恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

我々はナメられているのか?

2015年01月10日 | 日記
  もはや旧聞に属しますが、昨年末の選挙。私は棄権も癪なので、白票を入れにいきました。ありていに言うと、アタマにきたのです。

 今回の候補者は、私が知る限り全員が、「自分にまかせれば大丈夫だ!」と言っていました。有権者である「国民」には大して痛い思いもさせずに、万事よろしくやってみせるという、利益誘導一色。でなければ、「この道しかない」という脅迫まがいの断定です。彼らは我々がみな、こんな子供だましの言い草を頭から信じるほど愚かだとナメきっているのか?

 人口減・少子高齢化が急速に進む日本で、もはや経済成長など幻想にすぎません。今後は、よくて今の生活水準を維持できるだけの定常化社会で、それぞれがそれぞれの立場で応分の負担を引き受けつつ、「痛み」に耐えていくしかないのです。

 このとき政治の最大の役割は、負担の配分をどのように行うのか、いかに公平に、様々な利害関係を調整して我々に負担を納得させるのかという、面倒極まりない仕事を請け負うことです。

 このことに一言も触れずに、今後の国の在り様にについて「なんとかなるぜ」と言うがごとく語るなら、それはあまりにも不誠実でしょう。そうでないなら、ただの能天気な愚物です。私はそこに腹が立ったのです。

 若者の雇用状況が改善せず、子育てと看取りに大きな不安のある社会で、いったい誰が消費に金を回すでしょう。この先それほどの成長が見込めないのに、どうして企業がもうけ(内部留保)を気前よく使うでしょう。

 アタマにきたついでに独りよがりで言うなら、労働市場において、まずは同一労働・同一賃金の原則を貫徹し、保育園から高校までの授業料他教育費用を無償化し、高度成長期の小学校の数なみに公立の高齢者・介護施設をつくり、看護師・介護士の待遇を公務員程度に引き上げるべきです。そのために必要な費用を公表し、負担を国民に求め、公正な配分を主導するのが、いま必要な政治というものではないでしょうか。

 非正規労働者の生活不安、子供の理不尽な貧困、介護殺人や虐待が頻発するような現場の疲弊。これらを一刀両断に解決する方法などないでしょう。しかし、これらを解決する一歩を踏み出すことはできるはずであり、しかもこれは要するに金の問題です。

 金の問題なら、ある意味、最も簡単な問題です。出す覚悟をすればいいのですから。「オリンピツク」も「新幹線」も「地方創生」も、ぜんぶ後回しでかまわない。やらなくてもよいのです。いま大事なのは、経済政策や財政出動で、この国の人々の生活不安を取り除き、不安によって抑圧されているエネルギーを解放することでしょう。そのための負担を、真正面から堂々と国民に要求すればよいのです。これがあってこその「成長」というものです。

 そういう政治家の提案が国民から拒否されるなら、それはそれで我が国の選択です。ですが、この提案すらないなら、政治家の怠慢どころか、無能でしょう。私はそう思います。

 そうだ! 申し遅れました。
 皆様あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
  

最新の画像もっと見る

24 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2015-01-10 02:40:10
あけましておめでとうございます~
返信する
宗教も俺らをなめてるくせに (bb)
2015-01-10 03:38:54
キリスト狂の連中みればわかる。
返信する
Unknown (「やせ我慢」としての善。「支え」としての僧侶集団。)
2015-01-10 04:20:56
「善の根拠」拝読しました。
考えたことを書きます。

「自己を引き受けることが善であり、自己を拒否することが悪である」

講義で聞いた時は正直、意味不明でした。

キリスト教では仏教が問題にするような実存苦への問いは「神の試練」として解消されるのでしょう。苦しさに耐えることが天国への門なのですから。キリスト教では一切が「神」という言葉に掛かる。「神」の不在のもとで、「神」の存在を信じられるか? 
もし、神が目の前に現れたなら、「信」は必要なく、「理解」や「認知」があるだけ。信仰と神の国の取引があるだけ。
「不在の神」という言葉への飛躍・跳躍が実存の試練を耐える「信仰」という態度を形作るのだと思います。

南さんの尊敬される神父さんのお言葉。

「許された罪人」

存在苦の不条理は「神の試練」という言葉で説明・解消される。しかし、苦しさだけは残る。ただし、その苦しみは条理の与えられた「神の試練」であり、耐え切ったその先に天国があるのだ。「私は苦しい。しかし、その意味は神が与えられている。ならば、私は耐えられる。何故ならば、その先に神の国があるのだから」
神父さんの言葉は「説明された実存苦」を表現しているのではないのかと思いました。

そのような理屈で不条理な生に理由と目的を与えを乗り越えさせようとするのが、キリスト教の方法論なのだと思います。何処にも存在を確かめられない言葉だけの「神」へ跳躍し、信じることによって、実存苦に理由を与え、不条理な自己を引き受けさせる。

では、仏教における実存苦を済ませる方法論は何なのだろうと思います。

南さんは「(神のような存在確認が不能な)超越を用いず、実存の問題を処理しようとしたのが釈迦や道元だった」とおっしゃっていますね。

この苦しい私は他者に課されている。しかし、この私を課す他者もさらなる他者に課されている。
「何故」と問うたびに、引き起こされる実存の根拠の無限後退。答えのない耐え難い不条理はどこまでも続く。「信」がない限り、この無限連鎖は断ち切ることができない。

南さんがキリスト教的な慈善と仏教的な慈悲を分けるのは何故だろうと考えました。

慈善とは恵まれた者が恵まれぬ者に施す義務であり徳目。少なくとも仏教の慈悲はこのようなノブレス・オブリージュではない。では、なにか?

仏教における他者とは「この私を課す者」。ならば、私は他者で出来ているに等しい。南さん風に言うならば「肉体は母から与えられ、命名によって社会的自己が与えられる。自己は他者に負わされる。負わされることによって、立ち上がる」

「これありて、あれあり。他者ありて私あり」

ならば、仏教における慈悲とは、貧しい者に分け与えることではない。自己が他者で出来ているのならば、その他者に負わされた苦しい自己を引き受けることは即ち、他者を引き受けることであり、ただそのことだけで慈悲であり、善なのではないかと、私は思います。

暴力の連鎖というものがありますよね。DVやネグレクトを親から受けた子供は暴力的になったり、精神的に不安定になったりする。

そのような苦しみの連鎖に置かれた人にとって、仏教が自己を引き受ける覚悟たり得た時、仏教徒に起こるのはこの苦の輪廻を自分の代で止めるという決意なのだと思います。苦しみの輪廻を私で絶つ。ただ、これだけで十分、他者的であり慈悲的なのだと。

ただし、これは至難。何故ならば、何の得にもならないから。

欺き、奪い、傷つけ、犯し、殺すことの何が悪いのか。
他人を害するな? 私はそもそも他人に害されている。その私が他人を害して何が悪い?

この底の抜けた怒りに抗うのは個人の覚悟だけでは足らない。

私に至る無限の他者による苦しみの連鎖。これを引き受けるのは、それこそキリストの境地と言えます。とはいっても、キリストには父なる神がおりましたが。

仏教には神の概念はない。そして、涅槃の概念は不明。自己を引き受けるという善なる行為と仏教の究極目標である涅槃の関係性は不明。善を生きたとして、涅槃が訪れるかどうかは分からない。仏教的な善とは、その無意味性からいって、「やせ我慢に等しい」。「死の家の記録」じゃないけれど、無意味な責め苦ほど耐え難いものはない。

無意味な仏教的善。その至難が故、釈迦は僧という菩薩の集いを三宝の一角に据えたのだと思います。世俗的には非価値なる仏教的善を少なくとも、僧侶集団の中だけでは価値たらしめ、他者を引き受け、自己を引き受けるという善、菩薩的行為態度を可能にするために。

釈迦も広い意味では古代のインド社会という出家が尊ばれる時代にいた。釈迦の悟りもその意味では、他者に支えられており、独覚ではない。

「犀の角の如く独り歩め」が次善の策なのは、そういう意味なのではないのかと思いました。その意味で、仏教の教えは人間関係を新たなる視点を照らし出し、人間関係に開かれているものでなければならないのだと思います。社会に生きる人なる自己として、仏を目指す菩薩たるために。



返信する
Unknown (Unknown)
2015-01-10 14:03:08
選挙の結果はでました。仏教って宗教ですよね。宗教にとっても、この時勢は岐路だと思うんですけど。
返信する
Unknown (月のような者)
2015-01-10 20:03:35
明けましておめでとうございます。

明治から昭和戦前までの日本を見ても、天皇陛下と一般日本人が一貫して望んでいたのは、民主主義とまでは言わなくても、いわゆる「民本主義」のちゃんとした実現だったのではないでしょうか。

我々は騙されていたんだという庶民の弁解が正しいかはともかくとして、無謀な戦争に突入してしまったのは元々戦前の政治家のせいではないでしょうか。
抑圧されていた庶民と冷遇されていた職業軍人による、戦前の政治家のような権力者への復讐としての側面も可能性としてはあったのではないかと思います。

昔も今も国民を都合のいい存在と見なせば日本がガタガタになってしまうことは同じなのですから、政治家にはちゃんとしてほしいとしか言いようがないですね。

人間も宇宙も意味不明でグロテスクだけど面白いものは常時あると未来の人に言いたい!
返信する
操りたいのでしょうが・・・ (はてな)
2015-01-10 22:39:51
選挙人はもとより、大統領、首相、国会議員、公務員、etc 誰かの意思でありながら、自分の意思のように動き回る操り人形より、さらに出来のよい、まるで人工知能のような人間のように、名利という餌が欲しいレベルではなく、まるで宗教の熱心な信者のように感じさせられますね。 テレビ、新聞、ラジオの情報以外知らないという方々が未だに多いのが現実ですので、マスコミによる刷り込みがまだまだ効果的なうえに、選ぶべき人がいない、いたとしても、それに属すると操られてしまい、言うことを聞かなければ、社会的な圧力で封じ込んでしまうという事態が続いていますが、さまざまな分野の方々が声を上げはじめ、それが聞こえつつありますので、何時までもそうは問屋が卸しませんよ。

そうは言っても、生活保護さえ受けられない困窮者やその子供たちと接すると考えさせられてしまうことは当然のことと感じますが、日本に限らず何処の国でもそのような事態など承知の上で社会の仕組みは作られ進められていることを肝に銘じて在り方を問い示さねばなりませんが、仏教とて、ややもすると権力に擦り寄りがちと感じさせられることがあるに留まらず、仏教の教義自体を悪用する宗教団体そのものが権力を欲しているように思います。 政治に関わらず、己の在り方を正している方が意見を述べると効果覿面でしょう。

それを言うなれば、天皇皇后両陛下をおいてほかになしですが、美空ひばりさんのステージから感じることとして、歌の上手さが別格なこと以外に、凛としていても暖かくて柔らかいあのスター性もさておき、共演者を引き立てることの絶妙さには絶句し、まさに神がかり的なものを感じさせられますね。 言うに及びませんが、名実ともに仏教者であったればこそ、誰か一人現れ出て頂けることを切望しますね。
返信する
誰が誰をナメているのか (ひかげ)
2015-01-11 02:10:09
「我々はなめらているのか?」と問うということは、誰かが我々をなめているという想定があり、このブログの文脈からすれば、それは政治家ということになります。私は、この発想にこそ大きな問題があると考えています。政治家は我々の代表であり国民の一員です。我々が、政治家を自分とは関係のない集団、いうならば江戸時代の百姓・町人が武家を見るがごとき捉え方をしていることに問題があるのではないでしょうか。政治家が「自分に任せろ」というのは、国民の多くが、「自分では考える気力・能力がないので誰かに任せたい」と思っているからであり、政治家が子供だましの言い草をするのは、国民に子供騙し程度の考えしかないからではないでしょうか。民主国家の市民としての自分達の未熟さを棚に上げて、「政治家」を責めるというのは、私には無責任に思えます。

この無責任さに関連していうと、今の国民のほとんどは国会議員の数を減らす事や、議員活動に必要な歳費を減らすことに賛成すると思います。しかし、これは「自分達の声を代議士を通して政治に反映させるなんてどうでもいいから、官僚たちで勝手にやってくれ」と言うのに等しく、国民の自殺行為のように思えます。官僚たちが政治を大きく間違えたら、我々国民は、また皇居前にひれ伏して嘆き、その後で「騙されていた」と開きなおるのでしょうか。我々は、参政権という権利とそれに伴う責任の重さをもう少し真剣に考えるべきだと思います。

全く違う議論の話ですが、人口減で問題なのは、働き手が不足するからです。一方、若者の雇用状況が改善しないということは、働き手が余っているということです。この二つの点を一緒に論ずるのであれば、なぜこういった一見矛盾したことが起こるのかということを論じないと、説得力を欠くと思います。

南さんが「アタマにきたついでに」提案された政策については、全て全面的に賛成です。
返信する
Unknown (Unknown)
2015-01-11 07:35:21
確かに、人間も宇宙も意味不明でグロテスクだけどオモシロイものは常時ある、確かに、そうですね!
返信する
Unknown (ひろみ)
2015-01-11 16:05:09
初めてコメントします。
私は看護師です。
この投稿の提案にある、看護師への待遇、ということについての私見です。

かつて看護の仕事は、3K(きつい きたない くさい)であり、さらに労働に対価が伴わない、と言われていた時代もありました。しかし多くの先輩方が踏ん張ってくれたお陰さまで、いま、私たちはそのような状況要素に心おれることはない時を迎えています。
(kの概念が替わったともいえますが。世の中にはきつくない仕事はない、尿、便、汗、痰、吐物、体液、すべての排泄物を汚いものととらえるどころか身体からのメッセージやヒントとしています、匂いも例外にあらず)
むしろ、看護師は高給取りだとイヤミを言われることさえ少なくありません。私個人の経験からは、それは主に、体調をくずし、誰かの助けを受けるしかない状況に自らがおかれたことのない人たちからのイヤミなので、全く気になりませんが。

さて、というわけで、待遇という意味では、全く問題ないと思います。多くの看護師が、やりたくてやっている仕事、という感じではないでしょうか。ついでにいえば、子育てしていても、経済的に問題なくとも、社会システムが許す限りは、やりたいのです。
問題はただただ、人出不足です。人出不足の負のスパイラルで、個人の負担が異常なのです。給料や休みが減っても、同じ仕事量を倍のマンパワーでできれば、と切に思います。
私たちの仕事も、この世に生を受けた命に向き合っています。文字で表現するのは誤解を受けやすいですが、怖れずに言葉にするなら、こんなにおもしろい仕事はありません。生まれたいじょうはどの瞬間も決して離れることのない、肉体と精神(分離させる必要はないですが)に、正面から向き合うことを実現させてくれる仕事、生き方のひとつですから。
お金より、その原点への理解が必要です。仕事量が多すぎて、命に向き合っている実感を無視するしかないという、心の葛藤がつらいです。国内に潜在看護師はたっっっくさんいます。働きたいけど、システムがそれを拒むのです。

ただし、介護のおかれている実情は苛酷です。身内の介護であれ、仕事(生き方)としての介護であれ、このシステムは根本から見直す必要があります。経済的な待遇はもちろん、物質主義の先進国に生きる人間にとって学び直す必要があります、生老病死を。
返信する
Unknown (putti)
2015-01-11 17:53:04
ナメられてるかどうかと言われれば、ナメられているでしょう。しかし、これは政治や経済に疎い国民にも問題があります。マスコミが煽れば簡単に素人の民主党に票を入れて、後で後悔する程度の知識しかありません(ただ、当時の自民党の体たらくを見ると、民主党以外選択肢がなかった状況ではありますが)。

今回の解散については、消費税増税の見送り法案において、反対派が多くいることから解散という手段で意思統一を図ったと私は見ています。内部の意思統制の話なので、国民にとっては何が目的なのか見えにくかったのかもしれません。
私は、組織の調整のための解散というのならば、それは正当性があると思っています。創造の為の破壊とでもいいますか。

問題は、仰られるように福祉について真剣に取り組んでいないように見える点です。私はこの点はどうしても政治家の権力欲が根底に問題としてあるのでは、と思っています。
時間はかかりますが、政治の仕組み等を国民が義務教育で学び、もっとクレバーに政治を見ることができればもっと良い国になると思うのですが・・。
返信する