河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

フルヴェンの絵

2007-05-24 20:24:00 | 音楽

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ウィルヘルム・フルトヴェングラーは聴き終えた。

昔のように呪縛に縛られながら聴く時代は遠い昔のものとなり、今は自由自在に聴く。といっても、新物好きだから、毎月出る新譜を聴くことに余念がなく、フルヴェンはほぼ聴かなくなってしまった。昔は神棚の神だったのに、今は、埃をかぶった神になってしまった。

フルヴェンは1954年に亡くなってしまったが、一度死ぬとあとは録音は増えない。未発売や埋もれた録音の掘り起こしなどはあるが、量的にはたいしたことがない。

そのため、コレクターは自分で作業範囲を決めるまでもなく自ずとその範囲が特定されるので、比較的楽に収集できる。

あとは、同じ録音の別のメディアを収集して、その音の違い、どちらが音がいいか、といったあたりに拡散していく。行きつく先みたいなものだが、クラシック音楽を俯瞰すると、フルヴェン的現象はもっと明白である。つまり同じ曲を違った演奏家の録音で聴く。マーラーやブルックナーを違う指揮者、オーケストラで何度でも聴く。ベートーヴェンの運命など100種類ぐらい河童の蔵におさまっているが、だからどうだということもない。

このような聴き方というのは録音ではなく、やはり、生、で聴くべきではないだろうか。生で聴くかげろうは瞬間芸術にふさわしい。100回生で聴いてもそれまで。何も残らない。音楽とはそういうもの。

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同じ指揮者、演奏家を追いかけるのはどうだろうか。それも死んでしまった人間の。

トレースすることにより、もう一人の自分を彼らに重ね合わせるのだろうか。それとも彼らのことを誰よりも詳しく知りたい、知っている、ということを少しでも自分の存在感の肯定要素にしたいのだろうか。別に音楽に限った現象ではなくて、誰々の生涯に関する本、などというのはみんなそういうことだろう。

フルヴェンの発掘録音はへたをすると彼が毎日棒を振っていた日々のつながりであったりして、昨日はあすこ、今日はここ、あしたはいずこ、といった感じのトレースであったりする。そこまでする必要があるのかしら。ハント本を見れば、生涯の演奏記録はあっという間にわかるわけで、それを見ながら発掘録音で日々を追う。これは音苦ではないか。

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河童はそのような聴き方はやめた。

ではどういう聴き方をしているかというと、レコード芸術、という音楽雑誌がありますね。あれには、宣伝、音楽評、紹介、などいろいろとでてますね。

あれを見て、よさそうなものを毎月チェックして、適当につまみ食い的にお店でピックアップする感じですね。気が向けば聴くし、そうでなければ1年ぐらい聴かなかったりする。

おわり

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