河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2404- オテロ、バッティストーニ、東フィル、2017.9.8

2017-09-08 23:32:51 | オペラ

2017年9月8日(金) 7:00-9:55pm オーチャードホール

Bunkamura プレゼンツ
ヴェルディ 作曲
アンドレア・バッティストーニ プロダクション
ライゾマティクスリサーチ 映像プロダクション
オテロ  (コンサートスタイル)

キャスト(in order of appearance & voices’ appearance)
1.モンターノ、斉木健詞(Bs)
1.カッシオ、高橋達也(T)
2.イアーゴ、イヴァン・インヴェラルディ(Br)
2.ロデリーゴ、与儀巧(T)
3.オテロ、フランチェスコ・アニーレ(T)
4.デズデーモナ、エレーナ・モシュク(S)
5.エミーリア、清水華澄(Ms)
6.伝令、タン・ジュンボ(Bs)
7.ロドヴィーコ、ジョン・ハオ(Bs)

新国立劇場合唱団
世田谷ジュニア合唱団
アンドレア・バッティストーニ 指揮
東京フィルハーモニー交響楽団

(duration)
ActⅠ 31′
Pause 2′
ActⅡ 34′
Int
ActⅢ 39′
Pause 2′
ActⅣ 31′

今年2017年春に初台の出し物でカリニャーニが振ったオテロと、その指揮者と主役3人が違っているだけで、他はオケまで含め概ね同じ。
バッティの振るオペラは以前リゴレット、イルトロを観劇。コンサートは江副記念の伴奏や東フィル公演を。観て聴いているほうとしてはヒート感はなくてコントロールしない棒という印象が聴く毎に強くなる。そんな中、
今回のオテロのプログラム冊子に彼の特別寄稿「オテロ、もしくは二元論の」というのがあってそれを読んでみると、一文に、私のオテロ解釈は楽譜というよりシェイクスピアの原作から引き出されたもう一つの重要な前提にも基づいている。と明確に書いてある。
結末、指揮台の下で絶したオテロを、指揮台に片足上げて見下ろすイアーゴ。これはプロダクションとしてクレジットされているバッティストーニ自身が付けたものであろうし、音楽の激しさはオテロ否定までの道のりだった。コントラストの妙を、強烈な味付けで表現したわけですね。うまいへただけで騒ぐものとは一線を画するような話だろうとは思う。
1,2幕の激しさが3幕まで突き抜けていてあまり聴くことの無い激流の音作りにびっくりしたのだが意図はよくわかるものだった。荒々しさがここまで必要だった。

ハンカチの勘違い策略がとんでもない妄想まで引き起こすものかどうか、圧倒的で威圧的な第1幕冒頭からの音楽、そしてこのストーリー、斜め見することが多いオペラオテロではあるのだが今日はそんな気持ちは湧いてこなかった。コンサートスタイルといいつつ、演技と歌は舞台上のオケの前と、オケと奥の合唱の間という2ラインで行う。このためオペラ的遠近感が相応に取れるものとなっている。ただ、策略謀議の妙までは出て来ない。そういうところはあるのだが、コンサートスタイルという要素で音が純化、精度が高まる、といったありきたりの結果を求めたものに無いのはバッティの上記解釈の表現が精度追及に勝ったのかもしれない。

バッティは殊の外、身が軽そう。ポンポン縦の動きが軽快。音楽からエネルギーをもらっているかのようだ。この身体躍動感、演奏はそれをもらい律動よりもむしろ音圧で応えている。冒頭の激しい音楽があとで場違いじゃなかったのかなといういつもの思いを蹴散らしてくれる持続の音楽でもあった。各幕内で完結するドラマ的な対比は強調するような音楽作りにはなっていなくてバッティ特有のフレージングも強調されない、全幕が最後の一点に向かう構成感で動いていく。
主役3人衆。
モシュクはデズデーモナを今回初めて歌うとのこと。コンサートスタイルで良かった的なところがあったかもしれない。無難にこなした。彼女は2013年スカラ座来日公演でリゴレットのジルダをドゥダメルの棒で歌ってますね。
アニーレとインヴェラルディは声質を別にしてキャスティングが反対ではないかとちょっと思いましたが、進んでいくうち納得したところがあります。両者、場数を踏んでいて場慣れしている感があり安心して聴ける。ドラマのツボを心得ている。ドラマ作りに長けている。
アニーレはよくのびる声でこのホールを満たす。インヴェラルディはこのバッティ意図劇には少し優しすぎるところがあるけれども、わるいものではない。両者の対比の妙がコンサートスタイルではなかなか出づらいというのもある。
概ね楽しめました。

それから、当公演では映像の事がクローズアップされておりました。ライゾマティクスリサーチが担当。オペラの数値化(データ化)実現のために、鑑賞者に登場人物になってもらい心的変化をデータ化解析、それと指揮中指揮者の動きをデータ化解析。阿部さんの文は抽象的なところが多く判然としない箇所が多いが、概ねそういったところ。
これらを作用子として、このホールの要素を三次元的に情報化したものに作用させたプロジェクション・マッピングということだろうと思われる。立体構造の正規化されたモデルに歪みのサンプルを作用させたものと理解。物理的な解説のところにアナログ、感情そういったものが入り込んでいてわかりづらい文章となっている。
それから例えば、見える化という言葉は使用法が違うのではないか、単に可視化の事をいっているようで、そういったところの気負いのようなものも感じる。言葉の定義の明確化が必要。
結果、データ解析して数値化したものが、何故、抽象的な映像にならなければならないのか。意味を含んだもの止まりと言わざるをえない。舞台を持ったせわしない芝居小屋オペラでもこのようなものは転がっている。裏切られた気持ちですね。
かえって、映像が出ない時、音楽が雄弁になる。これではその効果を狙ったものと少し苦笑いでもしたくなる。残念。

バッティの解釈はこれから変わっていくと思います。この作品だけでなく、スポットライトの当て方が変わっていけば解釈も変化成長する。
おわり