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「本阿弥光悦の大宇宙」展

2024年03月08日 | アートエッセイ

 毎日のようにガザ地区でのイスラエルの残虐な殺りくや、ウクライナでのロシアによる一般市民の住む住宅への爆撃など、目を覆いたくなるようなニュースが続いていますね。

 そんな中、一服の清涼剤を得ようと上野に行きました。「本阿弥光悦の大宇宙」と名付けられた展覧会です。本阿弥光悦はその後の日本の芸術文化の源流を作り出した人物で多芸多才、芸術の総合プロデューサーとも称されます。

 

 茶道具や書画骨董をお好きな方であれば、本阿弥光悦の名声はよくご存じでしょう。そうでない方にはなじみのない名前かもしれません。私が日本で最も好きな芸術家の一人です。その不思議な響きを持つ名前に初めて出会ったのは小学校6年生の夏でした。

 友人のお姉さんが吉川英治作「宮本武蔵」、全六巻という大作を読んでいたのですが、その本を見て、読みたいと母親にせがみ買ってもらいました。小学生で何故そのような大部の本を読みたがったかと申しますと、二刀流の剣術使いに憧れたからで、私の子供の頃は近所の悪ガキと毎日のようにチャンバラごっこをしていたからです。元々新聞に連載されていたため、本になっても見開きで必ず挿絵があったのも、読手の助けになったのだと思います。

 小学校時代に、やっと六巻を一度読み終え、その後中学・高校時代、そして大学時代にも読んでいます。ストリーをすべて記憶していてもなお面白さを感じる本でした。その中で武蔵は本阿弥光悦と出会い、それが光悦を知るきっかけになりました。

 本の中での光悦と武蔵の出会いは、京都にあって天下にその名を轟かせていた剣術道場、吉岡一門との決闘直後、野点をしていた光悦と偶然に出会ったという設定でした。戦を終えて血なまぐさいままの武芸者とは正反対の芸術家に出会い、光悦は彼のその後の人生に大きな影響を与えることになりました。この出会いの場面は、吉川英治の創作と言う説が有力です。

 武蔵は晩年になると多くの水墨画を描き残しています。中でも有名なのは重要文化財となっている掛け軸「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず )」で、細く長い枯れ木の上にモズがとまっているだけの図柄ですが、一筆で一気に書いたと思われるその枯れ木の鋭さが、私には真剣で見事に空を切り裂いた跡ように見えるのです。

 彼は晩年を肥後細川家で過ごしています。その関係でしょう、細川家の家宝を収蔵する「永青文庫」にはいまだに彼の書画が多く残されていて、拝観することができます。今回も永青文庫からは数多く出展されています。

 

 次に私と光悦が出会ったのは、芸術雑誌の芸術新潮誌上です。JALに就職してすぐ、トレーニーとしてフランクフルト支店にいた時代に出会った方が芸術新潮で仕事をされていて、日本に帰ってからも交流が続き、芸術好きの私に毎月月刊誌を送ってくれたのです。その中に本阿弥光悦の特集号がありました。学生時代に読んだ本に出てきた本阿弥光悦の芸術作品に初めて写真で出会い、特に茶碗の造形にいたく感動しました。今さらながらですが、私は若いうちからやけに老人趣味だったのです。それまでは父親の趣味とドイツにいたことも影響し、ヨーロッパの音楽と絵画に傾倒していたのですが、芸術新潮のおかげで日本の芸術文化にも目覚めることができました。友人に感謝です。

 本阿弥光悦の陶芸の代表作には、国宝の白楽茶碗「不二山」や、私が大好きな赤楽茶碗「乙御前(おとごぜ)」。黒楽茶碗「雨雲」などがあり、それらも展覧会に出展されていました。展示された茶碗の前に立つと、その瞬間、いつも鳥肌が立ちます。

 

 また今回展覧会のポスターにもなっている代表作のひとつが、装飾的な国宝の硯箱「船橋蒔絵硯箱(ふなばしまきえすずりばこ)」です。硯箱といいながら実にユニークな造形美を持つ漆工芸の傑作として国宝にも指定され、代表作の一つとして知られています。

光悦展のHP;https://koetsu2024.jp/

 今回のもう一つの目玉作品が本阿弥光悦筆、俵屋宗達下絵「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」です。俵屋宗達と言えば、琳派を代表する絵描きですが、その絵を下絵として上に筆で和歌を書くという大胆不敵なことをしています。それもそのはず、俵屋宗達は若い時に光悦に見いだされ、鷹峯に移り住んだ一人なのです。そのまき絵、上下34㎝、幅13m半に及ぶ大作です。琳派の始祖は尾形光琳ではなく実は光悦と宗達の二人であると言われています。

 

 そもそも光悦は京都の洛北、鷹峯(たかがみね)に徳川家康から9万坪もの土地を拝領し、そこに工芸家集団を集めた芸術村を作りあげました。絵描きでは後の琳派の俵屋宗達、尾形光琳の祖父宗伯、陶芸家では楽家一族も居を構え、光悦とともに作陶に励みました。そのためか光悦の茶碗はほとんどが楽茶碗です。

 面白かった展示物に、「茶碗のための土をおくれ」という、光悦が楽長次郎宛に書いた走り書きがありました。お隣さんに「ちょっとしょうゆをおくれ」と言っているようで笑えます。一帯は光悦村とも呼ばれ、現在も光悦寺が存在しています。そして京都市は最近「新光悦村」という工芸村の開発を鷹峯付近で始めていて、土地の分譲をしています。さすが伝統工芸都市京都、成功を祈ります。

 本阿弥家の本職は刀の研ぎと目利きです。刀の鑑定は刀身だけでなく、鞘や鍔などのしつらえを見る目も必要で、金工・木工・漆芸・蒔絵・螺鈿(らでん)など様々な工芸の専門知識が必要です。今回の展示にも光悦のお墨付きを得た名刀の数々がしつらえとともに展示されていました。彼は本阿弥家の後継ぎとして幼いころから厳しく仕込まれたと言われています。それが後年の活躍にも存分に生かされたにちがいないのです。そうした力は彼をいわば芸術の総合プロデューサーの地位にまで押し上げました。

 

 以上、私が最も好きな芸術家の一人、本阿弥光悦とその展覧会でした。

 

 内外で不穏なニュースばかりが多い中、わたしにとっては一服の清涼剤となりました。

コメント (3)
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