ恵みによる。

 シロアム男に戻ると、目を癒された彼はもはや物乞いをしない。
 目が見えようが物乞いをする人はたくさんいる。
 だが彼は、もはや物乞いをしない。
 「神のわざ」が働くと、このように「いのち」に満たされるようになる。

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