今日は風呂に体を沈めると、窓から山の匂いが。
(当家は旧式のマンションなんで、ボロい代わりに風呂に窓がついてたりします)
夏も近いですねえ。
さて、『英語にも主語はなかった』(金谷武洋・講談社)
という本がありまして、わたし的には英作文の勉強の流れで(あるのは知ってたんですが買うほどでもないので、たまたまあった図書館で借りて)読みまして。
内容は、
『日本語は「虫の視点」で、英語は文に「主語」を作ったので「神の視点」となり、英語圏人はそういう行動をする』
といった話です。
わかんないですよねえ。
(以下、ちょっと分かりにくいと思うので、その辺よろしく)
この本についてのどなたかの amazonレビュー(?)をコピーしますと
【虫の目、鳥の目、神の目 (2004-02-01)
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という「雪国」の書き出しは、英語では the train を主語にするという。英語による表記に基づき、絵を書かせると英語話者は飛ぶ鳥が汽車を見下ろしたような絵を書くという。
日本語の原文は、鳥の目ではなく、「私」という虫の目から見た情景とそれに触発された気持ちの表現である。私が歩いていようが汽車に乗っていようが同じだが、歩いてトンネルを抜ける人は普通いないので、汽車にのっていることがおのずから分かる仕掛けになっている。】
ま、そういうことで、ってひどいか。
日本語では、文を話す主体がいつも現実の人間の立場にいるでしょ。
英語では、行為者の立場にいなくて、外から人間を見下ろして話すって趣旨で。
ネットで繰ってみますと分かりますが、他のamazonレビューではずいぶんけなされてますけど、これはこれで、娯楽本と思えば別にけなすほどのもんじゃなくて。基本的には間違ってないし。
いや別に読まなくてもいいですけどね。
で、一般に問題は、金谷武洋という人の話では(基礎は三上章という人の日本語文法論なんですが)、この英語の神の視点どおりに英語圏人が行動する、という点でして。
まあ、この本を娯楽本と受け取らない人は少ないと思うので、理論上出るという問題に過ぎませんが。
で、この点以外は良い本だとは思うんですが、「人間は、どんな言語を操る人間だろうと、同じように行動する」というのが行為論的社会学の基本テーゼですので、そんなことを言われちゃ困るんですよね。
しかして、これは間違っている。
トンネルを抜けると雪国だった、って状況は、行為者個人にとってはおんなじでさあ。
あたりまえだあね。
後でそれを回想するときも、日本人であれ英国人であれ、同じ回想をする。
あたりまえだあね。
同じ状況なんだから、おんなじように反応するのが人間です。ウソだと思ったら西洋人の小説を読んでみてください。どこも日本人と(自分と)違っとらんですよ。
しかしながら、英語と日本語は同じ表現をするか?
いいやしない。これはおっしゃるとおり。
もともと言語に主語などない。
おっしゃるとおり。
人間の行為に主語などいらない。主体が誰かなんてことは発声時には分かってることだから。
しかし、現実には英語では主語を使う。そこは、そういう分化をした言語なんだからしょうがない。
では何が違うか。
それは行為者にとって、赤ん坊時代に、状況をどう言語化するか、という規範が違うわけですが、その結果として情報想起のセットが違うはずでしょう、ということです。
事実認識において、影響はわずかかもしれないけれど、確かに物事の動きの中に人間が介在してしまう。
これはまずは神の視点ではなく、行為する人間のイメージの視点であり、そこに、主語有り言語圏では人間的(人間のような理不尽な行動をする大人気ない)神がいつまでも歴史の底に消えていかない理由がある、ともいえないわけではないかも。
たとえば、初めに「アイ (I) know」といわれれば、聞いた人間としては、相手と人間一般を巡る状況への想起神経回路が準備される。もちろん、想起神経回路は乳児期より「アイ」についてセットされている。同様に、「ユウ (You) know」といわれれば、初めに自分と人間一般を巡る状況が頭の中に準備される。その後に「the answer」といわれれば、答えを知ってる相手がトータルで想起される。
日本語では、相手が「答え知ってる」といえば、目の前に存在し続ける物体について、新たに「人間一般が知ってる」という状況が追加される。このときには「I」という一般は相手の中には存在しない。
あるいは、相手が「答え知ってるでしょ」といわれれば、単純に「自分が知っている状態」が検索される。このときには「you」という一般は自分の中には存在しない。
つまり、主語なし言語圏人では、状況をポンと前に置けば、みんなが同じ立場でそれに対応してくれるはずなのです。
こうして、思考に「I」や「You」のない、シンプルな自然的状況人では、主語有り言語圏人の神のような自分に向かって行為する抽象性は頭の中に存在しない。自然に懼れがなくなる時代には、父や母の抽象性でしか存在しない平和な宗教が残るだけ、という理屈になるかも。
まとめていうと、 I や You や It が、必ず動詞(という状況をイメージさせる語句)とセットされている英語人と、ただの(動詞という)状況語をその時々に使うだけのその他の言語人とは、一人考えをするときにも想起するイメージが違う可能性がある、ということで。
「さてこれから考えごとをしようか」と思うとき、私などは、これから前に座るデスクトップパソコンしか思い浮かべませんが、英語人なら「I'll study」と思うとき、「I」とともに「I」にまつわる全ての動詞 (のうち、日常的に重要なもの、たとえば「You must、 You must」といい続ける神父) がセットで想起されることもありうることです。てゆうか、現実には児童期に、そうやって「I」のセットを頭で作らされてしまってる、わけでしょうね。
というわけで、せいぜいそんなもんだけど、そんなものがどれだけ影響があるか、これは社会学ではなく心理学レベルで実験調査すればそれでたくさんな気がします、というのが結論です。
それにしても我ながら、主語のない文章ですね。じっさい、主語なんているはずないですよね。
(当家は旧式のマンションなんで、ボロい代わりに風呂に窓がついてたりします)
夏も近いですねえ。
さて、『英語にも主語はなかった』(金谷武洋・講談社)
という本がありまして、わたし的には英作文の勉強の流れで(あるのは知ってたんですが買うほどでもないので、たまたまあった図書館で借りて)読みまして。
内容は、
『日本語は「虫の視点」で、英語は文に「主語」を作ったので「神の視点」となり、英語圏人はそういう行動をする』
といった話です。
わかんないですよねえ。
(以下、ちょっと分かりにくいと思うので、その辺よろしく)
この本についてのどなたかの amazonレビュー(?)をコピーしますと
【虫の目、鳥の目、神の目 (2004-02-01)
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という「雪国」の書き出しは、英語では the train を主語にするという。英語による表記に基づき、絵を書かせると英語話者は飛ぶ鳥が汽車を見下ろしたような絵を書くという。
日本語の原文は、鳥の目ではなく、「私」という虫の目から見た情景とそれに触発された気持ちの表現である。私が歩いていようが汽車に乗っていようが同じだが、歩いてトンネルを抜ける人は普通いないので、汽車にのっていることがおのずから分かる仕掛けになっている。】
ま、そういうことで、ってひどいか。
日本語では、文を話す主体がいつも現実の人間の立場にいるでしょ。
英語では、行為者の立場にいなくて、外から人間を見下ろして話すって趣旨で。
ネットで繰ってみますと分かりますが、他のamazonレビューではずいぶんけなされてますけど、これはこれで、娯楽本と思えば別にけなすほどのもんじゃなくて。基本的には間違ってないし。
いや別に読まなくてもいいですけどね。
で、一般に問題は、金谷武洋という人の話では(基礎は三上章という人の日本語文法論なんですが)、この英語の神の視点どおりに英語圏人が行動する、という点でして。
まあ、この本を娯楽本と受け取らない人は少ないと思うので、理論上出るという問題に過ぎませんが。
で、この点以外は良い本だとは思うんですが、「人間は、どんな言語を操る人間だろうと、同じように行動する」というのが行為論的社会学の基本テーゼですので、そんなことを言われちゃ困るんですよね。
しかして、これは間違っている。
トンネルを抜けると雪国だった、って状況は、行為者個人にとってはおんなじでさあ。
あたりまえだあね。
後でそれを回想するときも、日本人であれ英国人であれ、同じ回想をする。
あたりまえだあね。
同じ状況なんだから、おんなじように反応するのが人間です。ウソだと思ったら西洋人の小説を読んでみてください。どこも日本人と(自分と)違っとらんですよ。
しかしながら、英語と日本語は同じ表現をするか?
いいやしない。これはおっしゃるとおり。
もともと言語に主語などない。
おっしゃるとおり。
人間の行為に主語などいらない。主体が誰かなんてことは発声時には分かってることだから。
しかし、現実には英語では主語を使う。そこは、そういう分化をした言語なんだからしょうがない。
では何が違うか。
それは行為者にとって、赤ん坊時代に、状況をどう言語化するか、という規範が違うわけですが、その結果として情報想起のセットが違うはずでしょう、ということです。
事実認識において、影響はわずかかもしれないけれど、確かに物事の動きの中に人間が介在してしまう。
これはまずは神の視点ではなく、行為する人間のイメージの視点であり、そこに、主語有り言語圏では人間的(人間のような理不尽な行動をする大人気ない)神がいつまでも歴史の底に消えていかない理由がある、ともいえないわけではないかも。
たとえば、初めに「アイ (I) know」といわれれば、聞いた人間としては、相手と人間一般を巡る状況への想起神経回路が準備される。もちろん、想起神経回路は乳児期より「アイ」についてセットされている。同様に、「ユウ (You) know」といわれれば、初めに自分と人間一般を巡る状況が頭の中に準備される。その後に「the answer」といわれれば、答えを知ってる相手がトータルで想起される。
日本語では、相手が「答え知ってる」といえば、目の前に存在し続ける物体について、新たに「人間一般が知ってる」という状況が追加される。このときには「I」という一般は相手の中には存在しない。
あるいは、相手が「答え知ってるでしょ」といわれれば、単純に「自分が知っている状態」が検索される。このときには「you」という一般は自分の中には存在しない。
つまり、主語なし言語圏人では、状況をポンと前に置けば、みんなが同じ立場でそれに対応してくれるはずなのです。
こうして、思考に「I」や「You」のない、シンプルな自然的状況人では、主語有り言語圏人の神のような自分に向かって行為する抽象性は頭の中に存在しない。自然に懼れがなくなる時代には、父や母の抽象性でしか存在しない平和な宗教が残るだけ、という理屈になるかも。
まとめていうと、 I や You や It が、必ず動詞(という状況をイメージさせる語句)とセットされている英語人と、ただの(動詞という)状況語をその時々に使うだけのその他の言語人とは、一人考えをするときにも想起するイメージが違う可能性がある、ということで。
「さてこれから考えごとをしようか」と思うとき、私などは、これから前に座るデスクトップパソコンしか思い浮かべませんが、英語人なら「I'll study」と思うとき、「I」とともに「I」にまつわる全ての動詞 (のうち、日常的に重要なもの、たとえば「You must、 You must」といい続ける神父) がセットで想起されることもありうることです。てゆうか、現実には児童期に、そうやって「I」のセットを頭で作らされてしまってる、わけでしょうね。
というわけで、せいぜいそんなもんだけど、そんなものがどれだけ影響があるか、これは社会学ではなく心理学レベルで実験調査すればそれでたくさんな気がします、というのが結論です。
それにしても我ながら、主語のない文章ですね。じっさい、主語なんているはずないですよね。