たまちさん、お待たせしました。
ドイツ時代の夢のコンサート、その2。フィルハーモニーで聴いた皇帝カラヤンをお届けします。
まずはたまちさんのコメント投稿にそって、私からの回答とコメントをさせていただきます。
>アウトバーンで600キロ、これって時速200キロほど出せば3時間ちょっとだったりするんですよね。
スピードは無制限だったので、可能は可能ですが、私の中古車では190㎞が限界でしたし、そのまま長時間のドライブをしたら、壊れます(笑)。直線の多いアウトバーンでも、180kmを超えると視野は狭くなり、手には汗、心臓が口から飛び出そうなくらい緊張します。
>当時のアウディってもしかして名車アウディ100でしょうか。
そうです。でも「名車」と言われていた、というのは初めて聞きました。70年代の日本ではドイツ車といえはベンツとBMW。アウディは知る人ぞ知る。ドイツではベンツはお迎え車ではなく、高給取りが乗って飛ばす車。BMWは中給取りが乗って飛ばす車。アウディは若者が中古を買って飛ばす車でした(笑)。そしてポルシェは、超金持ちの年配者で飛ばしたい人が乗る車でした。
>ドイツはまだ壁崩壊の前、フィルハーモニーは連合国管理下のベルリンでしたが、東ではなく西側ですね。
そうですね。東ドイツの真ん中の飛び地でしたね。
>カラヤンの黄金期として今も語り草になっていて、ベルリンの公共放送ラジオはいまも本当によく当時の演奏をオンエアーしています。
そうですか、いまでも聞けるのはいいですね。
彼は超のつくオーディオマニアですから、ソニーの開発したPCM録音を最初に使い、いい音を後世に残すことに一生懸命だったので、我々は今でも楽しめるんですね。ちなみに彼の愛車はBMWの特別仕様「アルピナ」でした。きっとスピード狂間違いなし。それともう一台、愛機プライベートジェットで駆け回っていました。
>バンベルクもいいですね。重厚で朴訥なドイツ流の音を響かせる名門オケは、ベルリンフィルに負けない良さがあります。当時の指揮者はヨッフムでしょうか。
はい、オイゲン・ヨッフムでした。バンベルクをご存知の方は、かなりのマニアです。人口わずか7万人の小さな町ですが、バンベルク交響楽団がその名を轟かせる役割を果たしています。奇跡的に戦災を免れた古い町並みに大きな教会があります。年に一度着飾った人々がやってくるクリスマスの荘厳さは忘れ得ぬ体験です。その中で市民向けの無料コンサートが行われ、それに招待されるという幸運を得ました。コンサートホールとは全く違う響きを聞かせてくれる教会コンサートには、本当に心が揺さぶられました。
>ザルツブルク、聴衆の着飾りのほど、私も冬シーズンでしたが80年代の祝祭大劇場を経験しています。最低でも燕尾服、むしろ現地の人たちはチロリアンを取り込んだ民族服で着飾って音楽を楽しみに来ていたのにとても驚きました(背広姿では本当にいたたまれなくなります)。
そうでしたね、たまちさんのおかげでチロル風の民族衣装も思い出しました。あの地方の人々は晴れの日には民族衣装を着てチロリアンハットをかぶって出てきますね。
>夢のような70年代の音楽三昧の話、
もう一つ、追加します。
ドイツに赴任した時、ザルツブルグと並んでどうしても聴きに行きたかったのが、ベルリンフィルのホームであるベルリンのフィルハーモニーでカラヤンを聴くことでした。名前がちょっと紛らわしいのでみなさんに説明しますが、いわゆる管弦楽団のベルリンフィルはドイツではベルリーナー・フィルハーモニカーと言います。そしてコンサートホールは、ベルリーナー・フィルハーモニーなのです。
そのホールはかなり変わっていて5角形です。客席は真ん中の舞台を5角形で囲むすり鉢型です。ということは、楽団の裏にも客席があります。77年当時もカラヤンが指揮する定期公演のコンサート・チケットはプラチナ・チケットで、手に入れるのは至難の業でした。
それを手に入れてくれたのは当時のJALのベルリン駐在員のNさんでした。実はJALは楽団や楽器輸送では世界に名の知れたエアラインで、楽器専用のコンテナを独自に開発して評判を得ていました。ベルリンフィルがカラヤンと日本で公演をするとなると、窓口は地元のNさんでした。このNさんは、誰もが驚くクラシックマニアで、日本の家の居間の床がレコードの重さで抜け落ちたという逸話の持ち主です。
ベルリンに来る日本の音楽家は誰もがNさんの世話になるので、ちょっとした顔役。ベルリンフィルの指揮をした指揮者で言えば、岩城宏之氏や小澤征爾氏です。Nさんがコンサート前日に私を連れて行ってくれたのは当時のベルリンで唯一の日本食を食べさせるレストラン、「京都」でした。彼が言うには、「今日は小沢さんがベルリンに来ているから、きっとここに来るよ」。食べ始めて間もなく、彼の予言どおり小沢征爾氏がぶらりと入ってきて、いきなり我々の席にジョイン。
彼らは「よー、元気だった?」と言う調子で杯を酌み交わし始めました。Nさんは私をフランクフルトの支店からベルリンフィルを聴きに来た若い社員ですと紹介してくれました。私は「成城学園出身で、小沢さんの後輩です」といっただけ。小澤氏は私同様中高だけ成城学園にいました。その縁で毎年学園の大ホールで、生徒を前にリハーサル練習をしてくれました。驚いたのは彼のオシャレでした。休憩時間が何度かあったのですが、そのたびに彼は着替えをして出てくるのです。女の子達はそのたびにキャーキャ言っていました。
その後の二人の会話はとにかくクロウトの音楽談義で、とてもついていけるようなシロモノではありませんでした。ただその中でよく覚えているのはNさんが言った、「小沢さんが振る時のベルリンフィルはコントラバスを8本のフル編成でくるけど、ちょっと落ちる人だと6本がいいところですよ。ベルリンフィルなのに満席にならないしね」というような調子です。当時フィルハーモニーを満席にできるのはカラヤンと小沢だけで、ベームでも空席が出る、と言われていました。
さて、コンサートではカラヤンが出てくるとホールの空気が一変し、ピーンと張りつめました。楽団員の顔が硬直し赤くなっている様子までわかるほどです。しかしカラヤン自身は他の指揮者と全く違い、指揮の最中に体や頭を大きくは動かさず、派手で大げさな動作は全くありませんでした。私の座席はほぼ正面の20列目くらい。オーケストラ全体の音を把握するにはほどよいポジションです。しかし私は休憩の後に冒険をしてみたくなりました。舞台の裏側の席から、指揮を執るカラヤンの顔を見てみたかったのです。休憩の前に1席だけ空いているのを見つけてあそこに行こうと心に決め、休憩時間に実際に席を移ってしまったのです。うまい具合に誰も来ず、そのまま座り続けることができました。
顔を見に行って驚いたのはカラヤンの表情で、彼は最初の音出しをすると、あとはほとんど目を開かなかったのです。普通指揮者は指揮棒とともに目配せや身振り手振り指示しながらオーケストラをまとめ上げますが、腕や体を大きく動かすことはなく、驚いたことに8割方目をつぶったまま指揮をしていたのです。もちろんその裏には日常的に厳しい練習があり、本番はオーケストラに任せられるという彼の自信を表すものなのかもしれません。
Nさんのお話では、ベルリンフィルの団員は団員であることに非常に誇りを持っていて、特に指揮者がカラヤンの時の緊張感と集中力は並々ならないものがある。逆にカラヤンでないと若干なめてかかるのだとも言っていました。それがきっと本番での会場の緊張感にも表れるのでしょう。
私はカラヤン好きで、多くのCDを持っているのですが、彼のどこが好きかと申しますと、「音楽の完璧な美さ」です。音楽そのものは比較的オーソドックスで、エキセントリックだったり目立つ山場を作ったりするところはありません。しかし完璧さを備えた美しさを持っているのです。世界の多くの人が彼の音楽の美しさを認めた証拠があります。それはカラヤンの指揮した交響曲の「アダージョ」だけを集めたCDの大ヒットです。
彼は自分の作り上げる演奏の美しさに酔うようなところがあり、演奏中に何度か涙を流していたというエピソードが残っています。交響曲のいくつかの楽章の中のでは、とりわけアダージョ部分に特徴があります。彼の死後多くの楽曲の録音からアダージョ部分だけを寄せ集めたベストアルバムが作られ、それが世界的ヒットになったのです。CDをお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。アダージョとはイタリア語で「くつろぐ」、音楽用語では「ゆっくりと弾け」です。カラヤンの神髄は美しく静かなアダージョにあるように思えます。
ポピュラー・ミュージックであれば、100万枚売ったとか200万枚だとか、中には1,000万枚の大ヒットが出ることがありますが、彼の「アダージョ」のアルバムはクラシックにもかかわらず累計5,000万枚と言われています。最初は1枚のアダージョが発売されたのですが、そのヒットに気をよくしたレコード会社が、バージョンを変えて1、2、3、・・・ ベストと続々と出し続け、遂に5,000万枚にまで達してしまったのです。クラシックで5,000万枚は空前絶後でしょう。それこそが、世界が認めた彼の音楽の美しさの証明だと私には思えるのです。ちなみに彼のアルバム総数は900、総販売枚数は1億枚と言われています。
アダージョのCDのジャケットはカラヤンファンなら喜ぶに違いない、彼のベスト・ポートレートで、静かなアダージョにふさわしい品格を備えた横顔が写っています。アダージョが気になった方は1枚買い求めて聴いてみてください。すでに中古ばかりなので、とても安く買えますよ。カラヤンの音楽の美しさに、コロナなんかきっと忘れることができます。