ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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キリスト教103~宗教的寛容の原理

2018-09-17 07:47:25 | 心と宗教
●宗教的寛容の原理

 次に、人権の観念と関係の深いものとして、信教の自由の確立・拡大について述べる。
 本稿でしばしば書いてきたように、キリスト教は、パウロによる人間行動の内外の明確な区別の教説に立つ。それに基づいてヨーロッパの近代社会では、個人における内心と行動の峻別が行われた。あらゆる自由の中で内心の自由を最も重要とし、その他のさまざまな自由は付随的とした。心の中では何を考えてもいいが、外面的行動では国家の法や社会の規範に従うという態度が確立された。この内心の自由の確保がなければ、近代資本主義もリベラル・デモクラシーも近代西欧法も発達することはなかっただろう。自由の希求とその実現は、西洋文明がキリスト教を基軸としていたことに多くを負っている。
 内心の自由は、まず信教の自由として求められた。西欧では、国王や政府によって宗教や信仰を強制されたり、自分の信じる宗教・信仰を奪われたりしない自由が最も強く要求された。宗教戦争や市民革命を経て、信教に対する「寛容の原理」としての自由が求められた。宗教的寛容によって、プロテスタンティズムやユダヤ教の信仰が許容されるようになった。そして、内心の自由は、信教の自由からより広く思想・信条の自由として要求されるようになった。さらに経済的・社会的・政治的な活動について、政府の干渉や制約のない自由な状態が求められた。
 名誉革命期にオランダに亡命していたロックは、そこで宗教的寛容の思想の影響を受けた。1689年にオランダ、イギリスで出版された『寛容についての書簡』で、ロックは、キリスト教の中で正統と異端の区別をなくすだけでなく、ユダヤ教やイスラーム教などの異教徒も、キリスト教徒と同じく信教の自由を保障されるべきだと主張した。ただし、社会秩序に反するもの、他の人々の信仰の自由を認めないもの、外国への服従を主張するもの、無神論者には制限を設けるとした。
『寛容についての書簡』が刊行された年、イギリスではロックの主張に沿って宗教寛容法が制定された。同法は非国教徒に対する差別を残し、カトリック教徒やユダヤ教徒、無神論者、三位一体説を否定する者等には、信教の自由を認めないという限定的なものだったが、信教の自由の保障が一部実現した点で、歴史的な意義がある。その保障は、やがて拡張されていった。
 こうした宗教的寛容の原理の制定には、キリスト教に対する啓蒙主義的な理解の進展という背景がある。先に述べた理神論がその典型である。
 イギリスでは、チャーベリーのハーバート卿が理神論の始祖とされる。ハーバートは、1620年代に啓示に依存しない自然宗教を説いた。その基本命題として、神の存在、神を礼拝する義務、経験と徳行の重要性、悔悟することの正しさ、来世における恩寵と堕罪の存在を信じることの5点を挙げた。
 ロックは、宗教的寛容を説いた後、『キリスト教の合理性』(1695年)で、理性の権威と聖書の権威は両立するという証明を試みた。ロックは、キリスト教徒が絶対に信ずべきものは、神が存在することと、イエスを救世主とすることの二つとし、それ以外の教義や儀式、制度等は否定する。本書でロックは、人間は理性の範囲内でのみ啓示を理解できる、それを超えた部分は信仰の領域である、信仰は理性で論じるべきでない、各派は些末な問題での論争を止め真の信仰を取り戻せ、と説いた。
 また、ジョン・トーランドは、『キリスト教は神秘的でない』(1696年)で、ロックのキリスト教の合理的性格の論証を援用して、キリスト教の中には理性を超えた神秘的要素は何ひとつ存在しないと強調した。本書の公刊に際し、国教会の護教論者が攻撃を加えたのを機に、理神論者と国教徒の論争が行われた。言論を通じて、イギリスでは宗教的寛容の法制度化が進んだ。その影響は、ヨーロッパ各国に広がっていった。

 次回に続く。