読響の活躍も大団円を迎えつつあるゲルト・アルブレヒトは、昔、寒いハンブルクで熱いヴェルレクを成し遂げたことがあった。
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1986年9月7日(日) 7:30PM
ハンブルク、ムジークハレ
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ヴェルディ作曲レクイエム
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ゲルト・アルブレヒト指揮
ソプラノ、アヴィルダ・ヴェルデジョ
メゾ、アリシア・ナーフェ
テノール、デニス・グヤス
バス、クルト・モル
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ハンブルク・シュターツオーパー合唱団
ハンブルク・ジングアカデミー
ハンブルク・シュターツオーパー管弦楽団
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この当時、まだ西ドイツのころだよね。
それで演奏はどうだったの?
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シュターツオーパーの演奏なのだが、今、オペラハウスは工事中のためムジークハレでの演奏となる。
昔日本で、FMのエアチェックをとりまくったものだがそのうち何度かハンブルクのものもとったことがある。
どうしてハンブルクのものを特別覚えているかというと、その聴衆の拍手が印象的だったからだ。
日本人やアメリカ人みたいに、曲が終わるか終る前に病的に拍手をしだす人種とは全く異なる人たちがそこにはいたような気がする。
今回、ハンブルクで、今、そのことを現実にたしかめてみる。
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指揮者はこの大曲を振り終えて、
やおらハンカチを取り出しひと汗ふいて、
それでもまだ拍手は湧いてこないのであった。
指揮者も慣れているらしく特別な違和感もなく、演奏者を立ちあがらせ、そこらへんでなんとなくパラパラと拍手がたちのぼり始めた。
しかし、この大曲の名演の割には熱意のない拍手。と思っているうちに指揮者と歌い手はとにかくステージのそでに引き揚げていってしまった。
それからであった。聴衆の拍手がだんだんと熱をおびてきたのは。
ブラボーが飛び交い始め、演奏者も4回5回とステージを行ったり来たりした。
そしてなんと驚くべきことに、オーケストラ団員が引き揚げてからも拍手は続き、指揮者と歌い手は空になったステージに2度3度と呼び戻されたのであった。
本当の拍手とはこのようなものをいうのではないのだろうか。
たしかに演奏自体も非常によかったのだったが、今晩が特別な日であるはずがない。
たかが拍手ぐらいでと言うなかれ。拍手の仕方によって国民性がよくわかるのだ。
一番ダメなのはアメリカ人である。曲が完結する前にみんなざわざわと拍手し始め、曲が完結したところで帰る準備を始め、そそくさと家路に向かう。言うなればクラシック音楽も数あるエンターテインメントのうちのひとつ、早く言えばブロードウエイのショーと同じなのだ。それよりも映画が終わってクレジットが出ている間に帰るあんな感じ。
曲の途中だろうがどこだろうが、とにかく曲が盛り上がってくると曲はそこで終わりだろうと思い、その時点で拍手を始める人数の多いことといったら星の数もものともしない。いかに「感覚的」人種であることか。ヨーロッパの人間と同じような顔はしているが構造はかなり異なる。
ドイツ人はどうだろう。今年聴いたハンブルク、そして去年聴いたミュンヘンでは、同じドイツでもやはり微妙に違う。北と南の気候の違いによるものなのかよくわからないが、それよりも独立した国としての雰囲気の違いを感じとることができる。
ハンブルクは一つの市がそのまま州になっているし、ミュンヘンはバイエルン国というドイツ最大の州の都市である。
それぞれのホームグラウンドのオーケストラに対する愛着の表現の仕方が少し異なるだけなのであって、基本的には変わるものはないと思う。
彼らは音楽を「感性」で聴いている。聴衆の一人となって、この場に居合わせるとそのことが痛いほどよくわかる。
彼らの聴いている音楽はその土地、同じ土地から生まれたものである為、なににもこだわることなく「感性」で音楽を聴くことができるのだ。
日本人はどうだろう。終わった瞬間とにかく一番最初に拍手ないしはブラボーを叫んだものが勝者のようだ。一番最初であることになにかしら意義を感じているようなのだ。
しかし、アメリカ人と違うのは演奏中は全く静かだ。まるでお寺かどっかにいるみたいだ。
日本人はアメリカ人と違って何時間でも何日でも静かにしていることができる。
どこの国の演奏家も、日本人聴衆の演奏中の異様な静かさを誉めたたえる。それはそうだろう。演奏家は雑念にとらわれることなく、演奏に集中できるのだから。
そして聴衆である日本人は、演奏家と同じように雑念を取り払い演奏に集中できるのだから、これは神技に近い。その意味で日本人も「感性」で音楽を聴いているといってもよい。
しかし、ドイツ人と異なるのはその感性が作られたものであるということだ。つまり「意識された感性」で音楽を聴いている。土地、地盤がないのだ。意識されている分だけ、拍手が早くて、短絡的。
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というわけで、今晩のこの演奏はいろいろなことを考えさせてくれた。
指揮者のアルブレヒトは昔NHKso.かどっかで聴いたことがあると思うのだが、それがなくても自分なりに少なくともツェムリンスキーなどCDでよく知っている指揮者の一人だ。
彼はあの頃の作曲家の曲をツェムリンスキーのみならず、よくCDに吹き込んでいる。得意な分野はあそこらへんにあるはずだが、こうやって、彼にしては、といったら失礼だが非常に息の長いスケールの大きいレクイエムを聴けるとは思ってもいなかった。
音のきれいなオーケストラを使い、響きの素晴らしいホールで演奏を繰り返していると指揮者のみならずオーケストラ自体もその残響を聴きながら常に余裕をもって、次のフレーズにとりかかることができるのだ。
ハンブルクの気候は変わりやすく、一時間ごとに晴れたり雨が降ったりするときもある。またこの時期やたらと寒く、風邪をひいた中での演奏会。ハンブルクは8月の終わり頃には秋支度、そして秋はほとんどないといってもよいくらい短いので、すぐに冬支度となるらしい。そんななか、こんなホットなヴェルディを聴けるなんて思ってもいなかった。
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ということだったのだが、アルブレヒトは昔から見かけはヤワ、中身はホット、そんな感じだ。また、テンポのとり方一つとっても非常にオーソドックスで、ゆらすことなく自然に熱をおびてくる音楽が印象的な指揮者。読響での指揮活動は常任が終わってからも続けてもらいたいものだ。
おわり
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