我が宗の祖、道元禅師の家風(一門の指導者としての気風)は、よく「綿密」とか「厳格」と形容されます。
実際、道場における修行の作法や儀式の手順は綿密極まりなく規定されていて、その実行はおそろしく峻厳なものでした。
入門当初は、石が肉に見えるほど空腹なのに、食事作法の複雑さに圧倒されて、文字どおり「喉を通らない」思いをしたり、大掛かりな法要の練習をしていたら、集中のあまり脱水状態になって気絶する者が出た頃を思い出すと、ほとんど「カルト的」とでも言いたくなる日々でした。
ところが、そのような日々の最中、時に禅師の著作を読んでいると、拍子抜けどころか、修行僧が愕然とするような文章に出会うことがありました。
足の痛みに耐えて必死の坐禅をしているのに、「数ある修行法の中で何故坐禅ばかりを勧めるのか」という問いに、禅師は「お釈迦様以来、歴代の祖師方がみな坐禅で仏法を会得したからだ」などと、ほとんど理由にならない返事をします。要は、先輩がずっと成功しているんだから信用しろと言うだけなのです。
初心者には味がまったくわからないまま食事が終わるような厳しい作法を強いておきながら、「今やインドでお釈迦様がなさっていた作法は誰も知らないから、とりあえず自分が学んできたこの作法でいこう」、みたいなことが書いてあるわけです。
さらに驚いたのは、お釈迦様以来の「正伝の仏法」を学ぶべきことを何度も強調しながら、中国で創作された偽経である「円覚経」について、「これは偽経だけれど、立派な指導者が使えば、それなりに役に立つ」、めいたことを言うのです。
なぜ禅師はこのようなことを言えるのか。思うに、禅師は、自分が設定した課題なりテーマにアプローチする手段として、仏法を考えているからでしょう。つまり、課題解決の手段として有効かどうかの問題で、何が絶対的「真理」で、どれが本当の「正解」かなどは、大した問題ではなかったのです。これは、釈尊の核心的な考え方と一致します。
最も古くからの教説とされる「四諦八正道」の「四諦」とは、まず「この世の一切は苦である」(苦諦)という問題設定をした上で、それには必ず原因があるから、それを見極め(集諦)、相応の方法でその原因を取り除けば(道諦)、問題は解決できる(滅諦)という話で、考え方の枠組みは、どう見ても課題解決のための実用主義です。
ブッダが「偏見にもとづいて考えるから、これが真理だ、これが虚妄だなどと言い出すのだ」と教え、道元禅師が「『見性』などを説く経典は、おそらく偽経だ」と言い切るとき、教主と宗祖の根底には、形而上学的思考とかけ離れた、問題解決のための純度の高いプラグマティズムがあるのだろうと、私は思います。
実際、道場における修行の作法や儀式の手順は綿密極まりなく規定されていて、その実行はおそろしく峻厳なものでした。
入門当初は、石が肉に見えるほど空腹なのに、食事作法の複雑さに圧倒されて、文字どおり「喉を通らない」思いをしたり、大掛かりな法要の練習をしていたら、集中のあまり脱水状態になって気絶する者が出た頃を思い出すと、ほとんど「カルト的」とでも言いたくなる日々でした。
ところが、そのような日々の最中、時に禅師の著作を読んでいると、拍子抜けどころか、修行僧が愕然とするような文章に出会うことがありました。
足の痛みに耐えて必死の坐禅をしているのに、「数ある修行法の中で何故坐禅ばかりを勧めるのか」という問いに、禅師は「お釈迦様以来、歴代の祖師方がみな坐禅で仏法を会得したからだ」などと、ほとんど理由にならない返事をします。要は、先輩がずっと成功しているんだから信用しろと言うだけなのです。
初心者には味がまったくわからないまま食事が終わるような厳しい作法を強いておきながら、「今やインドでお釈迦様がなさっていた作法は誰も知らないから、とりあえず自分が学んできたこの作法でいこう」、みたいなことが書いてあるわけです。
さらに驚いたのは、お釈迦様以来の「正伝の仏法」を学ぶべきことを何度も強調しながら、中国で創作された偽経である「円覚経」について、「これは偽経だけれど、立派な指導者が使えば、それなりに役に立つ」、めいたことを言うのです。
なぜ禅師はこのようなことを言えるのか。思うに、禅師は、自分が設定した課題なりテーマにアプローチする手段として、仏法を考えているからでしょう。つまり、課題解決の手段として有効かどうかの問題で、何が絶対的「真理」で、どれが本当の「正解」かなどは、大した問題ではなかったのです。これは、釈尊の核心的な考え方と一致します。
最も古くからの教説とされる「四諦八正道」の「四諦」とは、まず「この世の一切は苦である」(苦諦)という問題設定をした上で、それには必ず原因があるから、それを見極め(集諦)、相応の方法でその原因を取り除けば(道諦)、問題は解決できる(滅諦)という話で、考え方の枠組みは、どう見ても課題解決のための実用主義です。
ブッダが「偏見にもとづいて考えるから、これが真理だ、これが虚妄だなどと言い出すのだ」と教え、道元禅師が「『見性』などを説く経典は、おそらく偽経だ」と言い切るとき、教主と宗祖の根底には、形而上学的思考とかけ離れた、問題解決のための純度の高いプラグマティズムがあるのだろうと、私は思います。
南さん、いつお休みになるのでしょう?
恐山の秋祭りが台風の影響を受けませんように、南さんがゆっくりお休みになれますように、陰ながらお祈りしています。
形式主義かと思ったら、そうではなく
実践主義なんですね。
「死とは原理的には分からない!!」が、
実用的に言えば、
死の問題解決の為に、純度の高い(低い?)プラグマティズムとして、
「分かったもの」として、
衆生は死について、
たいして悩みもせず、素直に、ありのままに
「受け入れる」・・・修行もなくて。
「死は生の終わりなり!!」
「死があるから生きられる!!」
「命ある間はたんと生きなはれ!!」等々
それ以上でもそれ以下でもない・・・
苦の原因を探ろうとしても、苦が分からないのだから、原因など分かろうはずもなく、取り除く方策も分からない。右往左往して、虚言を弄して、慰めようとしたりするばかりだ。
他者の苦やその処方箋を見つけようとする人は、様々な言説や迷信、さらにその時代の価値観、倫理、道徳などに執着せず、真っ白な状態で他者を見つめることが必要なのかもしれませんね。だって、それらに執着してしまっている自分とは違う「他者」なのだから。
他者に比べれば、自分の苦は多少は分かるのかもしれません。その処方箋を見つけることから始めましょうというところでしょうか。得られた純度の高いプラグマティズムによって、自分のことをまずある程度解決してみて、ああ、これなら使えるとなって、他者に向かうのでしょうか。ところで、純度の高いプラグマティズムって、何?
おのずから善いと確信されたものは善いものであり、悪いと確信されたものは悪いものであること!
死はすべてを無化する!
あらゆるものは雲散霧消する!
死に誠実であれ!
純度の高いプラグマティズム!
純粋は傷つきやすく弱いことではない!
純粋とはなにものもそれを傷つけることができないほど強いということだ!
強くあれ!
死から一瞬たりたも眼をそらすな!
何人たりとも死を傷つけることはできぬ!
死は純粋だ!
なぜならそれは存在ではないからだ!
どうして存在が非存在を傷つけることができようか!
存在も非存在も純粋も不純も忘れてしまえ!
純粋な実践はもはや行為ではない!
それは私がやることではない!
即ち
「生きる意味より死なない工夫」
更に「浅い禅定」と「深い禅定」との間を何度も往復する。
つまり、頭脳の大脳皮質の「自己形成機能」「言語認識機能」などの進化の先端部分の働きを低下させたり停止させたりし、そこから再び、働かせ始めたりして、いわゆる「こころ」「精神」「霊魂」の構造を知る結果に至る。
後から、所謂「十二支縁起」として集大成される。
「身体の外部」の観察も重視する。
「それに従って」自己を「変えていく」。
要は、「観念論」ではない。
「観念論」は、「自己」を変えないで、「観念の世界の解釈の変更」で済ます。
これはまさに科学者である!
つまり
「神を信じたり」
「神秘的な力を信じたり」しなかった。
自分の「体験」「経験」を「観察して」、
「信じるのではなく」
「知って」「自己の死苦」から解放された。
「自己」は「実体」ではない。
「言語認識機能」が虚構する「蜃気楼」である。
「諸行は、無常」
「諸法は、無我」
グーグル本社には禅堂があると云われます。
AIのディープラーニングの行く先は禅宗 グーグル教なのか?
問題解決のための純度の高いプラグマティズムとは?ということでこのようなことを思ってしまいました。
パソコンに向かって禅問答する日が近いかも知れませんね。