彼はとてもキリスト教の信者には見えない人でした。そもそも、普段の話にキリストも神もまるで出てこないのです。
地方に在住する普通の勤め人で、近所の教会に若いころ(具体的にいつなのかは知りません)から通っているようですが、特に教会の「布教」「勧誘」などの活動に熱心にかかわっているわけでもありません。「師」と仰ぐ人物もいないらしく、彼の口から特定の聖職者の名前が繰り返し出たこともありません。
驚くべきはその読書量で、ナイーブな「キリスト教信者」からすれば「冒涜的」「背教的」、そうでなければ「無神論的」と思われるような書物まで読んでいて、話していると博覧強記ぶりに圧倒されることがあります。
あるとき、私は尋ねてみました。
「正直なところ、君は神を信じているのか?」
「当たり前だろ」
「では、神は実在すると?」
「そんなことはどうでもいい」
「えっ?」
「私が信じているのは、神の実在ではない。神の実在を前提として組み立てられた思想と実践が、人間や世界を考えたり理解したりする上で、自分にとって最も有効な方法だ、ということだ」
「それは信仰と言えるのか?」
「つまらない質問だな。そんなことは言葉の定義の問題にすぎない」
「では質問を変える。君は神に祈っているか?」
「もちろんだ」
「何を祈っているんだ?」
「君は私に、神に何を祈っているのかを訊きたいのだろう。ところが私は神に対しては何も祈っていない。そうではなくて、祈ることで神を実在させているんだ」
私には、彼を「キリスト教信者」と呼ぶには聊か違和感があります。しかし、彼はまぎれもなく「キリスト者」だろうと思います。私は彼の「在り方」に深く共感するものです。
追記:次回「仏教・私流」は2月23日(月)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。
地方に在住する普通の勤め人で、近所の教会に若いころ(具体的にいつなのかは知りません)から通っているようですが、特に教会の「布教」「勧誘」などの活動に熱心にかかわっているわけでもありません。「師」と仰ぐ人物もいないらしく、彼の口から特定の聖職者の名前が繰り返し出たこともありません。
驚くべきはその読書量で、ナイーブな「キリスト教信者」からすれば「冒涜的」「背教的」、そうでなければ「無神論的」と思われるような書物まで読んでいて、話していると博覧強記ぶりに圧倒されることがあります。
あるとき、私は尋ねてみました。
「正直なところ、君は神を信じているのか?」
「当たり前だろ」
「では、神は実在すると?」
「そんなことはどうでもいい」
「えっ?」
「私が信じているのは、神の実在ではない。神の実在を前提として組み立てられた思想と実践が、人間や世界を考えたり理解したりする上で、自分にとって最も有効な方法だ、ということだ」
「それは信仰と言えるのか?」
「つまらない質問だな。そんなことは言葉の定義の問題にすぎない」
「では質問を変える。君は神に祈っているか?」
「もちろんだ」
「何を祈っているんだ?」
「君は私に、神に何を祈っているのかを訊きたいのだろう。ところが私は神に対しては何も祈っていない。そうではなくて、祈ることで神を実在させているんだ」
私には、彼を「キリスト教信者」と呼ぶには聊か違和感があります。しかし、彼はまぎれもなく「キリスト者」だろうと思います。私は彼の「在り方」に深く共感するものです。
追記:次回「仏教・私流」は2月23日(月)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。
これに対する哲学的な反論はいろいろあるようですが、もっとも素朴な反応は「でも信じられなきゃしょうがない」というものだと思います。神をみんなが信じれば結果的に良い社会になるというのはアタマでは分かっても、そもそもその神の存在を信じられないのだからしょうがない。結果として功利があるから神を信じろと言われても無理だと。
この「キリスト者」の方の「祈る事で実在させる」という考えは、こういった議論を超越しているのですね。引き合いに出しては失礼かもしれませんが、遺族の方の思いが恐山に死者の霊が存在させるように、祈ることによって神を存在させるという力技を試みているのだと私は理解しました。ひとつ気になるのは、この方がキリスト教を道徳的な基準ではなく、人間や世界の言わば分析方法として有効だとおっしゃられているところです。具体的にはどのように有効なのか、興味深いところです。
ヨーロッパ人はアメリカ人よりも神を信じないと。だから俺達の方が頭がいいのだと言っていますが、実に怪しげな話であって、この先彼らの多くがまた昔のように宗教に回帰していく可能性だって十分にあるのではないでしょうか。
賀川豊彦牧師…二十歳ぐらいの若者が大げさでなく捨て身のボランティア活動をやっていたのは、神秘(臨死)体験も大きなきっかけだったのでしょう。後に世界三大聖人とまで称され…社会奉仕プラスキリスト者としての神の現実感という意味でも突出した人だったのではないかと。
それに対して仏教者とは、死の瞬間も含めて、今この瞬間そのものであることを欲する者、と考えてもいいのかなと。
今この瞬間には絶望も大げさな努力目標も見いだせないんだと。
だから神様と言われても、ああいいですね!としか言いようがないと。ことさら否定する気もないという。阿羅漢になるとどうなるか分からないですが。
厳密には死んだ後実際にどうなるかは分かりませんよね。神が絶対にいないとも言える訳がありませんし、そんな言い草は余計な気負いでしかないでしょうね。
寒波の強い折、どうぞ暖かくご自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
曽我量深・大谷大学学長
1875年〈明治8年〉9月5日 - 1971年〈昭和46年〉6月20日)
『われ如来を信ずが故に
如来在しますなり』
先ず、自分より先に、阿弥陀如来が、存在していて、
それを信じるのではない。
自分が信じるからこそ、如来が現実に存在するようになる。
『如来は我なり
されど我は如来に非ず
如来我となりて、我を救いたもう』
●洞山良介禅師(807-869)
過水偈
『我いま独り自ら往く
処処彼に逢うことを得
彼いままさにこれ我
我いまこれ彼にあらず』
●新約聖書学者では、八木誠一先生と同じ。
神は実体・客体ではなく、働きである。
場の力のようなもので、眼に見えず、触れることができないが、
一人一人に、無媒介に、直接に、働き、
そこに神が厳然と顕われる。
●瀧澤克己の
神と自己との関係は、
・不可分、・・・神は我なり。
・不可同、
・不可逆 ・・・しかし、我は神ではない。
この時点でアウト
神を信仰する者も法を覚る仏教徒もどちらも自力はありません
自力=自己満足
自分が中心になっている、こういう人がカルトの教祖様になっていくのだと思います
大いに違和感のある話であり御仁である
私は絶対に共感はできません
存在と実在と信心の入り混じった話ですが、重要なのはその人もまた決断や覚悟の下でキリスト教徒になったのだろう、と思いました。ある意味出家に近いのかな?