ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権342~リベラル・ナショナリズムとは

2016-08-22 08:52:20 | 人権
リベラル・ナショナリズムとは

 コスモポリタニズムを批判するコミュニタリアニズムは、地域的(ローカル)、民族的(エスニック)またはナショナル(国民的)な共同体に関心を集中する傾向がある。その中でも特にネイションの役割を重視する考え方に、リベラル・ナショナリズムがある。続いて、リベラル・ナショナリズムについて述べたい。
 リベラル・ナショナリズムは、コミュニタリアニズムと同様、個人主義的な自由主義や国家否定のコスモポリタニズムを批判する。ネイションは、各種の共同体のうち、政治的な共同体の最大のものである。リベラル・ナショナリズムは、個人主義的自由主義を批判する集団主義的自由主義の立場から、ネイションに特別の価値を認める。そしてリベラル・デモクラシーは連帯意識や相互信頼感を備えた共同体としてのネイションを基礎としてはじめて成り立つ、と考える。自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値も、ネイションを通じてこそ実現されるとする。こうした考え方によって、リベラル・ナショナリズムは、リベラリズム(自由主義)とナショナリズム(国家・国民・民族主義)の融和・総合を図るものとなっている。
 歴史的には、ヒュームやアダム・スミスにおいて、自由主義とナショナリズムは不可分のものだった。彼らは自由貿易を説きながら、個人や私的資本の利益の追求だけではなく、各国のネイションの国際的な繁栄を目指した。中野剛志のいう「経済ナショナリズム」である。またケインズは、1920~30年代のイギリスの深刻な不況の際、自由を守るために自由に一定の制限をかけ、雇用を創出する失業対策を打ち、ネイションの繁栄を目指すナショナリズム的な経済学を構築した。私は、リベラル・ナショナリズムをこの系統に立つ現代の思想と見ている。
 ナショナリズムは、ともすると偏狭になったり、排外的になったりしやすい。リベラル・ナショナリズムは健全な愛国心や国民の誇りを肯定しつつ、ナショナリズムにリベラリズムという制約をかけ、他のネイションの自決権を尊重し、自国のマイノリティ(少数者)の権利に配慮する。
 リベラル・ナショナリズムは、リベラリズムによってナショナリズムに制約をかけるという点だけでなく、ナショナリズムによってリベラリズムの欠陥を補正するという点も持っている。リベラリズムは、18世紀「啓蒙の世紀」に発達した。啓蒙思想は理性を信奉し、近代西洋文明における理性の擬似的な普遍性を前提としていた。啓蒙思想の影響を受けたリベラリズムは、文化的に中立であると考えられた。いわば無色透明なものと想定された。この発想は前期ロールズの『正義論』にまで貫かれている。しかし、実際のリベラリズムは、イギリス、アメリカ、フランス等で異なる特徴を示す。コミュニタリアニズムは、文化的多様性を認め、コミュニティによって価値観が異なり、価値観は文化的文脈(context)によって異なることを指摘する。リベラル・ナショナリズムは、ネイションの独自性に注目してこの点をより明確にとらえる。そして、リベラリズムは文化的に中立ではなく、ナショナルな特色を持つと考える。
 文脈という言葉は、まさに言語を前提にした概念だが、文化の中核的要素には言語がある。人間は、言語があって初めて有意味な思考が可能になる。個人の自由は、言語を中核とする文化的な共同体という枠組みにおいて、確保され、拡大される。国家は、文化的な共同体を基礎とする政治的な共同体である。政府は公用語を用いて国民を統治する。言語は多様であり、その言語を中核とする文化もまた多様である。それゆえ、政府が文化的に中立であることはありえない。
 リベラリズムの要素である自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等は、各国や各文化によって異なる特色を持つ。リベラル・ナショナリズムは、それらの特色はネイションによるものであり、それぞれのネイションにおける伝統・文化・習慣と関連があるとする。この見方は、トッドが家族型による自由/権威、平等/不平等の価値の組み合わせの違いを明らかにしたことによって、人類学的にも確認できる。リベラル・ナショナリズムは、自由・デモクラシー等の発達はネイションが役割を果たしてこそ、可能になると考える。仮にあるネイションにおけるリベラリズムを文化的に中立、無色透明なものと考えて、ほかのネイションに押し付けるならば、それは一つの文化の押し付けとなり、他のネイションの文化的自己決定権を侵害するものとなる。
 リベラル・ナショナリズムは、文化的な多様性を認め、相互の文化の尊重を原則とする。ロールズの「穏健な多元性の事実」の認識は、包括的な宗教的・哲学的・道徳的教説の多元性、広く言うと文化的な多様性を認め、そのうえで社会を統合する原理を求めるものだが、リベラル・ナショナリズムは、これをネイション重視の姿勢で追及する。
 ロールズの『正義論』は個人主義的自由主義に立ち、コスモポリタンな志向を孕んでおり、ベイツやポッゲは、その志向性を理論的に追求した。これに対し、リベラル・ナショナリストは、前期ロールズを継承したコスモポリタンを批判する。ロールズ自身はその後、政治的自由主義による「重なり合う合意」の考え方に転じ、「諸国民衆の法」では主体を個人から人民・民衆(ピープル)に変更した。この時、ロールズはネイションを積極的に評価しようとはしなかった。これに対し、リベラル・ナショナリストは、ロールズが軽んじたネイションの役割を再評価する。ロールズは民衆を主体とする立場からコスモポリタンを批判したが、リベラル・ナショナリストはネイションを重視する立場から、ロールズとコスモポリタンをともに批判する。
 リベラル・ナショナリズムはコミュニタリアニズムの一種だが、コミュニタリアニズムのうち地域的・民族的な共同体に焦点を合わせるものは、国際的な問題やグローバルな課題に対する関心が低い。リベラル・ナショナリストは、国際的な問題やグローバルな課題への関心を示し、コスモポリタンと対話しつつ、コスモポリタンに対してネイションの再評価を迫る。正義については、ネイションを越えたグローバルな正義ではなく、各ネイションの自己決定と協調に基づく国際的正義を追求する。人権については、脱国家的な個人の人権ではなく、ネイションを基礎とする国際社会での個人の人権を保障しようとする。私は、こうしたリベラル・ナショナリズムには、様々な文明・文化が共存共栄できる世界を目指す政治理論に発展し得る可能性があると考えている。次にその代表的論者であるデイヴィッド・ミラー、ウィル・キムリッカ、ヤエル・タミールの思想を見ていきたい。

 次回に続く。

■追記
 
 本項を含む拙稿「人権ーーその起源と目標」第4部は、下記に掲示しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03i-4.htm (紙製の拙著『人類を導く日本精神』の付録CDにデータを収録)