(これは前回の続きです)
個人個人の理想として扱われる規範とは、人間界においては、他者の存在価値です。
つまり、他者の存在を得たいときに、その存在となってくれる、という中身を持った規範が、社会においての理想となります。
個人が苦しいときに助けてくれる存在、寂しいときに傍にいてくれる存在、悲しいときに癒してくれる存在、それらの他者を作り上げる規範が、どの世界においても良い規範となり、これを体現しようとする態度が賞賛の対象となります。
そして、この普遍的価値を閉ざすものが、「金儲けに暮れる日々」「生きるためという美名において他者をないがしろにする日々」です。
これが資本主義の原罪なのです。
かくて、資本主義の下では、誰がどんな詭弁を使おうと、どんな弁護をしようと、社会の理想は存在しない。存在するのは「そんなこといったって」という子供のような抗弁と、同業者の理想=「金持ちになるのはいいことだよ」だけ。
ああ、まだあった。支配者の被支配者が持って欲しい理想。「国家のために死ぬのはいいことだよ」
まあ、迷惑にならないように死んでください。
個人個人の理想として扱われる規範とは、人間界においては、他者の存在価値です。
つまり、他者の存在を得たいときに、その存在となってくれる、という中身を持った規範が、社会においての理想となります。
個人が苦しいときに助けてくれる存在、寂しいときに傍にいてくれる存在、悲しいときに癒してくれる存在、それらの他者を作り上げる規範が、どの世界においても良い規範となり、これを体現しようとする態度が賞賛の対象となります。
そして、この普遍的価値を閉ざすものが、「金儲けに暮れる日々」「生きるためという美名において他者をないがしろにする日々」です。
これが資本主義の原罪なのです。
かくて、資本主義の下では、誰がどんな詭弁を使おうと、どんな弁護をしようと、社会の理想は存在しない。存在するのは「そんなこといったって」という子供のような抗弁と、同業者の理想=「金持ちになるのはいいことだよ」だけ。
ああ、まだあった。支配者の被支配者が持って欲しい理想。「国家のために死ぬのはいいことだよ」
まあ、迷惑にならないように死んでください。