リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

白呪

2008-02-03 10:31:07 | コーヒーブレイク
マイ・フェイボリット・コーナー
知ってる人はごくわずかな、美輪明宏の世界。
、、、と思ってyahoo検索にかけましたら「白呪」で67,600件ヒット!
ちょっと待てよ、うそだろ。みたいなもんですね。

アルバムのタイトルなんですが。
私にとっては、学生時分に、東京は、うらさびれた都立大学駅前の中古レコード店「ハンター」で千円で買ったLP。ハンターは大井町(東京)にもありましたね。こんなの買うのは俺だけだろうって自信がありましたが。

今の人にはCDでもあるはずです。6年ぐらい前、行きつけの図書館に行きましたら新着CDコーナーにあって、ぎょえ、と思ってすぐ近くにいた35歳くらいの係のお姉さんに、こんなのあんですねえ、っていったら、はい、私が選びました、といってました。

で美輪明宏。
私も、人知れず歌うたいなもんで、ときどき家で歌を口ずさむのですが、これは歌えない。今日もジャケットの歌詞を見てひたすら黙り込んでしまいました、今日じゃないですが。
まあ、一番歌いやすくてヨイトマケの歌。でも1番で涙にくれる。
、、、どうしてこれが67,600件じゃ!

歌詞をみるといわゆる臭い歌詞なんで、私なんかではとうていこそばゆくて書けない。でもこれを強引に歌いこんでしまう、美輪明宏。その実力はこっちへおいて、うまいとかうまくないとかじゃなくて、強引な世界の中で歌に引き込まれる私を含めた聴衆。そうやって全知全霊で生きてきてる人間がいる。それが67,600件なんだろうな、と。
だって、子供達にはわからないだろうけど、臭かろうがどうだろうが、これがちょっと昔の現実だったのだから。

そして、私の絶望的な精神に、数日間分のエネルギーがはいる。
自分の現実をその手に握りながら生きる人間がいる。
自分の現実。
テレビで吉本喜劇を見て笑っている自分は、自分の現実を生きているわけではない。
自分の行為として自分の将来を変えようと、したこと、今すること、明日しようとしていること、それが自分の現実です。
うそだと思ったら、一週間後、その日のことを思い出してみると分かります。覚えているのは、ご飯食べて、テレビ見て、メール打って、寝た。
 
、、、誰でも、その手に残るとしたら、自分の現実しかない。ただ、それを握って生きていくのかどうか。
 
 ふんふん、高校の倫理社会の先生のようだ。
 美輪明宏は、それに耐える歌うたいです。


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生産物か商品か

2008-02-03 10:00:20 | 賃金・価値・権力
モノのあり方は二通りです。生産物か商品か。
ヒトのあり方も二通り。ただの人間か、商品生産者か。

詩人の大部分は、自分が生きていて感じたことを伝えようと表現します。
小説家の大部分は、他人が買ってくれる物語を表現します。
 人はほおっておくと詩人になります。大部分のブログで、ブロガーは詩人です。
 小説家になりたい人は、たいてい売れなくて絶望します。ほんとは何がしたかったのかな?

人はほおっておいても自分が食べるもの、自分が使うものを作ったり取ったりします。
勤め人は、新入社員から社長にいたるまで、結局、他人が買ってくれる物を作ります。
 時計の要らない社会では、いまだに人は自分と家族・縁者の食べるもの、使うものを生産します。
 会社は、作るもので儲けがあがるように、物と労働者を加工するのが仕事です。


人が買いたいものはいいものですか?
 私はお金がないので、安いものが買いたい。
 では私は安いものが欲しいのか?
 そんなことはない。良いものを安く欲しいだけ。
 瀬戸物屋はなぜつぶれた? まともなご飯茶碗が欲しい。
 電気店のオーナーは広告紙を印刷業者から買いたい。それは広告紙を撒き散らして紙資源を使いたいからか?
 そんなことはない。でも、よさげな商品を消費者に見せつけないといけない。

社長以外の人間にとって、どこに偉そうに商品経済を擁護する理由があるのか、私にはわからないところです。
ましてや教育学部の教授たち。(まだいってるぜ)
 あるいは種々の転向者たち。
 商品経済を擁護したいのなら、悔しさに口をゆがめながら発言して欲しい。


もちろん、国家計画経済がよいというわけではありません。私はアナーキスト。

人の大部分は、助け合って生きていきます。
公務員の大部分は、法律という武力に守られた武器で、政権と経済秩序を守ります。
 人は、家族・縁者がどうしようもなく困ったら、なんとか便宜を図ります。
 公務員は、隣りの人間が困っていても国の権力は回せません。
 
当たり前のようで、マルクス・エンゲルス以外のマルクス主義者は考えたことのない事実。
 公務員は、政権の消費物を確保しつつ、政権の方針により、抽象的な国家のために秩序を守る知恵を絞り武力を行使します。
 たとえば100人の世界で200ある生産力の余剰を50人に分けるのが、国家に嫁いだ政権者の仕事です。 
 武力権力は、余剰をどう使うかを自分たちの賞賛と優越のために使うことができる。
 多くは「国威」という大義名分で。ほんのちょっとのおこぼれにあずかって。
 独裁とは、政権が選挙によって支えられていないことではない。50人を切り捨てる決定を、政権がすることです。資本主義では、資本家のせいにできますけどね。
 
 余剰生産力の200を100人で使えば、「貧乏人」が最高学府を目指す必要はない。おこぼれ太りした政権者に言わせればみんながプチ貧乏かもしれないが、だれもそうとは思わない。 
 社会主義の定義は、余剰を全人民が使えるかどうかにある。
 国家計画経済政権者が『全人民の「ために」使っている』などというのは、おなじみの資本家のウソです。だから国家資本主義などといわれる。でも国家計画経済は資本主義ではない。人間の意思によって経済を変えられるという体制は、資本主義ではない。ただ、意思的に資本家とおんなじことをした、ということです。
 ついでにいえば、権力者のウソはどの権力者でも一緒で、黒を白というわけですが、政権者は精神過程しか目立った儲けがないため、自分でもウソに気付いていないところがあるんで始末が悪い。きちんと教えてあげないとね。
 

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