リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「普遍的に良い」規範

2008-03-22 13:27:42 | 行為
 (これは前回の続きです)

 個人個人の理想として扱われる規範とは、人間界においては、他者の存在価値です。
 つまり、他者の存在を得たいときに、その存在となってくれる、という中身を持った規範が、社会においての理想となります。
 個人が苦しいときに助けてくれる存在、寂しいときに傍にいてくれる存在、悲しいときに癒してくれる存在、それらの他者を作り上げる規範が、どの世界においても良い規範となり、これを体現しようとする態度が賞賛の対象となります。

 そして、この普遍的価値を閉ざすものが、「金儲けに暮れる日々」「生きるためという美名において他者をないがしろにする日々」です。
 これが資本主義の原罪なのです。
 かくて、資本主義の下では、誰がどんな詭弁を使おうと、どんな弁護をしようと、社会の理想は存在しない。存在するのは「そんなこといったって」という子供のような抗弁と、同業者の理想=「金持ちになるのはいいことだよ」だけ。
 ああ、まだあった。支配者の被支配者が持って欲しい理想。「国家のために死ぬのはいいことだよ」
 まあ、迷惑にならないように死んでください。

   
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疎外と資本主義

2008-03-22 13:21:47 | 行為
 先週、すごく久しぶりに、旅行してきました。
 広島市とそのすぐそばの島で1泊。
 焼きガキ、土手鍋、広島お好み焼きと一通り食べてきましたが、実はただのカキフライが一番おいしかったりして。
 よかったのは、人が良かったこと。
 直近では1年前に上海へいったのが旅行の最後で、ひどい人間ばかりだったことで良さがひときわなのか。(西安は人のいいとこです)
 でも、過去、日本30数ヶ都道府県へ行きましたがこんなにいやな人のいなかったところも記憶にない。
 総じて海岸都市っていい人が多い気もするんだけど、どんなものでしょうか。
 
 で、帰れば東京。
 なんで町にいやな奴ばっかり目に付くんだろうかねえ。やっぱ疎外されてんだろうか。
 ってことで、テーマは「疎外」。新しい人は知らない言葉なんでしょうね。
 「疎外」っていう言葉は、自分が行為してもその行為で自分の思ったことが実現できないような状態に使います。「疎外されている」っていう表現は、「人間らしい生活をしていないんで、本来の人間らしい行動ができなくなっている」といいたいときに使います。
 
 このような疎外と呼ばれる現象には、2種類あります、ってことは旧い人も知りません。
 
 まず、行為論的に、自分の無力や、自分と他者との関係のなさによって自己の将来が獲得できない「疎外」。
 こっちが人間に普遍的に生ずる本来の「疎外」なんですけど、現実に使われてきたのが次に挙げる「疎外」で、今日はそちらがテーマ。
 
 で、第2として、自分が2つに分裂することにより、観念ではこちらが本物の自分だと思っている将来が獲得できないという疎外。「自己疎外」といいますね。「私は人間だからそれらしい生き方をしたいのだが、この世ではそういうふうには生きられない」って意味合いです。
 戦後、先進諸国ではずいぶん後者の疎外が問題とされてきました。歴史の一時点の問題でしかないといえないこともないんですけどね。
 つまり、それまで共同体からいろいろな規制を受けてきた中で、「理想的な自分」というものも共同体から与えられてきた、そんな生活から、「個人の自由」という生活に移る過渡期に生じた問題です。この過渡期の実体である資本主義の爛熟という生活的基礎の中で、それまでの「良い」規範と、「食うだけの生活、後は娯楽」という生活に矛盾が生じてしまったという事態です。
 そう、ほんとは、これは「疎外」というよりは「矛盾」と呼ぶほうが適切だと思いますけどね。
 資本主義が世界を覆った社会では、すでに共同体的規範がなくなり、「良い」規範は、名残のように残る「人的付き合い」に限定されてしまう。今では、自己疎外など、若干社会に残っっている貴族の末裔のような古典的エリートの思春期からのごくわずかな移行期にしか残っていないようでもあります。

 こういう矛盾を矛盾に思わない?ような状況は、生きている個人としては悩みがなくなったわけで良さそうなものですが、本当に個人にとっていいことかというとそうでもない。人間は単に食べるために生きているわけではない。各種の刺激に適切に対応することが生理的に健全なように生きている。まあ、どうせ短い人生なら、思う存分、力を出し切って生きられたほうが満足だ、ってことですね。
 で、人間の生き方を問題にする場合、問題は、人間には「良い規範」が存在する、ということであり、資本主義的にはそれが実現しない、ということです。

 普遍的に良い規範が存在するというのは、人類史上、宗教家か国家イデオローグしか言えなかったことなので、もったいないので、次の題にしちゃいます。→ 続く


 
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