リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

人民の言葉の民主的な扱い

2012-02-12 21:12:46 | その他
 こんばんは。先週は熱が下がらずひどい目にあいました。まだ引きずってますが。
 わたしは健康なだけがとりえでしたが、やはりそろそろお年頃のようです。

 この間、お酒もほとんど飲まず。やはりわたしはお酒が好きなわけではないようで。
 って、サントリーレッド4リットルボトルを買ってる人間が言っても説得力はありませんが。

 で、飲まないと記憶力のためにはよさそうですがパトス(激情的推進力)が湧かない。
 理論にパトスは要らないようですが、どうしてどうして。
 パトスがないとやる気にならないのはそれとして、理論を書くにも何のために書くかが明確にならないので、読んでるほうでポイントをつかめなくなるんですね。

 てなわけで、これは今日の文の気合のなさの言い訳。

 本日は、「つぶやき言葉の称揚は、人民のためになるか」という話。

 なんだかこの頃は、ただの腹いせや対抗権力者へのおべんちゃら・金魚の糞でしかない無責任論議でも、それは民衆が言う言葉だから偉い、なんて話が多くて。
 言いたい放題の自称政府批判や橋本へのお追従のことですが。

 それって、偉い?
 偉かあない。

 だいたい、人民が発言すれば偉いだなどとそんなバカなことがあるか。戦争を起こしたのは日本人民だ、という自覚が誰一人ないまま過ごしてきた報いだ。
 ほんとは何ごともそんな理由でないのはわたしの本を読めばわかることだが、倫理的にはそういうことなのだ。天皇や軍部のせいにするんじゃねえ。人民が天皇を称揚し、軍隊を称揚し、戦勝の凱歌に涙を流し鼻水を垂らして喜んだのだ。
 要するに無責任。今だって自分の言葉に誰一人責任を取る奴などいない。
 ほんとはいるけどね。1万人に1人。

「お前に気に入らなくとも、それが民主主義だ」って?
 おお、上等じゃねえか、国家主義者め。おりゃあ気にいらねえぞ。

 民主主義とはただの国家権力の伝達方策のことであって、個人行為者にとっては何も賞賛すべきものではない。ただ、貴族主義よりもまし、というものである。
 どんな姿をとろうが、それは国家権力に過ぎない。
 ましてや他人の意見など自分に正しいはずもない。
 正しくない上に「言いたいことをいうのが良い」、と世間で吹聴されるのは、アナーキストとしてはこの上なく不快だ。

 いいたいことをいう、これが修正主義者の好きな大衆資本主義というもので。要するに「消費者の立場」ですな。いいたいこといってお買い物して日々を暮らす。
 
 一方、バチ当たりな無責任な「批判」を受けるほうは、必死に生きているものだ。毎日をなんとかして必死に生きた結果がこの現実なのだ。
 要するに、「生産者ないし労働者」の立場ですな。これは若人には説明しないとわかんないかね? 分からない人は説明を聞くよりも、働いたほうが良いと思うのだが。
 
 大事にしなければならない人民の言とは、当然に自分の利害に立脚した「つぶやき」だ。そしてそれだけだ。
 もちろん、それは大事にしようがしまいがどちらにせよ、現実に自由の歴史の推進力となる。
 
 じゃあ、いいだろう、って?
 よかあねえ。無責任の言は人民法の刑法に抵触する。ってわたしが決めたのだが。
 さらに、橋本のごとき歴史の操り人形の言は、人類への冒涜だ。自由の歴史は必ず闘争の歴史だけれども、人々の味方のフリをして敵対するというのは無責任をとうに通り越した所業だろ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする