ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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集団的自衛権は行使すべし10

2008-01-15 14:28:01 | 憲法
●拒否権への対抗として集団的自衛権を主張

 国際連合の成立過程で、集団的自衛権は、どのように議論され、規定されたか。その経緯は、大略次のようである。

 1944年8月のワシントン郊外のダンバートン・オークスで、米英ソ中4カ国の代表が会議を行った。このダンバートン・オークス会議で、国際連盟に代えて国際連合を設立することが決定された。また国際連合憲章の草案が作成された。草案の内容には、集団的自衛権は含まれていなかった。集団的自衛権が主張されるようになったのは、大国の拒否権の構想への危惧によるものだった。
 1945年2月、アメリカのルーズベルト、英のチャーチル、ソ連のスターリンが、クリミア半島のヤルタで、ヤルタ会談を行なった。この会談で、米英ソの首脳は、第2次大戦の終結方法と戦後秩序の構築を密談した。国際連合の設立についても話が進み、米英ソ等の主要国が、安全保障理事会の常任理事国になり、常任理事国は拒否権を持つことが合意された。常任理事国の拒否権は、常任理事国が紛争当事国である場合でも、拒否権を行使できるというものだった。この構想は、大国の地位を維持する目的によるとともに、国際連盟の反省を踏まえたものでもあった。
 国際連盟は、総会における全会一致を原則としていた。そのため、大国間で利害が対立した場合、連盟の組織は機能しなくなった。これに対し、国際連合は、総会では多数決で票決する一方、米英ソ仏中の五大国が常任理事会における拒否権という特権を持つこととした。これは、五大国が協力して戦後の国際秩序を構築するとともに、大国相互の単独行動を防止しようという意図もあったのだろう。

 ヤルタ会談では、戦争終結後のヨーロッパの復興・管理について、米英とソ連の間に思惑の違いが表われてもいた。もともと連合国といっても、資本主義と共産主義、自由主義と統制主義という根本的な思想の違いがある。枢軸国に対抗するために、同盟を結んだに過ぎない。これを「民主主義と全体主義」の戦いなどと標榜したが、ソ連は全体主義国家であり、自由民主主義とは価値観が相容れない。だから、大戦終了後は、激しく思想・利害が対立することは明らかだった。
 その徴候の一つは、ソ連が「絶対的拒否権」を強く主張したことだった。拒否権は、常任理事国5カ国のうち一国でも拒否権を行使したときは、他の国々多数が賛成であっても、表決は無効となる。もしソ連が拒否権を濫用するようになれば、安保理は機能麻痺となり、国際連合の組織そのものが危機に陥るおそれがある。

 このことに特に強い危機感を抱いたのが、米州諸国会議に参加する国々だった。米州諸国会議は、米国及び中南米諸国で構成される国際会議である。大戦中、中南米でアルゼンチンのみはナチス・ドイツ寄りだったが、それ以外の国々は団結して、米国の戦争遂行を支持した。
 ヤルタ会談と同じ月、1945年2月に、米州諸国会議がメキシコのチャプルテぺクで開かれた。この会議で、大戦中の協力関係を永続的なものとする共同防衛条約の締結を目指す協定が採択された。
 チャプルテぺク宣言は、関係国の独立が侵害される恐れのある場合、相互に救援することを定めた。当時、米州諸国会議の国々は、国際連合において大国の拒否権が制定された場合、もし安保理常任理事国が中南米諸国の一部と共謀して、他の国々を侵攻し、安保理で拒否権が行使されたならば、攻撃を受けた国を救援することができなくなることを危惧したのである。
 この事情は、ソ連が中南米で共産主義を広め、親ソ的な国を根拠地として勢力を拡大する場合を想像すれば、よく理解できると思う。実際、後にキューバで社会主義革命が起こり、1962年には米ソ間にキューバ危機を招いた。さらに毛沢東主義の影響を受けたゲリラがラテン・アメリカ諸国に広がった。米州諸国会議の国々の危惧は、あたっていたわけである。

 次回に続く。