こんばんは。涼しくてうれしい。
家があって、ご飯が食べられると、ついで「お天気」が焦点になると思いませんか? あとのできごとはみんな趣味の世界だし。多くのその他生産物も。
さて、ここのところ、私の目の前を通ったネットと本での左翼者たちの文書(のくせ)に、続けて、樺美智子氏「圧死」記述がでていて気になったもので、また中高年限定テーマで失礼します。
『現代詩手帖』(という詩の雑誌)2010年7月号に、樺氏の死亡解剖にあたった医師仲間の人間が、もう関係者が次々に死んでいく、ということで、詳細な告発レポートを提出しています。
御庄博実氏、病院長で詩人。
趣旨は「あれは、警棒の腹部突撃による一時的身体重篤と右手で行われた頚部圧迫とによって引き起こされた窒息死だ」。(このブログでの「 」は引用符ではありません。 、、と、時々書きおいてます)
司法解剖をした慶応病院の死亡鑑定書の初版? も上記のように書いてあったそうですが、監察医が書き直し、さらに東大教授の書いた死亡鑑定書第3版?が検察採用されたそうです。
で、その慶応病院での本物の解剖記録ノートの運搬役を上司の医者から頼まれたのが御庄さんだった、とのこと。
このため、彼もその後の論議にも巻き込まれるわけですが、捻じ曲げられた「圧死」鑑定のままでは死ねない、と周辺の状況インタビューを重ねた結果を加えて、2010年中、あちらこちらで発表して回った一環が、現代詩手帖レポートのようです。
いえ、私はどうせ図書館での立ち読みですから、こんなに詳しく覚えているわけはないのですが、
気になってちょっと検索したら、(wikiは右翼や共産党の影響で(しょう)圧死のままですが)
http://chikyuza.net/n/archives/5376
が検索の2番目に出まして、ここに御庄さんのが載っており、ほお、という感じ。
ただ、悪いけどこのネット記事の文章は読んでいて脈絡がよくわからない。ご自身で綴ったそのまんまなんでしょうね。
やはり、本格的な編集者というものは違うんでしょう、「現代詩手帖」はもっとずっと読みやすいものでした、はずです。
まだ出版後1年ですから、どこかお近くの図書館にあると思われます。
このような話は、実は私はどっちでもいいのですが。
他の記事に、某左翼氏の「どちらでも結局、樺さんは戦死なのだ」という記載もありました。私は関係がないのでそうはいいませんが、実際、世の中そういうものではあります。
が、私はこの御庄博実(御年85歳)が持ちつづけるような「きもち」を大事にしていますので、そちらに乗ります。なので、少ないかもしれませんが、このブログの読者の方々にはお伝えしようと思いました。
ところでこれは別の話ですが、
思うに、人は人生で何度かしか生きないように思います。
生まれてすぐ死んでしまう人、産まれる前に死んでしまう人も、一度は生きる。
樺氏も一度以上生きたわけですが、それ以上30年長生きした人でも、二、三度しか生きない。人は何十年多く生きても、死ななかったときより、ニ度か三度しか多く生きない。
つまり、分かれ道をこう行ったらこうなった、そこで今度はこっちへ行ってみよう、と思って道を辿ったらこうなった、というのがニ回か三回にしかならない。
ここまでは生きている人間の論理的感想ですね。そうじゃない、俺は3000回は生きた、という人がいて悪いとはいいませんが、どうですかね、学校でて就職後、5度以上生きた人は、波乱万丈の一生というべきでは?
さて、そのいずれをとっても、人は(最低)一度生きたことには変わりがない。
あるいは、その一点については誰も反論のしようがない。神様は公平、かもしれません。
人生、一幕物の舞台か、4幕物の舞台か、という差だけ。
だからなんだっていうわけでもありませんが、長生きすると、若死に(わかじに)の人にかえって近しい気持ちを覚えます。若死にした人は、これ以上変わりはしないからですかねえ、、、
というわけで、連帯的宣伝活動でした。
家があって、ご飯が食べられると、ついで「お天気」が焦点になると思いませんか? あとのできごとはみんな趣味の世界だし。多くのその他生産物も。
さて、ここのところ、私の目の前を通ったネットと本での左翼者たちの文書(のくせ)に、続けて、樺美智子氏「圧死」記述がでていて気になったもので、また中高年限定テーマで失礼します。
『現代詩手帖』(という詩の雑誌)2010年7月号に、樺氏の死亡解剖にあたった医師仲間の人間が、もう関係者が次々に死んでいく、ということで、詳細な告発レポートを提出しています。
御庄博実氏、病院長で詩人。
趣旨は「あれは、警棒の腹部突撃による一時的身体重篤と右手で行われた頚部圧迫とによって引き起こされた窒息死だ」。(このブログでの「 」は引用符ではありません。 、、と、時々書きおいてます)
司法解剖をした慶応病院の死亡鑑定書の初版? も上記のように書いてあったそうですが、監察医が書き直し、さらに東大教授の書いた死亡鑑定書第3版?が検察採用されたそうです。
で、その慶応病院での本物の解剖記録ノートの運搬役を上司の医者から頼まれたのが御庄さんだった、とのこと。
このため、彼もその後の論議にも巻き込まれるわけですが、捻じ曲げられた「圧死」鑑定のままでは死ねない、と周辺の状況インタビューを重ねた結果を加えて、2010年中、あちらこちらで発表して回った一環が、現代詩手帖レポートのようです。
いえ、私はどうせ図書館での立ち読みですから、こんなに詳しく覚えているわけはないのですが、
気になってちょっと検索したら、(wikiは右翼や共産党の影響で(しょう)圧死のままですが)
http://chikyuza.net/n/archives/5376
が検索の2番目に出まして、ここに御庄さんのが載っており、ほお、という感じ。
ただ、悪いけどこのネット記事の文章は読んでいて脈絡がよくわからない。ご自身で綴ったそのまんまなんでしょうね。
やはり、本格的な編集者というものは違うんでしょう、「現代詩手帖」はもっとずっと読みやすいものでした、はずです。
まだ出版後1年ですから、どこかお近くの図書館にあると思われます。
このような話は、実は私はどっちでもいいのですが。
他の記事に、某左翼氏の「どちらでも結局、樺さんは戦死なのだ」という記載もありました。私は関係がないのでそうはいいませんが、実際、世の中そういうものではあります。
が、私はこの御庄博実(御年85歳)が持ちつづけるような「きもち」を大事にしていますので、そちらに乗ります。なので、少ないかもしれませんが、このブログの読者の方々にはお伝えしようと思いました。
ところでこれは別の話ですが、
思うに、人は人生で何度かしか生きないように思います。
生まれてすぐ死んでしまう人、産まれる前に死んでしまう人も、一度は生きる。
樺氏も一度以上生きたわけですが、それ以上30年長生きした人でも、二、三度しか生きない。人は何十年多く生きても、死ななかったときより、ニ度か三度しか多く生きない。
つまり、分かれ道をこう行ったらこうなった、そこで今度はこっちへ行ってみよう、と思って道を辿ったらこうなった、というのがニ回か三回にしかならない。
ここまでは生きている人間の論理的感想ですね。そうじゃない、俺は3000回は生きた、という人がいて悪いとはいいませんが、どうですかね、学校でて就職後、5度以上生きた人は、波乱万丈の一生というべきでは?
さて、そのいずれをとっても、人は(最低)一度生きたことには変わりがない。
あるいは、その一点については誰も反論のしようがない。神様は公平、かもしれません。
人生、一幕物の舞台か、4幕物の舞台か、という差だけ。
だからなんだっていうわけでもありませんが、長生きすると、若死に(わかじに)の人にかえって近しい気持ちを覚えます。若死にした人は、これ以上変わりはしないからですかねえ、、、
というわけで、連帯的宣伝活動でした。