フルトヴェングラーが死んでから20年後に、日本フルトヴェングラー協会なるものにはいってみたが、当時はそれまでに聴いたことがない発掘物新譜が年に2回ほど頒布されており、河童の皿耳もだいぶ潤ったものだ。
当時、協会そのものが発足まもないということもあり、熱のある会だったようだ。
河童会員番号はその当時でもすでに3桁。
たくさんのファンがいたのだろう。
会員番号はそのあとたしか一度リナンバーされているので、現在までにそれなりの長い歴史を持っているということになる。
ただ、今は、燃え尽きた火のタネを探しているといった感じで、おんなじものを趣向を変えて出しているだけ。
これは協会に限ったことではなく、市販ものも新たなものはない。
今の観点は、音がいい、悪い、といったところに耳目が集まってしまいもうそろそろ収束の時期なのかもしれない。
そもそも音楽の演奏表現の機微、比較、などそれ自体が一般の時代の流れから葬り去られる時代なのかもしれない。
時代はいつも同じということはなく、自分はいつまでたっても歴史の空気を感じない現実のなかにいるので時代感覚を歴史の目で見ることはできないが、ヴィルトゥオーゾ、匠、の時代は尻つぼみとなり、音楽そのものは消化していくものにすぎなくなってしまった。
だからこそひたすら聴きまくり、音なり言葉なりを残す、といった逆説的な意味合いでの必要性はあるかもしれないが、最初から終焉にむけた思い出作りをしているといえなくもない。
フルトヴェングラー・ファンをやめろというつもりはない。しかし、処分して、発見するものもある。
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全てを聴きたいがためのコレクターという存在はありがたいものだ。
フルトヴェングラーの場合、1954年に死んでしまっているので、その時点でそれ以上音源が増えないわけであり、作業の範囲の特定が楽であり、比較的コンパクトにコレクト出来る。
死んでしまった匠が残したものの収集はこのように比較的イージーであるのでたくさんのファンがいろいろと収集できる楽しみがある。
指揮者冥利に尽きる、とフルヴェンが思っているかどうかは知らないが、本人は68才などで死なずもっと振りたかったはずだ。耳さえよければ。
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ということで、ニューヨーク・フィルハーモニック1924-1925年シーズンに、39才の絶好調ベルリン男フルトヴェングラーが登場した。
アメリカ初登場。
うーん。目に浮かぶ。
やや禿げ上がった頭、細身で長身の指揮者が、ぞんざいに指揮棒をもち、颯爽とポーディアムに流れ込んできた。
しかし、その割には、誰かさんみたいに勢いに任せて棒をすぐ振り始めるということはしない。
ゆっくりと一呼吸二呼吸おき、棒をもった腕をさりげなくやや右上方から左下方にかけてななめ45度でクネクネと振り回した。左手はその右手に下向きにクロスした。
聴くほうは音楽の起点がどこにあるのか明瞭にはわからないまま呆然としている。
しかしニューヨーク・フィルのほうは既に練習を幾度か重ねているので概ね理解できるというわけだ。
それに、ニキッシュの後を継いたベルリン・フィルの高名な指揮者の前で無様な音はだせない。
双方の緊張感が漂う中、はちきれそうな空気の頂点で最初の音がカーネギー・ホールを揺らした。
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このシーズンの同組み合わせの定期は10回。
曲目もドイツものを中心に、比較的節操もなくバラバラとやられた。最終日の最後の曲がベト5というのがフルヴェンらしいといえばいえる。
やはりドイツ音楽の最高峰はこの曲、という一途な思いが彼の生涯において通奏低音のように鳴り響いていた。
ストラヴィンスキーの春の祭典も振っている。彼はこの曲をわりと振っていたわけだから、ニューヨーク・フィル相手に振っても不思議はない。
しかし、ただでさえわかりにくい指揮でこの変拍子のハルサイをこのオケ相手にどんな感じで振ったのだろうか。興味のあるところではある。
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この翌シーズンと翌々シーズンも同オケを振っているフルヴェンだが、最初のシーズン10回と違い、回数がかなり多くなっている。それについてはまた別の機会に書こうと思う。
おわり
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