最近思うところを、少々。
一、「表現の自由」を無条件・無制限に主張する根拠も、「宗教の尊厳」を絶対的に肯定する理由も、およそあり得ない。「自由」なんだから何を言ってもよいとか、「尊厳」を守るためには人を殺してもよいなどという幼稚なアイデアは、せいぜい思春期のうちに「卒業」すべきである。
一、「自由」は大切な道具である。とても大切だから、手入れを怠らず丁寧に扱わなければならない。が、所詮「道具」であれる以上、その正当性は使用目的と使用結果によって判断されるほかはない。
一、「尊厳」は大切な目標である。とても大切だから、それを守るべき手段が自ら「尊厳」を毀損しないよう、慎重に選択されなければならない。
一、宗教的であろうが政治的であろうが、イデオロギー(人間の実存を規定する言説・観念の体系)は、イデオロギーであるがゆえに、言葉によって主張されて他者に支持されるべきものである。もしイデオロギーが言葉以外のもの、すなわち暴力や金銭などを手段として強制されるなら、その時点ですでにイデオロギーとしては無意味である。それは単に支配体制を維持するためだけの装置か、あるいは暴力や支配への身勝手な欲望を実現するための武器にすぎない。
一、何らかの主張あるところ、かならず反対意見あり。反対意見の存在は、その主張に意味あるが故なり(全員賛成の意見は主張自体が不要)。よって反対意見の抹殺・封殺は主張の自己否定と心得るべし。
一、「表現の自由」を無条件・無制限に主張する根拠も、「宗教の尊厳」を絶対的に肯定する理由も、およそあり得ない。「自由」なんだから何を言ってもよいとか、「尊厳」を守るためには人を殺してもよいなどという幼稚なアイデアは、せいぜい思春期のうちに「卒業」すべきである。
一、「自由」は大切な道具である。とても大切だから、手入れを怠らず丁寧に扱わなければならない。が、所詮「道具」であれる以上、その正当性は使用目的と使用結果によって判断されるほかはない。
一、「尊厳」は大切な目標である。とても大切だから、それを守るべき手段が自ら「尊厳」を毀損しないよう、慎重に選択されなければならない。
一、宗教的であろうが政治的であろうが、イデオロギー(人間の実存を規定する言説・観念の体系)は、イデオロギーであるがゆえに、言葉によって主張されて他者に支持されるべきものである。もしイデオロギーが言葉以外のもの、すなわち暴力や金銭などを手段として強制されるなら、その時点ですでにイデオロギーとしては無意味である。それは単に支配体制を維持するためだけの装置か、あるいは暴力や支配への身勝手な欲望を実現するための武器にすぎない。
一、何らかの主張あるところ、かならず反対意見あり。反対意見の存在は、その主張に意味あるが故なり(全員賛成の意見は主張自体が不要)。よって反対意見の抹殺・封殺は主張の自己否定と心得るべし。
私の勝手な推察ですが、おそらく今回の犯人にとってはイスラムの教義云々よりも、フランスの社会から拒絶された自分達を受け入れ、相互承認し、同じ釜の飯を喰う関係を作れる場としてのイスラム系のネットワークがあったのだと思います。南さんは以前「いじめ」について語られた時に、「いじめられる側は当然守ってあげねばならない。しかしいじめる側に興味がある」とおっしゃられていたと思いますが、今はまさになぜ今度の犯人達はあんな道に入り込んでしまったのかを考える必要があると思います。
ラジオなどを聞いていると、イスラム主流派・穏健派のリーダーたちが出てきて、「あんなのは本当のイスラムではない。イスラムは平和を尊ぶ宗教だ」とか「キリスト教徒との対話を広げ、相互理解を深める」などと話していました。しかしどんなに非道な主張であったにしても、そういった過激派の方が、犯人達の心に響く言葉を持っていたのだと思います。ある意味、既存の仏教に対するオウム真理教といった構図に似ているのかもしれません。キリスト教徒と対話するよりも、孤立して行き場のない若者たちと対話し、彼らの心を救ってやるのがイスラムの指導者たちの仕事ではないのか、と私は勝手な感想を持ってしまいます。
そのとおりでしょうね。 現在の世界情勢を第二次世界大戦前に似ていると、とある方が言われたことが現実のこととなりつつあるように感じますね。 誰かの書いたストーリーのとおりに情勢が推移し、自衛隊の派遣に始まって ・・・ 戦場の敵は、敵であって敵ではなく、命令や金などによって動く単なる兵員であり、敵とすべき敵は、戦場にはいませんがね。 千の風になっての歌詞同様「そこに私はいません」 ですがね。
底なしの支配欲へ対抗する手立は、一人ひとりの自覚によって成し得られるものの、大多数の方々が権力によって、誘導されるので現状では防ぎ難いでしょうね。
反日という言葉をよく聞きますが、本当に愛国なら日本のきれいなところだけではなく、負の側面も受け止めなければ駄目でしょうね。
日本軍の残虐性が突出していたなんて世界中の誰も腹の中では思っていないと思いますよ。でも現実に多くの人が命を奪われて、もしくは大事なものを破壊されましたから。やっぱりそこには絶望が生まれるんですよ。
「二百三高地」という映画でラッパ卒になりたい豆腐屋の若者が砲台に一番乗りで、放心状態の後やったぞー!!と日の丸を振ってましたけど、それを見てただ「感動しました」と言うだけでなく、もっと複雑な感慨を抱くべきでしょうと。元々ナショナリズムとは無縁な彼の中でその時弾けたものは何だったのかと。日露戦争以降の日本の貧しい若者にとっての輝かしい夢や希望、そして悲劇性までが、ほんの一瞬だけ素朴な彼の中を先取り的に通り抜けて行ったのではないでしょうか。
それははっきり言って現代の我々にも受け継がれているんですよ。
日本をことさら美化しなくてもいいじゃないですか。江戸川乱歩の人間豹は戦前の若者のおかしくも悲しい疾走感が投影されているんですよ。私は何とも言えない気持ちになるんですよ。
立場が違えば、基準も変わる。常にフラットでありたいものです。
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会計学
人道的支援は、政府の高官などが密約で交わす政治戦略の変形ではなく
「身代金2億ドル相当の医薬品や食料などを、
イスラム国の支配地域で暮らす難民に
赤新月社(イスラム諸国での赤十字社)を通じて援助すること」であり
政府が主導できるものではないのだ。
ロックのチャリティコンサートの会計学と同じだ。
分断して統治するグランチは、この会計学を一番嫌っている。
流れ(stream)
金と情報の流れは、権力構造のヒエラルキーの下部への流れ。
日本政府が情報収集しかできないのは
世界権力構造の下部組織だからだ。
彼らを救出するには
この権力構造の流れの支流から本流へと逆流できるのは
政治交渉ではなく、人間の<対話>だけである。
それをどのように解決出来るか、ということは、誰にも分からないとは思いますが、一人一人が、自分の正しさに従って行動していることだけは、確かでしょう。どんな状況でも、どんな相手に対しても、思いやる余裕を持ちたいものです。
単神論。
ポリシーイズムも多神教じゃまずい。
複神論。
一般的に monotheism と言うと、アブラハム由来のユダヤ教・キリスト教・イスラム教だけを指す意味で使われることが多いと思います。ただwikipediaで見ると、もっと広義に使われているようで、日本の天理教とか、火を尊ぶゾロアスター教もmonotheism に分類されるようです。この辺の解釈の違いも関連してくるのでしょうか。教えていただけると助かります。
本来日本の自然や空や光や空気は宗教や民族に関係なくあらゆる善良な人々の味方のはずです。