リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

イデオロギーとユートピア

2007-10-07 13:23:37 | 上部構造論
 ミャンマーでは、僧侶らが主導する過去約20年間で最大規模の民主化要求デモが続いているようです。
 って、いつの話だ。今日はそんなものはありません。これは9月26日新聞記事の貼り付け。
 ブログらしく今日の出来事を載せようと思っていたら、注記の事情で時が過ぎていってしまいました。

 話は飛んで、カール・マンハイムという過去の社会学者の用語で、「イデオロギーとユートピア」なるものがあります。現体制維持のイデオロギーを「イデオロギー」と呼び、まだ見ぬ理想の国を志向する変革のイデオロギーを「ユートピア」と呼ぶ区分けです。
 そんなものに何の意味があるかというと、それまでのイデオロギー概念は、「イデオロギーは下部構造によって規定される」というものでしたが、この「下部構造」が経済的な利害関係としか捉えられていなかったということがあります。利害関係に沿ってイデオロギーは作られる。
 そこで彼のしたのが、それじゃあ「まだ見ぬ国はどうやって知るんですか?」という問いかけですね。変革のイデオロギーとは、経済的な利害をナマで出すものではなくまだ見ぬ国を思い描くものです。マンハイムの答えは、知識層によってこれを設定できる、というものでした。

 さて、彼に否定されたはずのマルクス主義者の諸君は、どうしたかといえば、実はマルクス主義者としては我が意を得たり、というところなのです。
 彼らは「主義者」ですから、運動が命です。ただの知識人なのに自分達が革命を実現するんだと思ってますから、おっしゃるとおり、理想の国は我々の示す革命後の社会。これを提示する我々前衛の役目は決定的だ。「ユートピア」という響きは都合が悪いので使いませんが、あとは密輸入です。「観念にも一定の役割がある。エンゲルスもいっている」てなもんです。
 エンゲルス? 70過ぎたご老人に新しいことを言わせるほうが悪いというものです。イデオロギー論の確立は、それから100年の時間が必要なのです。
 間違ってれば悪口をいっていいというものでもなく、若いときに観念の原則を世界史上初めて打ち立てた(フォイエルバッハテーゼ)のは、広松渉によるとマルクスではなくエンゲルスだということです。どっちでもいいけど。
 エンゲルスという人は、働きながら中高年までの人生を、友人の、読むだけでも大変な資本論草稿をあれだけのものにして出版する時間に充てた人です。ただの手紙に何を書こうとイデオロギー論がなってないなどといわれる筋合いではありません。

 まあ、それはそれ。
 イデオロギーについて真実はもうご存知ですよね?
 え? ご存じない。
 では拙著『光の国のダンサー』(イデオロギー)と『風とベイシティキャット』(知識)をご覧下さいませ。
 要するに、人は行為する時には自分の1秒後の将来をイメージする。
 生理的に生存できる将来。
 賞賛を確保できる将来
 自由を、つまり対外的優越を確保できる将来
 これらについて、事実として、ありうる現実として、外界を把握している必要があること。
 (中略)
 だから、下部構造が上部構造を規定するわけです。

 ところで、ユートピアです。
 ユートピアで必要なのは、この事実なのです。
 何かをしたい、でも何をしたいのかわからない。この「何」を提供する必要があるわけです。
 このことは頭脳作業だから観念の反作用がある、などといったら、マルクス主義者のように味噌もクソもになってしまうから止めてくださいね。
 「何」は、科学と事実です。
 科学はイデオロギーではない。事実もイデオロギーではない。
 もちろん科学と事実のセットを、行為の指針としてぶち上げることはイデオロギーです。これは思想ですから。(ブログ9月23日用語解説参照)なお、科学といっても、現実に妥当する迷信は一緒ですけどね。

 さてミャンマーです。
 残念ですが、ここには統一イデオロギーがない。これではまだまだ地道に闘っていく必要がある。
 でも暗いわけではない。日本と同じに。そんなことで暗かったら、人間生きてはいけない。闘いが一つ一つの事実となっていく。ただ、先が長い。

 統一イデオロギーがないのがそんなにダメなことなら、イデオロギーにも役割はあるんだろうって?
 おっしゃるとおり役割はあります。しかしそれは反作用などではない。
 イデオロギーは人間が生きていくときに使うものです。そして生きていく土台は下部構造です。デモをして下部構造が変わるわけではない。
(国家権力は下部構造ではないことは知っていますか?)

 ミャンマーは、私は知りませんが、デモのスローガンから逆算しますと植民支配的農村国家のようですね。武力権力に他国の経済支配が重なっていく国家で、ただ、農村国家というものは、農村のことだけうまくやっていれば、生きていくのに民主主義など必要のないものです。一般論ですが。
 ミャンマーの闘いは今のところインテリ各層間の争い、というところに見えます。もちろん個人の自由のためには、民主主義派の勝利が必要なのですが、それって、生産現場=圧倒的広域であるような農村での個人の勝利が見据えられるところでないと現実にならない。
 それが下部構造というものです。

 でもですね。世界資本主義は1国家の下部構造を超える。
 国家権力は、これを促進することが出来る。詳しくは拙著『パリの爆薬』をご覧下さい。
 あんま、詳しくないか。

 ではまた。明日は休日出勤。



【注記】

 マンハイムのそれに限らないが、社会科学上のイデオロギー概念への最も簡単な誤りは
 「(マンハイムは)バークの主張が『イギリスの支配階級であった門閥貴族のイデオロギー』であるとしている点であるが、完全な誤りである。」という主張だ。
 いや、他意はなく、ネットを開けたらすぐに飛び込んできたものだ。私も右翼の思想にまでは手を広げてないので、あわてて1週間費やしてバークというのを『中央公論・世界の名著』で確認してしまった。マンハイム原著(訳)も確認したが、適切な取り上げ方だった。ネットというのは役に立ちはするのだが、玉石混交なのは困る。もちろん本屋にだって玉はめったにないが、私の本棚には石は置かないようにしている。

 さてネットでは下記のごとく主張する。
 「バークは決して門閥貴族ではなかったし」
 「厳密にはイギリス人ではなくアイルランド人だ」
 「またカトリックなども、彼の幼少期にはごく身近なものであったし」
 「彼がウィッグであったことも忘れてはならない。」
 「今日では自由主義経済学者としてのバークも注目せられている。」
 「さらには保守主義という総体を取ってもバークはマンハイムの言うような身分重視がみられるが、カーライルにはそれがないといったように、」
 「イデオロギー或いは世界観の体系は存在しない。」
 
 残念でした。バーク一つとってみたが、マンハイムなり社会科学でいうイデオロギーとはそういうものではないのだ。
 
 それでは、資本家の息子も、ハワイ人も、牧師の息子も、社会主義者にはなれない。
 あるいは公明党員は資本主義を擁護できず、フリードマンが慈善寄付をしてはいけないし、カーライルは奴隷制度擁護も大衆蔑視もしなかったようだ。まあ、私はカーライルなんて知らないけどね。
 
 さて、誰がそんな単純な話をしているのだろうか。
 
 いったい、自民党員は全員が差別擁護者なわけはないが、しかし(ほとんど)全員が自由経済主義者だ。これをイデオロギー的には「一定の差別・容認主義者」という。文化のヘゲモニー(グラムシ談)を確保するためには、それだけで十分だからだ。イデオロギーというものはそういうものなのだ。
 まあ、マンハイムの時代にはグラムシはいなかったが、グラムシもそう難しいことをいったわけではない。(し、難しくするとアラが目立つので、あまり勉強しないほうがよさそうな気もする。)
 どんな底辺からの成り上がり者でも、権力階梯を上がるためには支配階級に利するイデオロギーを持たなければならない。
 井戸端評論はいざ知らず、少なくとも社会科学においては、私のイデオロギー論を待つまでもなく、昔からそのぐらいの初歩的な認識はもっていたのだ。
 
 もっともマンハイムの『イデオロギーとユートピア』は、社会科学というにはあまりにも概念がいいかげんだ。訳者には悪いが、本気になって読まないように。ウツると困る。これは社会学史か何かで概略知っていればよさそうだ。それよりも、同じ著者の『世代・競争』は秀逸だと思う。いまだに、越える著作の出ない世界の名著のはずだが(30年前読んだだけでかなり忘れている。こういう題材の解明は、科学的な手法では難しいのだ。ので私も手をつけていない。だからといって、そんなものを扱うのは社会科学ではない、とかいうのは本末転倒。なんのために社会科学をやっているのか忘れ果てた人間のセリフだ。)、若い人の目には触れないだろうなあ、、、
 
コメント
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