神の愛は give の愛

 「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(1ヨハネ4:7-10)

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 一般に、体験したことのないことというのは、その概念を聞かされてもピンとこない。
 私はマラソンをやったことがないので、「ランナーズ・ハイ」と呼ばれる状態については、想像のしようもない。

 「愛は神から出ている」。
 その愛は、「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされ」たことに、もっともはっきりと顕れている。
 「ここに愛があるのです」。
 そういうわけで、神の愛といっても、十字架に架かるイエスを神が遣わしたということを体験しなくてはピンとこないのではないだろうか。
 そして、神から出たものでない愛というものは、愛でもなんでもない。
 give and take の見返り ( take ) を求めていたりする。
 神の愛は、単に give だ。「与える」。
 御子をすら、惜しげもなく世に与えられた、これこそ神の愛である。
 御子の十字架での死と復活が、「私たちに、いのちを得させてくださ」ったからだ。

 このことは、バビロン補囚からの解放のようなものとは本質的に全く異なる。
 前者がアダム以来の罪からの解放(「いのち」)であるのに対し、後者は単に補囚状態からの解放にすぎない。
 どちらの方に神の愛が莫大に働いたかは、自明だろう。
 また、どちらの方が、罪深い人間にとって本質的に必要であるかも。

 「愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています」。
 そうしてただ神の恵みによって「いのち」をいただき、そのときはじめて、人は「 give の愛」を知る。

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