リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

哲学者の限界

2011-12-04 16:47:46 | その他
 こんばんは。東京地方、本日は晴天、晩秋の一日。イチョウもようやく黄色くなって、と思ったら昨日の雨風でてっぺんは落ちてしまいました。
 それも季節、ということで。日本の四季はよいですね。二、三日前は凍えてましたが。

 というわけで、まだ前々回を(前々週を)引き継いで(てゆうか、先週アップ予定だったのを忘れただけですが)、次回本の構成のため、歴史はどうかと考えるところ、
 図書館、倉庫保有の
中埜肇+東北アジア問題研究所、方法論としてのヘーゲル哲学 、晩声社、1995.
 の借り出しをオーダー。拝見。
 おおお、これはこれは、中埜氏、ずいぶんな成長を。
 とてもわかりやすいヘーゲル哲学を開陳されていまして、とても感心しました。人間、生きたもん勝ち。

 中埜氏といえば、私の思春期も終わり、そろそろ受験勉強もしなければという時分に読んだのが「中埜肇、ヘーゲル――理性と現実、 中央公論新社」
 そのころは私は、マルクス主義者ではありませんが、「ドイツ・イデオロギー(抄訳)」の著者の崇拝者ですから、なんだ、へーゲリアンたって学者はこんなものか、と思ったところ。ン十年経って、こんな評価をするとは思いもよりませんでした。
 2,3ヶ月前、本ブログに鷲田小彌太のヘーゲル本が(ヘーゲルの欠点がよくわかって)すばらしいと、褒め言葉なのか揶揄なのか悪口なのか、自分でもわからない(?)文を載せたところですが、いや、これを読んでは、先の言はやはり(?)揶揄だったんでしょうかね。鷲田氏に、「片手間じゃだめのようですよ、まだ若いんだからがんばったら」というアドバイスは送れそうな。
 どんな仕事でもこつこつやれば、はやりで図書館の哲学本棚の半分を占めているだけ(それだけ)の人間を越えることはできるんですね。中教審大学・筑波(今回も出てきた)で拾ってもらってよかったこと(誰も知らないね)。

 で、何がいいかって、わかりやすいだけですが。
 しかしその分かりやすさは、流行のヘーゲル長谷川某などとは、悪いですが比較にならない。
 ま、正しいかどうかは別として。
 理論というのは不思議なもので、ある解釈を携えて読むと、他の解釈も分かるものです。
 その初めの確立ができるかが大きい。そのためにはこの本は間違っていようと大変よろしい。
   しつこいようですが、鷲田氏というのは自分に合わせて甲羅を作ってないかな。
 
 さて、とはいっても、元はヘーゲル。ヘーゲルに人生をかけるやつなどお里が知れる。
 中埜いわく”全体と部分は相互依存、個人も国家ももちつもたれつ、どちらも大切です”
 てなもんですな。
 
 ばかかね。
 「全体と部分の関係」はいいとして、そのどこに「大切さ」の契機がはいるのかね。
 こうゆうのが後進国学者だね。
 全体と部分の関係など壊れてもいいと思う、そういうスタンスがないと、本当のことは理解されない。
 本当のことというのは、真摯に考えればすでにわかっているはずの、全体と部分の「運動的」関係ですけどね、
 「 」内大事。これが大事なことはこの中埜氏の強調するところで。その強調方法は、本書で私の感心したところでもありますが。しかし、何一つ自分じゃ分かっちゃいませんぜ。ってわかろうにももう死去されたそうで。
 
 なお付け加えると、著者名付属の「+東北アジア云々」氏、この懇談が本の半分占めてまして、なるほど、これがヘーゲルが有名になった理由か、という意味不明だが現実的な論議。
 でもこのヘーゲル劇の再現がまたなんともよろしい。
 (ただし若人は、真面目に読まないように)
 
 こんな本も最近の駄本の氾濫で、そのうち図書館から捨てられるでしょう。価値のわかる奴も希少だしね。 
 いま、お勧めです。ま、古本屋にあったら金出してもいいんじゃないかね。
 
コメント
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