河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2125- ショスタコーヴィッチ、レニングラード、テミルカーノフ、ペテルブルグ、2016.6.2

2016-06-02 23:49:57 | コンサート

2016年6月2日(木) 7:00pm サントリー

ショスタコーヴィッチ 交響曲第7番ハ長調 レニングラード 29′、10′、15+17′

ユーリ・テミルカーノフ 指揮 サンクト・ペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団


テミルカーノフが渾身の力を込めて振った第1音、だが、フルオーケストラ冒頭のその音がなかなか出てこない。弦が一人我慢できずにフライング気味に飛び出した。
スタイリッシュに高技巧に裏付けられたかつてのムラヴィンスキー時代のレニングラード・フィルのサウンドは面影をたどるようなものとなってしまったが、それでもこの1音目の遅れに世界最高峰時代のことがフラッシュバックした。やっぱり今でも凄いオーケストラだと。
これぞシンフォニック・オーケストラの醍醐味。一体感の素晴らしさは、この冒頭から曲が終わって指揮者が一人ずつプレイヤーを立たせるときのごく小さなワン・ポイントしぐさまで。日本のオケみたいに、えっ、誰、オレのこと?、みたいな、こっぱずかしいジェスチャーは皆無。プリンシパルだけでなくみんなわかっている、指揮者のコントロールとメンバー自らの納得の実感が見事にシンクロしているとしか言いようがない。これはゲルギエフ、キーロフからマリインスキーと彼らも同じようなコントロールを持している。
演奏の一体感はこうでなければならない。

Tの指揮はもはやそのようなコントロールさえ解脱した解放。全てのことをやりつくした後の解放感のような演奏アトモスフィア。自由な呼吸。昨年のビエロフラーヴェク、チェコ・フィルのわが祖国全曲のときも同様なことを感じましたけれども、肩の力が抜け全曲を上から俯瞰しながら棒を振っている。最初の音も最後の音も、最初から全て見えている。これらの演奏は実際に見てみないと呼吸の実感がわからないものかもしれない。彼らには自身の演奏ヒストリーの額縁がもしかして相応しいのかもしれない、これまで彼らが指揮してきた数々の演奏が寄り集まって昇華されていくような気配、ポーディアムでの音楽の核心だけが動いているようなその姿、先に進むことはここではもういいのかもしれない。安息の表現とも言える。

第1楽章のボレロ前のブリッジは果てしもなくコクがあり過ぎまくり。ここのパッセージ、非常にスローで長い。膨らみのある弦が意味ありげに揺れ動く。ここを聴けば彼のしていることをだいたい理解できるというものだ。
このあと音は極限まで行くのだが一糸乱れない演奏で、ブラスはじめ折り目がよくわかりモヤモヤしない。バンダ含めホルン8、トランペット3+3、トロンボーン3+3、チューバ1の布陣だが、別ポジションにバンダということではなくて一緒の吹奏です。指揮者になじみのある読響メンバーが頑張っています。
ブラスの炸裂、全楽器による強奏、聴きごたえ満点、ふと、この曲は戦後の回想ではなく戦中の作と、あらためて音によるリアリティーを感じないわけにはいかない。
2楽章のスケルツォはこの作曲家の他の作品よりもよりバランスした長さであり、巨大な7番であるがいびつなアンバランスを回避している。Tは落ち着いた指揮で安定感のあるスケルツォ。
緩徐楽章3楽章の冒頭はブラスのコラールから始まる。ここは決然と明確に。非常にメリハリの効いた語り口です。ニ長調のやにっこさと妙な安ど感が綯い交ぜになる。そしてそれがアタッカで続く終楽章の頭まで続くのだが、はてこの解決しないふっきれないものはなんなのかと。
提示部副主題のフルートによる3拍子の落ち着いたメロディーライン、ひと時の安息。これが同楽章後半ヴィオラで再帰(全音スコア練習番号137の3小節目、例としてバルシャイ&ケルン第3楽章12分30秒から)するのですけれども、これをTの場合、割愛していると思う。聴こえてきませんでしたから。
2010.5.11に読響を振った時も同じく感じたが、今回も同じでしたので確信しました。再帰が無いことによるニ長調は安楽の安定感を持つことなく、一定の緊張感をはらんだままのテンションで終楽章に突入していくことになる。
この日と同じ組み合わせによる1995.1.18-19の演奏(BMG BVCC38209-10)では演奏されていますのでその後の変化ともとれます。2008.5.22のヴィクトリア・ホールでのライブ録音は聴いていませんので、それは確認したいと思います。

やにっこいニ長調の緊張感のあと、終楽章で爆発するかと思いきや、曲は肩透かしをするかのようにピアニシモで長めのストリング音型とともに少しずつ律動を激しくしていく。ここらあたりはやっぱり5番とは似て非なる。そして曲の節(ふし)を最大限に優先したコーダ、高らかに歌い上げるフィナーレ、その自由さの中にオリジナルなロシアというものの強調を感じざるをえない。練習番号207からは、4拍子-5-4-3/2-4-3-5-3-5-3-5-4、と拍子を変えてくるが変拍子のトリッキーさはまるでなくて、ロシアの地の節を西欧的な譜面に描いただけのようなもので、まるで違和感のない極めて自然なものだ。
Tはことさら絶叫することはなく相応な節度をもって曲を締める。見事な演奏でした。

強靭なベースをはじめ分厚い弦群、やや細く品のあるブラス、クリアなウィンド。咆哮に一定の節度と自然なマナー、バランスを感じさせつつ最終的には巨大な表現、そしてあらためてあの戦争時代があったんだと実感させてくれる。名演でした。
ありがとうございました。

この日の演奏は2016.9.11にNHK、Eテレで映像が流れるとのこと。
可視で、宙吊りマイク13、床上マイク10、テレビキャメラ7(うちキャメラマン付き3)、と、たくさんありました。
おわり


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