新しく生まれるということ

 「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:1-8)

---

 「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。
 新生でも回心でもお好みの言葉を使えばいいと思うが、ともかく、そのようなことがあって初めて、神の国を彼方に見ることができる。
 アダムの肉をまとった身には、けっしてこれを見ることがかなわない。

 そしてそれは、「水と御霊によって生まれ」る、そうイエスは仰る。
 「水」は、おそらく、バステスマのヨハネが与える類のバステスマ。
(だから私は、教会を全否定しないのである。)
 この「水」は、スタートラインなのだろう。
 そして「御霊」、これは昇天のイエスがお送り下さる(ヨハネ14:16-17)。

 「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」。
 アダムの肉のままならば、アダムの肉で終わる。
 その道とは、恵みを受けるための道だ。
 そして、ただその恵みによってイエス・キリストがお与え下さる御霊を受けると、その人はそこで新しく生まれ変わって霊的な存在へと生まれ変わる。

 この恵みというのが、呼び寄せようといくら試みようともけっして得ることのできる類のものではなく、要するに「風」なのだ。
 どこから来るのか、分からない。
 どこへ往くのかも、分からない。
 つかみどころがない。
 風切り音は聞こえるので、その存在自体は否定しようもない。
 そのような性質である恵みによって、イエス・キリストは御霊をその人に与えてくださる。
 アダムの肉に徹底的に苦しみ悩んだ人を、とりわけて神は恵んでくださるのではないかという気がする。

 イエスの呼びかけは徹頭徹尾、「あなたがたは新しく生まれなければならない」ということである。

---
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )